春を呼ぶ。
季節外れです。
彼の頭蓋骨を開いたその先に、癌があるらしい。
二月も半ば、私と彼しか居ない放課後の教室で、数学の問題集を開きっぱなしにした佐久間裕翔が、彼自身が、そう告げた。
「どうして私に言うの」
彼はシャーペンを走らせる手を止めて、時々何かを憂うように目を細める。同じクラスの女子生徒から掃除を押し付けられて黒板消しを持つ私は、自慢のショートカットを揺らしながら、波を描くようにその黒板をなぞる。かれこれ、もう十五分ほど同じ動作を繰り返している。
きっと彼女ら自身、明日担任に叱られる事も分かり切っているのだろうが、今日を乗りきれたならばそれで良いのだ。私としても、特に予定があったわけでもないのでさほど気にしていない。
波を描く手を時々止めて、彼の様子を伺う。そのうちたまに、目が合う。けれど何もないから、またお互いの動作を再開する。
「どうして」
私が描く模様を縦縞に変えると、彼はシャーペンを机に置いた。その音が、空っぽの教室に反響した。打ち消すように、鳴り続けていた時計の音に気が逸れる。
「さあ、どうしてかな」
彼の返事にゆっくりと振り向くと、そこには、冬の夕暮れ時の白い空に視線を送る彼の横顔があった。笑うでもなく、かといって感じ悪いわけでもない、人間の表情を浮かべている。そのシルエットの縁が夕日で光っている。とても、綺麗な横顔だ。
「本当に、顔整ってるよね、羨ましい」
彼は動かない。けれど、その口元が僅かに緩んだ。
「俺の話、聞くの嫌だった?」
予想もしない返事に、キョトンとしてしまう。それを横目に見ていた彼が、言い聞かせるように言った。
「話題、突然変えたでしょ」
「ああ、ごめん、そんなつもりはなかったの。ただ、あまりに綺麗でね、つい口にしちゃった」
私は小さく苦笑しながら、黒板消しを置いて彼へと歩み寄った。近づく私に釣られるように彼は私を見た。
「多分、たまたま風瀬と二人だからかな」
彼のもとに辿り着いた私の手を取って、彼は自分の額の上辺りに触れさせた。
「ここにある?」
「そう、ここにある」
彼と真っ直ぐに視線が合う。互いの瞳の深い、深い所を見ているような。
「そっか」
「うん」
彼は私の手を放した。自然に、ゆっくりと腰の横まで手が降りてくる。
「治るの?」
「治らないね」
視線は逸れない。鴉の飛び過ぎ去る黒い影が、二人の景色を一瞬途切れさせた。
「死ぬの?」
「ストレートだなあ」
間髪入れずに返事をした彼は、目を閉じて笑った。私は彼を見つめる。笑わない。
それから半分程、一人で笑い切ったのか、彼は「はあ」と深呼吸をして、それからまた私の瞳を見た。
「皆死ぬよ。早いか遅いか、それだけ」
声が真っ直ぐに頭を貫通した感覚が鮮明に伝わった。
彼は、佐久間裕翔は、死ぬのだ。
翌日から、彼は学校に来なくなった。来れなくなったのだ、入院を強いられて。朝のホームルームで、担任の先生は表情を曇らせて彼の病状を発表した。皆動揺した。
でも、それだけだった。
放課後、いつの日か提出しそびれたノートを渡しに職員室へ寄った時に、入り口のテーブルに風変わりな手紙を見つけた。幼稚園に届きそうな、くまとかうさぎとかのイラストが印刷された、可愛らしい手紙だった。誰からだろうと裏を確認したら、彼からだった。宛名は私。
そうして、その日の放課後、私は彼の入院する病院へ足を運ぶ事になった。
彼の居る病室に着く。
「勉強、好き?」
授業ノートを向けて尋ねると、彼はにやりと目を笑わせて、
「新しい知識を得るのは好き。努力は苦手だから、勉強は好きじゃないよ」
そう言う。私は私の善意を蔑ろにした彼に「面倒だな、何で私ここに居るんだろ」とわざと嘆息したように呟いた。
「えらく俺を貶すんだね」
「人の善意を蔑ろにしたやり返しだよね」
「あはは、ウケる」
何がウケるのだろう、こっちは真剣やぞ。
「ところで、どうして私なの」
話が一段落済んだ所で、私は病床の横に設置されていた丸椅子を自分の方へ寄せて、改めて彼と向き合った。昨日と同じくらいの時間、彼は今日も夕日で縁を光らせていた。
「誰かに話したの、初めてだったんだ」
「ふーん、そうなんだ」
そんな単調な会話の間、私達の視線は同じ窓の外の景色を向いていた。遠くの空を過ぎて行く黒い斑点のみが、今まさに静まり帰ろうとしている景色に動きをもたらしている。
「どうして私? 私で良かったの」
外で看護婦さんの話し声がしている。和やかな雰囲気だ。しんと静まった病室は退屈だ。退屈には慣れているつもりだが、この退屈はどうも居心地が悪いものだった。
「どうしてって、それは嘘偽りなく、本当にたまたまだよ、たまたま風瀬がいたから。しかも、誰でも良かった」
最後は少し申し訳なさそうにそう言って、彼は布団の上で手を組んだ。その仕草を見た途端に、私の心に猛烈に何かが込み上げてきた。焦りにも似たような感覚、しかし憂いとも呼べるかもしれない。様々な、複雑な、どうにも言葉で形容し難い感情が突如として私の感覚を支配する。私の中に憶測と利己心で構成された彼が、込み上げてきた。
咄嗟に、組まれた彼の手を両手で包んでやる。
「大丈夫だよ。大丈夫ではないけど、とにかく今は、全部大丈夫だよ。私で良いよ、誰でも良かったんなら、やっぱり私でも良かったんだよ」
彼は視線を動かさないまま、眉をハの字に傾けて、口角を上げた。それを見て、私は少し、込み上げていたものが肺から外に逃げてくれたのを感じた。自然と、視線が下がる。
僅かな沈黙の後、彼が言った。
「好きな季節を教えて」
はっとして顔を上げると、さっきより随分と暗くなった空を背景にした彼が、優美な眼差しで私を見つめていた。
「私は春が好きよ」
それを聞いた彼はくすりと笑って、そうかそうかと愉快そうに目を細めて零した。
それから、改めて私の瞳を見据えて言い放った。
「三日後、庭に出られるんだ。自転車で迎えに来てくれよ」
とても活き活きとしている。その様子に、私も心中少し高揚してきた。
「自転車でって、何するつもり」
「風瀬の好きな春を呼びに行くんだよ!」
やけに楽しそうだ。
「どういうこと」
私は困惑してそう尋ねたが、彼の興奮がおさまることはない。
