小さなからだ
薄暗い仕事部屋の木製の床が歩く度にギシギシと鈍い音を立てている。
つい先日電池を交換したばかりの古びた掛け時計が午後8時15分をさしていた。
羽山聡は手を止め、少し首を傾げながら先ほどまで手を込めていた目の前の作品を改めて見つめていた。
表面がザラザラした黒色のいびつな円形の淵に左手の親指をかけ、瞼をゆっくりと閉じて自分よりも手が大きいのか小さいのかも察しが付かない使い手を想像する。
約2週間かけて完成させたその器は、彼特有の光沢を抑えた渋みのある配色と、独特の形状が特徴だ。
聡がキッチンでコーヒーを淹れていると、リビングに置いたケータイ電話が着信を告げた。
画面に目を落とすと「美和子」の名前が表示される。
「今は話したくない相手だな」と思いながらも、聡はゆっくりと瞼を開き、応答ボタンを押し、耳にケータイ電話を当てながら簡易な作りのキッチンへ歩き出した。
「もしもし、私」
「…あぁ、わかってるよ、仕事場だ」
もう少しで一杯分になるくすんだ灰色のマグカップに手を添え、挽いたコーヒー豆と淹れた湯が織りなす茶と黒の渦を見ながら、静かに答えた。
「凛、どうしてるの?もう寝た?」
「あぁ、昼間にお袋と万博公園に行って走り回ってすぐに寝ちゃったって。」
「…そう。たまには凛と2人で出かけてやってよね。親子なんだから」
相手が言い終わる前に反論しそうになったが、必死に言葉に出すのは抑えた。
2.3分話したところで、「仕事に戻る」と告げ、電話を切った。
約7か月前、8年と3か月の結婚生活に終止符を打った。
最後まで気がかりだったのは、7才の一人娘の凛のことだった。
聡は職人として昼夜仕事に徹する職人で、美和子は美容室のパート社員、美和子が20時過ぎに帰宅するまでは、聡の父母が面倒を見るという生活を続けてきた。
孫煩悩な両親で、嫌な顔一つせずに凜に接してくれる両親の存在が、聡には有難かったし、凜もそんな両親を「じいじ」「ばあば」と呼んで懐いていた。
離婚が決まり、聡が凜を引き取ることになったのも、徒歩3分ほどの近所に住んでいる両親の存在が大きかった。
現在41才の聡は、36才の時、遅咲きながら漆器作家としての才能が認められ、みるみるうちに仕事に追われるようになった。
妻の美和子には悪いと思いながらも、結婚時の約束として渋々同意した「義両親の世話にはならない」という条件は、聡の仕事が忙しくなるにつれ、また聡の両親が、小学校から下校し、家に一人きりになってしまう凜のことを心配する気持ちと同時に、必然的に少しずつ崩壊していっていた。
美和子にも肩身の狭さを感じさせ、寂しい思いをさせていたことに気付きながらも、仕事に追われる生活を理由に自分勝手に彼女に「妻として」理解を得ようとしていた。
そのため、美和子が職場の美容院の同僚と特別な関係になっていたことさえも、聡にとってはさして驚くべき事でもなく、それもまた必然的なこととさえ感じ、冷静で俯瞰的な自分を恨みさえしなかった。
美和子のほうから離別を告げられたことさえも、屈辱などの感情はなく、例えるならば、職人としての立ち位置との引き換えに過ぎないほどに、仕事にのめり込んでいた。
それでも、美和子と凜を別居させることには不安がないわけではなかった。
美和子が美容院の仕事から帰ると、「ママ!」と満面の笑みで走り寄る凜の姿が目に浮かんだ。
凜は美和子が側にいるときには、特別甘えたで、聡が正午をまわって寝室に入ると、凜の頭に手を置いて自身もすやすやと幸せそうな顔で眠っているのだ。
「これまで通り、お義父さんとお義母さんがいるから平気でしょ」
そんな風に強がりながらも目を伏せ言うあの日の美和子の目には、うっすらと光るものがあった。
現在、凜は聡が仕事中は祖父母の家で過ごしている。
昔は突然の母親との別れにしばらく心を閉ざしていたように見受けられたが、昔からよく面倒を見てくれる祖父母には懐いていた。
朝、聡が寝息をたてる凜を起こし、朝食を食べさせ、学校に行く準備をさせる。
聡は午前6時半に起床するのが日課で、朝食を作る。
鳴れた手つきで2つ並べられた皿には、レタスときゅうり、それからスクランブルエッグと日替わりでカリカリに焼いたベーコンか足に綺麗に8つの切り込みが入ったソーセージが湯気を立てている。
朝食の時間が、2人の親子の大事な交流の時間だ。
大体、凜は寝起きはぼーっとしているので、聡が促進しないと着替えをしない。
前日から準備している服のコーディネートは幾分的を得てきている。
以前は美和子に任せていたため、女の子の服のコーディネートに苦労していた聡だったが、今では洋服箪笥を開けてすぐに準備ができるほどだ。
凜は学校で友達に服装を褒められる際、きまって頬を赤らめる。
学校が終わると、凜は祖父母の家へ向かう。
祖母は料理が好きなこともあり、時折オーブンを使ってクッキーやシフォンケーキなどのお菓子を作る。
それが凜の帰宅後の楽しみのお菓子タイムだった。