「行き先は明日決めよう! 旅行のパンフレットを持ってきてくれよ、日本で一番早く春が来るところを探すんだ!」
「インターネットで良くない?」
「良くない」
私の提案に対し、彼は気を一変翻し真面目な面持ちで否定した。予想外の圧に少し身を引いてしまう。
「準備で手を抜いちゃ駄目だ、それ相応の結果になるぞ」
随分と真剣に物を言う。そんなこと私に言われても、という言葉が浮かんだが、それは彼にとって余りにも理不尽な返しなのでぐっと飲み込んだ。
そして、そんなやり取りの間に私は「私の好きな季節を呼びに行く」とはどういうことかが、まだ私が知らなくて良いことなのだと察した。
「分かったよ、パンフレットね、コンビニとかで探しとく」
それを聞いて、彼はうんと満足げに頷いた。
まったく、今どき割引条件もない旅先をパンフレットで探すことなんてあるだろうか。インターネットに頼ったほうが効率が良い。
……効率、なんてどうでも良いのかも知れない。本当に大切なのは、効率では無いのかもしれない。
少なくとも、彼にとっては。そう思った。
そして、そんな時だった。
「ありがとう」
包み込んだままだった彼の手が、今度は翻しに私の手を覆った。彼への憂いに少し下がり気味だった視線を探り探り上げて、やがて彼を見る。
「っ……」
どうして、そんな目をするのだ。佐久間、佐久間裕翔、きっとそれは、お前がすべき目ではないだろうに。
「そんな目で見ないでよ、悲しそうに笑わないで。その顔嫌いなの。今は見たくない」
言っても、彼はちっともその雰囲気を変えようとしなかった。私は胸から何かがぐんと込み上げてくるのを感じて、思わず彼から自分の手を抜き取った。その拍子に、椅子から立ち上がる。
彼は「あっ」と掠れた声を出して私を見た。
激しい鼓動を感じる。心なしか呼吸も少し荒い。
だが、悟られないよう冷静を装う。
一連の流れで、私の視線は斜め右下に下げられていた。反対側にある彼の顔は見えない。どちらかというと、彼の足元のあたりを見ているし。
だが、つんと張った細い糸のような視線を感じる。きっと強く動けば直ぐに切れてしまう。蜘蛛の糸みたいな、そんな視線を。
それでも、私は彼を見れなかった。
「…明日ね、パンフレット持ってくる」
言って、私は足元に置いていたリュックを肩にかけて、振り返らず、足早に病室を出た。
単調な病院の廊下を歩いて出口を目指す。ただ、彼の手の触れたそこだけが強く意識を引きつける。
なんて、体温の感じない手の平だっただろう。温もりなんてなかった。そこにあったのは、ただの肉だ。人の手の形をした、肉の塊だった。
だが、とても心痛そうな、悲しい感じがした。
犬のように明るく猫のように気ままな彼の、その対に存在する、恐怖にも似た世界に触れた。
かわいそうに。何故運命は彼を虐めるのだろうか。あんなにも怖がっているというのに、どうしてこんな。人は運命に帰属する生き物なのだろうか。人が無ければその運命も無い。運命が人に帰属しているべきなのに。
でもああ、違うのだ。私達は、そんなたった小さな運命に縛られているわけではない。私達は、抗えぬこの世の運命の上に存在しているのではないだろうか。自分の物でない絶対的概念に、生死を強制されているのではないだうか。
そしてたまたま、彼は生きられないのだ。たまたま偶然、何億もの命の中で、運命によってそう定められたのだ。
出口を出た頃には、既に東の空に月が見えた。ほぼ満ちたがどこか物足りない、そういうもどかしさを感じる。
私が気にすることでは無い。そう頭で理解はしていても、彼についてこうも哲学的になってしまう。自分から干渉する必要はなく、彼が求めた事だけすれば良い。彼のしてくれに応えられたならば、それで良い。彼が最期を素敵な気分で迎えられるように、そうすれば良いのだ。
それだけで、良いのだ。
「窓、開けてるんだね」
翌日、学校が休みだから午前中に彼の病室に顔を出すことが出来た。病室の扉を開けると一番初めに、薬臭い冷たい廊下とは裏腹に、暖かな香りが風に乗ってふわりと香った。その雲路を辿ると、窓が全開になっていることに気が付く。風でカーテンが揺れていた。
「うん、今朝外の日差しを見てね、きっと温かいだろうと思ったんだ」
「案の定だったね。そうだ、おはよう」
「そうだね。おはよう風瀬」
挨拶を交わして、昨日と同じように病床の横に設置された丸椅子を寄せて腰を下ろした。
彼の腹のあたりには、先程まで朝食が置かれていたであろうオーバーテーブルが展開して設置されたままだった。畳む畳まないは本人の意思に委ねられるものなのだろうか。私は入院の経験が無いので分からないが、多分きっとそうなのだろうな。
「パンフレット持って来た。テーブルの上、広げて良い?」
私は肩掛けの鞄に入れて持ってきたいくつかのパンフレットのうち、その一つを取り出して見せた。彼は微笑んで、こくっと小さく頷いた。
広げると、彼は早速ページをめくり始めた。途中で「ペンが欲しい」とか言って一応持ってきておいた私の筆箱を使い始め、三ページに一つくらい、丸を付けている。
「一応、桜の名所が沢山載ってるのを選んだつもり。どうかな、まだ全部は目を通せてないけど、お目当ての場所は見つかりそう?」
「うん、いくつかはね。でも願っているものと少しだけ違うんだ」
彼はボールペンの先でトン、トンと雑誌を叩きながら答えた。頭を悩ませているようだ。どうもすんなりと丸が付いていたわけではないらしい。彼の様子を見ながら、私も何も言えない。その途方もないような沈黙が、窓の外に移ろう街の変化をありありと感じさせた。
実は昨晩、私は彼にあれだけ強く言われたにも関わらずインターネット検索をかけた。
『日本で一番早く春が来るところ』
伊豆の河津桜が、どうやらそうらしい。二月上旬から三月上旬までの一ヶ月間に渡り咲くらしく、取ってきたパンフレットの中にも、確か載っていた筈だ。彼が開いているそれの、もっと後ろの方に。昨日目を通したときに見た記憶があるのだ。寧ろ、気になってインターネット検索をかけたのはその後だった。
私は丸椅子から軽く腰を浮かして、彼の手の下に敷かれたパンフレットをするりと取り上げた。それから十数ページめくって、