そして夕食を囲み、祖父母にその日の学校での出来事を話しながら祖母の手料理を頬張る。
そして仕事を終えた聡が20時半に凜を迎えに行く。
それが彼ら親子の日常だ。
その日、聡は作品の最終作業に追われていた。
焼きあがった陶器の底に炭でサインを入れる。
この作業も一つ一つ手作業で行うため、同じ商品をとっても微妙に差異が見られる。
もっとも作品の購入者には微々たる違いは分からないのだが。
午後8時20分頃、片付けをしていると、ゆっくりと玄関のドアが開いた。
そのドアの間から朝に着させた白色のトレーナーにチェックのスカート姿の凜が顔をのぞかせた。
「おう、どうした?めずらしいな。もうすぐ迎えに行こうとしていたところだぞ。今日の晩ごはんは何だった?」
聡が染料で散らかったテーブルを拭きながら尋ねる。
「シチューだよ。凜の好きなエビの入った白いの」
「そうか、寒いもんなぁ。もう少し待っててくれよ、今終わらせるから」
「うん」
凜は少し高さのある木製の椅子によじ登った。
そこから作務衣姿の父親の見ながら足をプラプラさせている。
その姿にほっこりとした表情を浮かべながら、聡はゆっくりと歩いて流し台のほうへ向かった。
ほとんどなくなりかけの墨色の塗料を水で流し、洗い終えた容器を和紙の上に並べる。
慣れた手つきで台を拭き、水滴で少し濡れた床を拭っていると、先ほど凜が座っていた場所の後方にある部屋から「ガシャーン」と音が響いた。
それと同時に聡は床を拭いていたタオルを投げだし、作業場へと走った。
幾方にも散らばった破片に囲まれ、凜がしゃがんでいた。
「凛、触るんじゃないぞ、どっか切ってないか?」
「・・・うん、大丈夫・・・」
凜は聡と目を合わせようとせず、突っ立ったまま床に散らばった破片に目を落としている。
「片付けちまうから、そっちの椅子に座っておけ。触って怪我しちまうと危ないからな」
そう言うと聡は流し台のほうへ戻り、隅に立てかけたほうきと塵取りを持って戻ってきた。
「・・・父ちゃん、ごめん」
立ったままの凛が、か細い声で凜が口にする。
「あぁ。凜、父ちゃんとの約束守れなかったか?」
割れた陶器を片付けながら聡はゆっくりとした口調で尋ねる。
「・・・」
聡は傍にあるアルミ製の屑入れの中に塵取りの中身を入れ、小さくため息をついた。
「凛?」
掃除用具を置き、何も答えずに俯く凜の目を覗き込む。
「あそこの部屋に置いてるものは触っちゃダメだっていつも言ってるよな?」
「・・・だって」
目を逸らすことができず、恐る恐る凜が口を開く。
「だって何だ?」
「・・・うさぎさん、可愛かったんだもん」
体をもぞもぞさせながら小さなからだから声を絞り出す。
「そうだな、でも絶対に手を触れないって約束したよな、凜、触ったら父ちゃんどうするって言った?」
「・・・」
穏やかだが気圧される雰囲気に凜は何も言えずに目を逸らそうとした。
「こら、どうするって言った?」
「・・・お尻叩くって」
泣きそうな顔になりながら聡を見上げる瞳は少女ならではの無垢さを含んでいる。
「そうだな、おいで」
そう言いながら聡は凜の手を引っ張り、先ほどまで凜が腰かけていた椅子に座ると、その小さな体を膝の上に俯せにした。
「や、やだッ!!」
「こ~ら」
そう言いながら、聡の大きな手が凜のスカートをめくり上げ、パンツを膝まで下ろす。
真っ白なお尻がさらけ出される。
聡は手を振り上げる。
パン!パン!パァァン!
「やぁ、やだぁ…」
「やだじゃないだろう」
バタバタと足を動かす凜の腰を押さえながら聡は手を振り上げる。
パン!パン!パァァン!
「ふえぇ~…」
20発ほど平手を打ち下ろしたところで、膝の上の凜が泣きだした。
それでも構わずに平手を振り下ろす。
「あれだけ言っただろ、あそこの部屋のものには触っちゃダメだって」
パン!パン!パァァン!!
「怪我をしたら危ないだろう」
パン!パン!パァァン!
「痛いよ~、うわぁぁん」
真っ白だったお尻はピンク色に色を染め、両尻を交互にぶたれ、熱を帯びている。
「ふえぇ~…」
パン!パン!パァァン!
「約束を守れない子はこうなるんだよ」
泣きじゃくる凜を見下ろしながら、聡は平手を振り下ろし続ける。
パン!パァァン!!バチーン!!
「わ~ん、ごめんなさい」
聡は叩く手を止めて、泣きじゃくってぐちゃぐちゃな顔の凜をのぞき込む。
「ふう…やっとごめんなさいできたか」
「ふえぇぇ~」
パンツをあげ、スカートを直してやる。
膝からおろされた凜は、お尻を押さえながら真っ赤な目を擦っている。
「凛、もう絶対にしないって約束できるな?」
「もうしない、父ちゃんごめんなさい…」
聡は凜を引き寄せると、優しく抱きしめた。
小さな肩は震えている。
「…せっかく父ちゃんが作ったうさぎさんの…」
胸の中で小さく言う凜を愛しく思った。
「あれは急いでるものじゃないんだ。また作るからもう気にするんじゃないぞ」
凜の頬を両手でおさえ、聡は凜の顔を見ながら微笑んだ。
そして頭をポンと撫でた。
「さあ、おうちに帰ろう」