「これ、どう」
そう言って指をさし、改めてオーバーテーブルに広げてみせる。彼は指さされたそれをまじまじと見つめて、やがて優しい眼差しで私を見た。
「知ってたの」
反して冷たい声音だった。調べたのかと言わんばかりの冷酷な一言に聞こえた。それは私に、実際インターネット検索をかけたことへの後ろめたさがあったからに他ならない。彼がそれを意図していてもいなくても、そう聞こえた事実はその私の中に眠る感情を呼び覚ましたのだ。
「昨夜、一応少しは目を通してた、からね」
さっきも言ったけれど、結局私にはこれしかなかった。
「ここが良い」
微笑みを浮かべてそう言って、彼は私が指した河津桜の名所、河津川を挟む河津桜の並木道が載ったページを折って私に返した。『ここが良い』その目には、昨日にも見た期待の光が宿っていた。
私はそんな力強い眼差しに何とか気を持ち直して、こくんと頷いてみせる。
「分かった。明後日だったよね、庭に出られるの。ちゃんと迎えに来るよ」
「ああ、頼むよ」
視線があったまま、いっときの沈黙が降りる。きっとほんの十数秒の事なのに、たったそれだけ視線が合うとむずむずしてしまう。けれど先に逸したほうが負けみたいな空気もお互いどこか感じ取っていて、それが分かっているから面白くなる。
くすりと笑みが漏れてしまいそうになった頃、間が良く肌暖かな風がゆるりと窓から入って来て、二人の髪を揺らした。
微かに桜の香りが混じっていた。
「庭の桜だよ、行きしに見なかった? やっといくつか咲いたんだ」
言いながら、彼は窓の外へと視線を移した。その視線を追って私もその桜の木を見つける。
初見で気付くには余りにも小さな桜の木だった。苗木から数年成長したような、身長一メートルほどの桜の木。
「あれは言われないと分からないよ流石に」
「そっか」
「うん」
しかし目を凝らしてみると確かにいくつか咲いているのだ。もっとよく見てみると、それこそ蕾はたくさん付いている。二月も半ば、まだ少ない開花数とはいえ、あの子達も結構な早咲きではないか。
「春って感じだね、まだ冬のはずなのにね」
小さく零した。
「旧暦では如月、二月は一応、春の真ん中辺りだったらしいよ」
呼応するように彼がそう言ったので、私はジト目で睨む。
「勉強は好きじゃないって言ってたじゃん」
「知識を得るのは好きって言っただろ」
それで伏線回収のつもりか。ああ言えばこう言うし、調子が崩される。考えてみれば毎回私を試すような含みのある問い掛けをしてくる。少しは素直にモノを言えないものか。
「減らず口め」
少し遅れてそう捻り出すと、彼はくすりと笑ってこちらに振り返った。
「風瀬も同士だと思うけどね」
優しく細められた目が柔らかく私を収めていて、彼が見ている私とその景色がまるで自分自身の物のように感じられた。彼の世界を共有した様な錯覚を覚えて、一瞬トクンと胸が高鳴った。
「一緒にすんなし」
私にとっては、とても分かりやすい照れ隠しだった。
よく晴れた冬の日の昼頃、私は佐久間裕翔を隣に連れて電車に揺られていた。案外簡単に抜け出す事ができた。付き添いの看護師さんもおらず、勿論病院の門も開いていたし、正直管理が甘過ぎたと思う。その甘さについては、脱走を図った彼自身も拍子抜けといった様子だった。自転車は駅前の駐輪場に置いてきたが、これならわざわざ自転車で来なくても良かったかもしれない。
学校は休んだ。私のこれからも続く学校生活と彼に残された時間とを天秤にかけると、勿論後者に傾いた。当たり前の話だ。
車窓の外の景色に視線を投げている時だった。
「コート、ありがとな」
声に反応してうっすらと反射している彼の方へ視線をやると、彼もまた窓に写った私を見ていたようで目が合った。
家を出る際、彼が病衣のまま病院の門を出るのは如何なものかと思って咄嗟に父のコートを持ってきた。よく見ると、袖を通常よりも少し余らせている。肩のラインも幾らか降りているようだ。
「お父さんのを勝手に持って来たの。佐久間は身長高いからきっと着れるだろうと思って。でもちょっとだけ大きかったね」
くすっと笑ってそう口にすると、彼は悲哀に満ちた笑みで、窓に反射して写った私を見たまま、透いた景色の遠いところを見つめた。それを見て少し、自分の安直な発言に対しての自責の念を感じた。
「うん。このコートが似合うくらい、大きくなりたかった」
彼の言葉に、心が縮むように痛くなる。つまり、父親になりたかったということだろうと思った。そんな気持ちもどこか持っていたのだろうと憶測した。三日前、彼の手に触れて感じたあの哀しい気持ちがまた胸の中に沸き起こる。病室で呑気に時を過ごす外面に覆われた、本来、表に出て良い筈の素直な感覚を思ってしまう。
思わず、本当はまだ生きていたいかと尋ねた。それは言葉と扱うには余りにも私の心の内と重なってしまう程に、自然な問い掛けだった。
「分からない」
その時彼はそうとだけ答えて、膝から爪先までをコートで覆うように抱える。病院で履いていたスリッパは自転車を漕いでいる途中で脱げたらしい。裸足になったせいで爪先は薄紅色に焼けていた。彼はそのまま膝に顔をうずめて、僅かな沈黙の後、ごもと口を動かした。
「生きてしたいことがまだよく分からないから、今はどっちでも良いんだ、生きていても、このまま死んでしまっても。だけど、このままするずると生きていればその内、きっとすぐにでもそれが見つかっちまうだろうし、そうなると間違いなく俺は生きたいと願っちまう。願っちまうと、多分、定まったこれからの自分の運命に耐えられないと思うんだ。だから、きっと生きていたいのが本当のところ、反対に、今のうちに死んじまいたいと思うところが浅い所にあるんだ」
器用に蹲る彼の丸まった首を横目に、電車の振動が嫌に目立って響いた。察するに、彼の中には生き死にの望みが重なって存在していて、そのどちらかを見ることで、生きたいとか、死にたいとかの意思がその時のみ決定されるのだ。他の何を見るにも判断を委ねられず、必ずその何方かを、彼自身が見て、選んだ方のみが意志を食う。しかもその時のみの気持ちで、そのほんの数分後、言わず数秒後には覆るか、または、また二つが重なってしまう。
思えばこれは彼だけにおける話ではなくて、私のような何となしに生きている人間にとっても同じく言える話ではないか。しかもそれは生き死にの望みに関わらず、様々な事象において同様の思考が覚えず繰り返されていると思う。
彼は生き死ににおいて何ら特別な思考をしているわけではない。ありふれた無数の思考の一部に、たまたま生き死にを取り上げて話したに過ぎないのだ。そして、私が尋ねたのも、それもそういうことなのだ。
「聞くまでもないこと聞いちゃった。ごめんね」
「謝るなよ、聞かなきゃ気付かないことだってある」
彼は体を伸ばして私を見た。
「聞いて気づいたことは、聞くまでもないことなんかじゃないさ」
つい今までの鬱な空気とは打って変わって、彼の目は力を取り戻していた。
ふと間を察したように、深緑だった景色が開け、私達の座る座席と反対側、進行方向左手の窓の外には、深く硬い青をどしと構えた太平洋が広がっていた。空には薄く雲が走っていて白群色に霞んでいる。海と対比された軽い景色は、その霞さえも輝かしく、侘び寂びを感じさせた。
伊豆稲取から、目的地河津まで一分程度進んだ辺り。重たくも親しみ深い静けさが、うっとりとしてしまうほどその景色に馴染んでいた。
「もう着くね」
「長かった?」
「ちょっとだけ」
「そっか、そうだな、同感だ」
熱海から伊豆急行線に揺られてかれこれ一時間程。大した距離にも思えないが、伊豆半島の輪郭をほぼ半分なぞるだけはある。やはり大した距離だ。
「良い旅だった」
彼が満足げにそう言って、天井を仰ぎ目を瞑る。それを横から、少し見上げるような形で見る。
「まだ目的地に着いてすらないよ」
くすっと笑って、そんな彼をじっと見つめる。
相変わらず整ったその顔立ちは、女の心を小さく燻るものに変わりなかった。
静岡県賀茂郡河津町、河津川沿いの並木道を歩く。視界一面を覆う河津の桜に息を呑みながら、その景色にどんどん深く沈み込んでゆく。本当に見事な物だった。枝にぎっしりと詰まった桜色と隙間から覗いた群青との対照が幻想的だ。私は、日常生活ではまず目に出来ないであろうそんな壮大な桜花の歓迎に、体の表面がぴりり痺れるのを感じた。並ぶ木の幹から伺った河津川は浅く川底が薄ら見えているが、その淵はいくつか若竹色に染まり、大きいものから小さいものまで、斑に模様を浮かべていた。冷たく流れる川瀬の水音が、なんだか高揚感を煽る調子で聴覚を刺激する。
「さぁーむいっ!」
コットンニットに父のコートを羽織っただけの彼が、盛大にくしゃみをしながらそう叫ぶ。突然のそれは、同時に私を酔いから覚ました。
「我慢してよ、言い出したのはそっちなんだから」
彼はコートのポケットに手を突っ込んで、鼻をいわせながら隣で震えている。しかし、それほどだろうかと困惑してしまう。
「熱海でもそうだけど、最近はもう、少しずつ暖かくなってきてるよ。今日の気温はどっちも、十二度だって」
スマホの画面を見せてみると、彼は少しだけ絶望じみた表情を見せて、それから顔を少し上に向けた。
「俺は寒がりなんだよ」
一般的には、コートだと暑いくらいの気温だ。そんな自信満々に言うな。
それから、あまりにも寒い寒いと主張する彼の背中を擦りながらどれだけか歩いて、河原に出る階段を下った。並木道と比べてやはり日当たりが良く、確かに先程までは少し寒かったかもしれないと錯覚してしまう。見回すと、私達以外にも数人がここまで躍り出ており、昼食を摂ったりしている。少し遅めのお昼ご飯、といった様子だった。
辺りに木がないので、久しぶりに風を感じた。三月にも入っていないのに、冷たい風はもう少しだけ暖かく吹いている。川の水面を撫で、小さく小刻みな波紋を起こしながら、それは並木道の方へと吹き抜けてゆく。少し強ければ花弁を落とし、そしてやがて、私達の町まで吹くのだろうか。それとも途中で、事切れるだろうか。どちらにせよ、そいつはその行き着いた先に、確実にここの景色を運んでゆくのだ。
「太陽は偉大だ」
仁王立ちで左手を腰に当てて反対の手で太陽を覆いながら空を仰ぐ佐久間を見ると、その瞬間を狙ったかのようにそんな台詞が気障に漏れた。
「汗かかないでね、コートに男の匂いがつくとお父さん怒るかも」
呆れ混じりにそう言うと、彼は高笑いをして、そのまま、なまじ見下ろすように意味深とこちらを見た。
「大丈夫、風瀬が怒られることはないよ」
高笑いが少々尾を引いて、増して奇妙な笑みを浮かべている。
何かを見透かしたような鋭い眼光が、浮上しかけた私の疑心を寸前のところで切り裂いた。言葉に詰まり、吐こうとした息が喉の手前で堰き止められて思考のどこかに引っかかった。
それについては、何も返答出来なかった。対して内側のどこかで、自分を問うようなよく分からない気持ちが芽生えた。私の知らない私の手を、彼が掴んで少しだけ引いたような気がした。忘れたか、もしくは初めから知らなくて今何か知りそうになっているのか、像の、輪郭すら浮かばない不鮮明な存在を、今確かにそこに意識した。
「戻ろう、少しだけ疲れた」
私が何かを垣間見ていたその僅かな沈黙のあと、そう言った彼は一度ぐっと伸びをして、私に背を向けて歩き出した。また並木道の方へ階段を目指しているようだ。
「そう、だね」
思考の渦に呑まれそうだが、彼が行ってしまうなら追いかける他ない。彼が戻ろうと言ったのだ。戻ろう。彼のしてくれに応えるのが、今、私の役目なのだから。
階段に差し掛かる頃、佐久間は突然振り返って私の腕を引いた。一段目に躓きかけたので咄嗟に怒りが湧いたが、そんな視線を向けるより先に体が浮いて、瞬く間に、私は彼の隣に並んでいた。
「こんなでも、まだ力はある方だと思わない? 俯かないで、話しながら歩こう」
彼は始めこそ冗談めかしく自慢をしたが、その後は、彼自身がよく見せる、寂しいような諦めたような、けれどどこか真剣味を帯びた声音でいて、それを受けた私はまた、彼へ吐き出したかった言葉を失った。そもそもさっきから彼に吐き出したい言葉は、気持ちが前に出ていただけで言葉として形を持ってはいなかったかもしれないが。
彼はまた先に歩き出した。裸足で歩く彼の足音は本当に静かだった。まるで、そこには居ないかのように。対して、ガス、ガスと階段の表面を自分の靴の裏が擦る音に、やけに意識が集中するのは気のせいだろうか。話しながら歩こうと言っておきながら、階段を上る間、彼は一度も言葉を口にしなかった。俯かないでと言われて、前を進む彼の背中をずっと見つめていたけれど、男というには華奢な体格で、それはまるで彼に迫る死期を形容しているようにも見えた。そして私は、少し切ない気持ちになった。その間もずっと鳴り止まぬ足音がやけにうるさい。特段強く石肌に足を擦りつけているわけではないし、あくまでこの不愉快は私の頭の中で生まれたものであるが、私の中で制することは出来なかった。
彼は階段を上り終えると、私が最後の段に足をかけるのを待たず、ただ引いていた手を放してまた先を行った。日陰に入ってゆく姿はなんとも冷たかった。けれどどこか、芯の温まったような沈着冷静とした覇気も感じられる。それは、これまでとは違って彼の目線が道のずっと先の方を捉えているように見えたからだ。何か意を決したように見えたからだ。
二人のこの関係が始まってから五日間、彼の口から告げられる意味深でふわふわとした言葉。その数々を思い返すと、さっき私の腕を引いたとき述べられたものには幾らかの決意が込められていたようにも感じる。歩きながら話そう。そうすることなんてこれまでと何ら変わらない。ああして改めて言った彼の態度に、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。
「迎えに来たのかと思ったんだ」
そう言いながらふと足を止めて、彼は私が隣に並ぶのを待った。私が頭に疑問符を浮かべて彼に近づくと、それを察したように彼は優しく微笑んだ。それから、やっぱりね、と呟いてまた並んで歩き始める。
「てっきりそうだと思ったから事情を打ち明けたんだけど、ただ憶測に過ぎなかったみたいだ」
「何が言いたいの、ちゃんとはっきり話してよ」
私が不機嫌にそう吐き付けると、彼はいっとき口を噤んだ。辺りが静かになって、ますます空気が重く、苦しくなってゆく。もはや川のせせらぎも、木々のざわめきも聞こえない。互いに互いだけを意識して、ただ硬い地面の上を歩く。しかしこうも感情的になっているのは、どうやら私だけのようだった。彼は変わらず覇気を放っており、私が怯むのも当然のことなのだ。
結局しばらく経った頃、彼は立ち止まって、自分の頭を銃を構えるような仕草で指差した。やっと話し始めるのだと、私は息を呑んだ。
「ずっと髄膜腫だと診断されてた。セカンドオピニオンを受けなかったのが良くなかったんだけどさ」
彼の頭蓋骨を開いたその先の、癌のことだった。
「脳転移したメラノーマ、悪性黒色腫だって、もうほぼ手遅れな状態で診断されたんだ」
そう話す彼は笑っていたけれど、その目に浮かんでいるのは懸念そのものだ。痛む私の心を他所に彼は続ける。頭にかざしていた銃は、ゆっくりと腰の横まで下ろされた。
「生きられないって分かったら、色々なものが見えた。人の笑う顔を見て心の奥から幸福感が湧き出てきたり、人の努める姿勢を見て肌の表面が痺れたり、人の苛立つ様子を見て生への活力を感じて、人の悲しむ背中を見て抱擁感に駆られて。ただ毎日生きている行為そのものが全て、心から尊いものだったんだって、ようやく実感した。同時に、自分の死にゆく経過が日々ぼんやりと侵食してくる」
それから一呼吸置いて、彼は自嘲気味に言った。
「風瀬が死んだ日、落ちる瞬間を見送ったにも関わらず何も感じなかったのが、今じゃ信じられないな」
話し始めてから今この瞬間まで、彼は勢いに任せて言葉を並び立てた。だがこう述べた時、その目にはかつてないほどの慈悲と嫌悪、そういう様々な感情が込められていたのだろう。私はそれに真正面から打ち砕かれて、自然と、その足は歩くことを止めていた。
風瀬が死んだ。
彼の言う意味は理解に難くなかった。私はその告白で全てを思い出したような気がした。「気がした」と曖昧なのは、これまでもそれをきちんと覚えていたような実感が今あるからだ。かつてこの身が犯した過ちを、決して忘れられたはずがないのだ。常に全ての思考の裏面に張り付いて、私の身から肌一枚も離れることは片時もなかったのだ。
だがそれが逆に、その事実をまるで当たり前に過ぎ去った昔のことのように思わせていて、今は、また別の自分であるかのような身軽さが確かにあった。だから、なまじ忘れていたような感覚にあったのだろう。
忘れてなど、いなかった。ただその件が余りにも気にするほどの価値を持たないから、水面まで顔を出さなかったわけだ。
「君は気付いていないの、風瀬」
彼は悲しそうな笑みを浮かべながら私の髪を撫でた。自慢のショートカットが耳にかけられる。見当違いなことを言う彼から、私の視線は自然と逸れていた。
「それとも、ドラマとかでよくある記憶喪失とか」
嘲笑交じりにそう言われてあまり良い気はしなかったから、彼から逸れた視線はさらに自分の足元の方へと落ちていった。
しかし次の瞬間、それは一気に彼の顔へと引き上げられてしまう。
「っ―――」
身を屈めた彼は、覆い被るようにして私を抱擁した。間際に見えた目には薄く涙が浮かんでいるようだった。背中でシャツを掴まれる感覚。筋肉質にも関わらず思うように力の入っていない腕。肩は微かに震えていた。
彼に対して少しばかり不快な感情を抱いていた私だが、なんだかとても傷心的な雰囲気を帯びたその仕草に、どちらかといえば同情にも近いものへと気持ちを塗り替えられる。
それから、急に鼓動が速くなった。自分の意思に関係なく、無意識の中から、淡く炭酸が湧き上がるような感覚だった。
吹き上げるように、川の方から風が吹き込んでくる。
彼の髪が揺れる。
懐かしい匂いが鼻腔に広がった。
ツンと糸が繋がったような感じ。
ああ、違うな、ちゃんと忘れていた。忘れていたことがあった。
きっと強く動けば、糸は直ぐに切れてしまうだろう。だから小さく、時間をかけて、一つ一つの関節を、筋肉を丁寧に動作させていく。
私は彼の華奢な胴体を優しく包み込むように、彼の腰の辺りで腕を交差させた。久しく感じることのなかったぽかぽかとした安心感が胸の底に広がっていく。
まるで花が開くような、日が昇るような、暖かな風が草を揺らすような広大さが、自分の中にあった。
私は丁寧に口にする。私らしい呼び方で、彼の名前を。
「裕翔、だね」
震えていた彼の肩が、腕が、いっとき静止する。その僅かな静止の後に、やっと、彼は私を強く抱きしめた。どっしりと彼の体重がかかる。汗ばんた首筋、はねた黒髪、華奢で大きな体。ふわりとラベンダーの香りが漂う。
「おかえり、端流音」
ぐっと力の込められたハグは心地良いくらいに少し苦しくて、しかしそれに反して、そう私の名前を呼ぶ声はか弱く震えていた。私は交差させていた腕を解いて、自分のよりもずっと広い彼の背中に互い違いに触れた。手のひらを大きく広げて、より広く彼に触れた。
「ん、ただいま」
段々と蘇る日々。同じ文芸部で、一番よく言葉を交わした友人で、でもやはり男女間の友情なんて実現出来なくて、互いに自分にないものを欲しがるようになって。そうなるまでに半年もかからなかった。一年くらい、より親密な関係を楽しんで。沢山の初めてを彼に捧げた。彼も私にそうした。それから、あれほどまでに憎い気持ちになれること、嬉しい痛みが存在するのだということを知った。何もかも新しく広がった世界で、私達は自由だった。何もかもが嬉しかった。彼の為に泣いたことも、彼のせいで泣いたことも、どんな時も「好き」だったわけじゃないが、どんな時も「大切」だった。互いのこと以外全部どうでも良かった。彼しか見えないし、私しか見えていない。そんな共依存的な世界が私達の間には濃く深く広がった。
―――そんな愛愁染着も、身を置く環境が変われば化けの皮が剥がされる。二人を隔てる壁は、確かにそこにあったのだ。
互いに壁の上から垂らされた糸の両端を握って、その糸があたかも求める人の手であるといつからか錯覚していたに過ぎない。
夏が待ち遠しかった去年の春も終わり頃。受験生としての日々は想像を遥かに越えて苦しくて、彼は勉強は嫌いだと言うけれど成績は良いし、伸び悩むと言っても常に私の遥か先にいる。今に分かった話でもなかった。思いを告げて、傍にいたいと強く願ったあの日にも既に知っていた。だが突き付けられたその現実的な数字によって、私は一方的に、彼への距離を感ぜざるを得なくなったのだ。
そんな日が実はそれより前から続いていた。学校を卒業すれば見なくて済む数字だと言い聞かせて、私はその壁に気付かない振りをし続けた。
そうやってずっと、無自覚にも壁に頭を殴り付けていたのだ。
ぷつんと何かが切れた音がした時には、自分のことしか考えられなくなっていた。いいや、自分のことすら、考えていなかったかもしれない。
彼には相変わらず好意を寄せていた。腹を立てることも多くなっていたが、それでもまだ傍に置いて欲しいと、これから先も一緒に居たいと強く願っていた。それはもうただの依存であると言われればその通りである。間違った執着なのかもしれない。だが自分の中にはもうそれしかなくて、彼が居なければ、きっとこれまで積み重ねてきた努力も水の泡になってしまう予感がしていた。意に背いて関係を切ることが正しかったのだとしても、自分にそれは出来なかった。
葉桜が青々と美しく茂りだした頃、うちの高校で自殺事件が起きた。目撃者は十三名の生徒、その一人が佐久間裕翔だった。
今になって、彼に対する強烈な懺悔が込み上げる。自分の行動に、果たして何の意味があっただろうか。彼のことを一切考えていなかったのは言うまでもない。しかし自分のことを考えていたとしても、果たしてその行動が、自分にとって何になるのか。自ら迎える最期を一番の想い人に突然見せつけて、何を残そうと思い立ったのであろうか。彼にそんな心的外傷を負わせて、私は満足感に溺れるだろうか。億が一にもそんなことはあり得ない、と断言出来ないのは心苦しくあるが、だが決してそんなことは思わない筈なのである。
そんなことを考えていると、私の腕はいつの間にか彼の背中から離れていた。
一段落ついて、冷静を取り戻して彼に意識を向ける。そうやって私が思考に浸っている間も、どうやら彼は、優しく私を抱擁し続けてくれていたようだった。最初のようなぐっと苦しいものではないが、かえってそれが心地よい。
「ごめん」
彼の胸の中で小さく述べると、頭に添えられていた手がふわりと置き直された。それから、優しく諭すように彼は言い始めた。
「…フロイトって、哲学者な。人間は大切なものを亡くしてしまうと、悲哀をやがて自責へと変化させる。相手のことを考えるうちに、自分の中にあった相手への憎しみとか怒りを自覚し始めて、自分は心の中で、無意識のうちに相手の死を望んでいたのではないかって感じ始める。若しくは、相手が生きているうちに、もっとしてやれる事があったはずなのに、と。悲哀がやがて、そういう自責の念に変化するんだ。彼曰く、それを『強迫自責』といった」
なんだか小難しい話がはじまったが、これも彼なりの優しさなのだろうと耳を傾ける。彼は続けた。
「そういう精神状態を詳しく分析して、混沌とした感情を整理する方法をフロイトは『精神分析』って言ったんだけど、その中で彼は、整理の過程にいくつかの課題をこなすことが必要だと説いたんだ。いくつか試したんだけど、例えば、愛着依存の対象からの離脱『喪の仕事』とかね…俺で言う、端流音への執着をやめようって話なんだけど」
やめなくて良いのに、と少し思ってしまったが、残された彼の幸せを願うのも確かなので、彼がその『精神分析』とやらを試したという行動力と切り替えには、どこかほっと安心する気持ちがあった。
黙ったまま、続く言葉を待っていた。待っていたが、直ぐに続きが述べられるわけではなかった。それから数秒ほどの沈黙を経て、彼は抱擁していた手を今度は私の肩に置き直して、自分から引き離した。視線の合わないまま沈黙は続く。私は行き場をなくした手を胸の前に彷徨わせる。
じっと視線を感じてふとそちらに向くと、彼の頬には静かに涙が伝っていた。けれど、笑っていた。
「無理だったな、結局」
過程を踏んで癒えるほど単純じゃない、理屈では分かっていても、感情がやはり追いつかなかったと、彼はそう語った。
「ほんと…ごめん」
彷徨わせていた手はその場でぴたりと静止した。受け止めきれない懺悔に動機がしてくる。取り返しの付かないことをしてしまったと、再び後悔の念が押し寄せた。
「もう謝るなよ、今日で本当に最後なんだ。いくら謝っても、後悔しても、時は戻らないだろ」
私の手を握って、彼はそれを、自分の胸に触れさせた。
「春を呼びに来たんだ、端流音の好きな季節を」
そう言って笑った顔の眩しさに思わず心惹かれる。感情の移ろいが激しく目眩がしそうだった。
「だから、ほら」
二月の日差しは白くて痛い。針で刺さしたような刺激的な痛みと、それに酔ったみたいな淡い胸の高鳴り。彼の優しく細められた目は、死期を悟らせないほど強く私を捉えていて、その奥には確かな明るさがあった。
これまでの彼とは、明らかな差があった。
ずっとこの瞬間を温めていたのだと気が付く。これまで、ずっとその瞳の奥に広がっていた海の底みたいな景色が、明らかに瀬に変化していた。
瀬に指す光は、白く反射する。流れは、端の方が綺麗な音が鳴った。
「――綺麗だって、笑って欲しい」
誰も居なくなった並木道の、そこから川へ降りる階段にただ二人だけ腰掛けて、青の薄くなってきた空を眺めていた。
「悲しいけれど、もう端流音の…いや、二人の青春は戻ってこないんだね」
いくらか他愛のない思い出話を繰り広げていた矢先、ふと静かに、裕翔がそう口にした。
「そうだね、取り返しの付かないことをしちゃった。何も見えてなかった」
繋がれた右手に、互いに力が込もる。
「だから、本当は青春を呼びに来たってこと?」
私の問に、彼は無邪気に笑う。
「いいや、行った通り『春』を呼びに来たんだ」
「裕翔って本当に―」
「―婉曲的。でもそれが文学的で素敵だと言ってくれたのは、他でもない、端流音だよ」
「それはそうなんだけど…最初から気になってたの。春を呼びに行くって、どういう意味なのか」
はじめから持っていた根本的な疑問を直接ぶつけると、とうとう、彼はその答えを口にした。視線は、それから私へと向け直される。
「言葉遊びだよ。青春を呼ぶのも悪くないが、それだと二人にはちょっと微温い。もっとそれより以前の、何もかもが始まる起点に戻るんだ。先駆者であるここの桜だけが、ひっそりと咲き誇るくらいの」
一呼吸置いて、言葉は続く。
「それに、青は縁起が悪い色だと考えるよ、俺は」
「それは、ネガティブを象徴とする色だから?」
「象徴なんて肩書き、それこそ婉曲も甚だしいよ。実際、生き物が死ぬ瞬間、青い光が発せられるんだ。それはまあ、紫外線を当てたら分かるって条件付きではあるんだけどさ」
難しい話が始まる。
「細胞は、細胞膜の内側にアントラニル酸っていう物質を含んでいて…ネクローシス、細胞壊死によって細胞膜が破れると、そのアントラニル酸が放出されるんだ。で、そこに紫外線を当てると、アントラニル酸はそのエネルギーを受け取って励起状態になる。励起状態で物質は発光するんだけど、そこでこいつは青色に発光するんだよ。それも、死に近づくに連れて段々強く発光していって、死ぬ瞬間に一番明るく光る」
私が眉間に皺を寄せていると、彼は、つまり、と置き直して、これまでの話をまとめた。
「――科学的にも、青は死の色と言えるんだよ。縁起が悪いから、呼ばないんだ」
「ふーん。よくもまあ、そう理屈っぽくなれるよね」
「嫌いじゃないんでしょ」
「むしろ好きだよね」
くすっと隣で笑う彼に、肩を押し付けるようにして距離を詰めた。引き付けるように、彼は私の肩を抱き寄せて、その後ずっと、髪を撫でた。
「――私、別に裕翔のこと待ってないからね」
「悲しいことを言うなよ、俺はずっと端流音に会いたかった」
「――それはもっと先でいいの。今は分からないかもしれないけど、生きるって、素敵なことだよ」
「…もう長くはないって、話したろ」
「――大丈夫だよ」
「――でも、本当にもう息が出来なくなったら、安心して会いに来てくれたら良いよ。裕翔の居場所は、こっちにもあるわ」
「――ずっと、大好きよ。」
どこか誇らしげな卒業生を校門前で見送った先生は、もうほとんど散ってしまった桜の木の下で、いっとき立ちすくんでいた。時折、小さく溜息を漏らすようだった。
「先生、どうかされたのですか」
私はそんな先生の元へ歩を寄せて、丁度二、三歩手前辺りでそう声を掛けた。先生はハッとしたように小さく肩を跳ねさせて、それからゆっくりとこちらへ振り返った。
「これは、河嶋先生。先程は司会、お疲れ様でした」
「ありがとうございます。先生こそ、最後まで担任お務め、お疲れ様です」
丁寧に頭を下げ合うと、先生は去りゆく生徒の背中に再び視線を移した。それから、心地よい間を空けて述べる。
「高校生は、成長が分かりやすいですね」
つい半年前までは…と言葉を続けた先生は、最後に空を見上げた。
「目標を達成しなくても、この国で生活する限りは楽しい人生があります。勿論、それはある程度歳をとって、振り返って初めて気付くものではありますが」
さて、戻りましょうか。そう言って身を翻した先生は、私に横目で「行きましょう」と合図すると、私がついてくるのを待ったのだろう、少しのんびりとした歩みで前を行った。
中庭を抜ける途中、先生は「ちょっと教室棟に寄っても良いですか」と聞いた。私の首肯の後、先生はそこから一番近い入口へ到着すると、外靴を脱いで、備え付けのスリッパを履いて校舎へと入って行った。
終始、私の目には先生の背中が物憂げに映る。
「河嶋先生も、是非」
入り口でふと歩を止めた私に気が付いてこちらまで戻ってくると、先生は私の分のスリッパを用意して「どうぞ」と微笑んだ。
「あ、すみません。少しぼーっとしてしまって…ありがとうございます」
先生は私がスリッパに足を通すのを待って、それから共に歩き始めた。
三年生の教室が置かれた一階を、今日巣立っていった生徒達の思い出話をしながら歩く。過去を遡るように順に歩いて回って、階段を登って三階へと着く。てっきり、職員棟と接続する二階の渡り廊下を通るのだと思っていたので、私は疑問を抱えながら、行く先へと雛鳥のように先生の背中を追った。
三階は一年生の教室が並ぶ階であるが、一体どうして先生はここへ?
「河嶋先生は、この学校に勤務されてから確かもう…四年、くらいでしたっけ」
突き当りを右に曲がって、フロアの奥へと進みながら先生はそう話を切り出した。そうですよ、たった今四年目を終えたところです、と返答すると、「では、彼らが入学してきた頃には既にいらっしゃったんですね」と頷く。なるほど、彼らが入学してきた頃の話をしようというのだろう。
しかし、それから廊下の端から端までを歩き終わるまで、先生は一言も話さなかった。卒業生を見送った教室の装飾のみが、灰色に、その空虚を語っていた。
暫くの沈黙が降りた後、話は続いた。そして、突然その話題は切り出された。
「毎年、日本全体で高校生は三百人程が自殺するそうです」
「えっ」
予想だにしない言葉とタイミングに耳を疑って、思わず先生の顔を見上げる。窓側を歩く先生の横顔は逆光で美しいシルエットを浮かべていたが、どこか不穏な雰囲気も伺えた。
最上階の渡り廊下、かつて一年生用として使用されていた渡り廊下へと続く錆びた扉をマスターキーで解錠すると、先生は私を待たず外へ出た。閉まりかけた扉を握り直して私も外へ出る。肌寒かった屋内とは対称的に、ここは日当たりが柔らかくじんわりと暖かかった。床に敷かれたタフチェッカーのせいか、ほのかに塩素臭い。日差しの下、嗅覚で見た世界はもはやプールサイドの景色だった。
「昔、ここからあの山が綺麗に見えたんです」
そう言って手すりに肘をかけた先生は、広い景色に思いを馳せているようだった。先程放った不穏さを忘れたかなような表情だった。
吊られて向けた視線の先にはまだ、眩しい色をした住宅街が広がっている。特に見慣れない景色でもなかった。しかしそれが敢えて見栄えするのは、背景に、古い歴史を思わせる深い青の山が重たく腰を下ろしているからに他ならない。そのコントラストで、妙にその絵が幻想味を帯びていた。
「先生はここ、何年目になるんですか」
先程の話題がまだ胸の内でざわつくため、そうだこのまま話題を逸らそうと、先生の流れに無理やり身を任せた。
しかし、先生は一瞬疑問符を浮かべて笑った。
「いえ、そんな最近の話じゃないですよ。まだ僕がここの学生だった頃のことです」
因みにその住宅が今の形になったのは、五、六年ほど前のことだと、付け加えて説明された。
また言うには、先生はこの高校を卒業したようだった。先生の素性を聞くのは初めてだったが、なるほど、ここの卒業生であり長く務めるものとして、そんなマスターキーまで所持を許されているのだ。
「あの頃はまだ、この渡り廊下は利用されていたんです」
「へえ、そうなんですか。いつ頃閉鎖されたのですか」
私の問に、先生は目を伏せた。
――ああ、そういうことか。
「いえ、大丈夫です。何となくですが分かりました」
それを聞いて、先生は薄目を開けて悲しそうに微笑むと、短く溜息を吐いて私の方を見た。
「色々考えるんですね、高校生は。人によっては、僕たち大人よりもずっと深く、ものを見ていることもあるようです。何を何処まで考える必要があるのか、まだそれを知らないが故に苦しむことが多い」
そう話す先生の目は、険しく鋭かった。
「その瞬間を一刻一刻生き抜くことは、決して簡単ではありませんよ――だから、今日巣立っていった彼らは、凄い」
私は胸を打たれた。生徒達の思考、それを憶測でも良いから感じ取って、慈悲深く教育にあたること。少なくとも私は、そう過度な不安を抱えて学生生活を送った記憶はない。だから、それこそ憶測でものを語ることにはなってしまうが、不安を抱える学生たちにとって、そんな大人が近くに居てくれるのはどれだけ安心だろうか。
「さて、では戻りましょうか」
そう言うと、先生は私に背を向けて向かいの扉へと歩を進めた。ずっと物憂げだった先生の背中は、心なしかすっと伸びたように感じる。
先生は何を考えて、今どんな景色を見て生きているのか。この世のあらゆるものを達観しているように見えるが、それ故か、こうふとした時にぼんやりとした後ろ向きな感情も垣間見える。達観した上で、どうにもならないことがあることを完全に理解したような。
ふと、手すりに視線を落として、そこに沢山の落書きが掘ってあるのに気が付く。先生の話から考えると、随分昔の生徒たち、少なくとも私より年上の、当時学生だった先生、より以前の生徒達によるものだろう。
『端流音♡裕翔』と、相合傘に入った二つの名前は、先生がさっき、丁度肘をかけていたところにあった。片方は先生の名前だった。
偶然な筈はない。先生にとって、恐らくこの場所は――。
「――どうかしましたか、河嶋先生」
もう一ヶ月早ければ、桜はまだ満開だっただろうか。二月、旧暦では如月。かつては春の真ん中あたりだった。今がまだ二月なら、校庭の桜も、目先の山の色も、もっと鮮やかに輝いていただろうか。
反応のない私の様子を見かねて、先生は私の元へと戻ってくると、共に同じ場所へと視線を落とした。そこにあるそれを指先で優しく一撫ですると、彼女の名前の横でゆっくりと静止した。
「生きるのは素敵なことだと教えてくれた人がいます。難病で助かる筈のなかった僕は、どういうわけか間一髪で繋ぎ留められました。病室のベッドの上で目を覚まして、静かに泣いていました」
直前に夢を見ていたんです、と告げた先生は、それ以上は何も言わず、また扉の方へと歩を向けた。
「もう少しだけ、ここにいます」
私が小さくそう言うと、先生は振り返って私に微笑みかけて、手に持っていたマスターキーをズボンのポケットにしまった。
「ではまた、先生がお戻りになられたら閉めに来ます。ごゆっくりなさってください」
そう言い残して、その扉の向こうへと消えてしまった。遅れて、ガチャンと金具の擦れる音が大きく響く。
その後は、静かだった。先程まで輝きに賑わいでたグラウンドには人影一つ無く、昨日までぎっしりと詰まっていた教室棟の中はからりと空虚に満ちている。
端流音という少女は、もう居ない。確証などないけれど、ここにじっとして居ると、なんだかそう思える。
背中の方から風が吹き抜けた。少し涼しい風だった。桜の匂いが乗っている。
どこから来たのだろう。そうして何となしに振り返ると、そこに青い二人は居た。
寒い寒いと主張する彼の背中を擦りながら、身を丸めて寄り添い歩く少女。見事な桜並木の下で、二人はとても幸せそうだった。絵に描いたような後ろ姿を眺めながら、ああ、二人の将来はどんなだろうかと思いを馳せる。
旦那さんは国語の教師をして、家に帰ると、笑顔の素敵なショートカットの妻と、妻に似て目のくりっとした可愛らしい娘に「おかえり」と迎えられ、「だたいま」と返す間もなく唇を塞がれる。はにかむ二人はとても可愛くて、温かな家庭がそこにはある。夕食を終え、片付けをしながら妻の腰に手を回し、今度は旦那が妻へとキスをする。夜更け、娘が眠ったあと、二人きりになったベッドの上で布団を被り、ふと子供時代の思い出話に耽るのだ。
眠り際、旦那は妻に「愛しているよ」と耳打ちする。そして、妻は言うのだ。
「――随分と、素直になったわね」と。
ご愛読ありがとうございました。
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