第64話:まゆは待つよ
悪い子まゆ視点。
彼女は前に進む
帰ってきてから、美鈴さんの様子がおかしかった。
ひと目見ればわかるレベル。明らかに今日、尊花さんとなにかがあったに違いない。
でも疲労しきった美鈴さんは朦朧とした様子で、聞き出すことも困難そうだった。
「どうして……」
「美鈴さん?」
分からない。どうして。嫌だ。
何かがあったのは間違いない。同じ言葉を何度も呪詛のように口にしていたから。
正直、触れようか触れまいか悩んだ。
友だちと言っても、ほとんど親友だとしても、超えてはいけないラインというものは存在する。
今のそれはまさに超えてはいけないラインそのものな気がして。
聞けば恐らく、今の関係ではいられなくなる。尊花さんも含めて。
「うっ……!!」
「美鈴さん?!」
脱兎のごとく逃げ出したかと思えば、そのままトイレで美鈴さんは胃の中のものを吐き出していた。
何が、そんなに……。どうしてこんな目に……。
見ていられなかった。大好きな人が、目の前で何かに苦しんでいる。
そしてそんな彼女を静観するしかない自分も、見ていられなかった。
まゆさんはいい子。
だから踏み込むべきところしか踏まない。
それ以上の関係が怖くて仕方ないから。
傷つきたくない。傷つけたくない。身勝手な気持ちばかりが先行して、いい子のまゆさんはそれ以上先へは進めない。
「……美鈴さん、大丈夫?」
「……はい、大丈夫です」
大丈夫じゃない。その顔も目つきも、口元だって。
美鈴さんはもっと光っていた。今の絶望した表情はしていなかった。
な、なにか気の利いたことを言わなきゃ。
そうだ。吐いたならしばらく胃の調子が悪いはずだから、おかゆとか作ってあげよう!
それか何かぬるま湯の飲み物でも……。
「……ご飯、食べた? なにか悪いものでも――」
「大丈夫です。ちょっと部屋で一人にさせてください」
美鈴さんはそのまま去っていった。
あぁ、ダメだ。どうすればいいんだろう……。
「美鈴ちゃん……」
「咲耶さん、どうすれば……!」
さすがの事態に母である咲耶さんも現れたが、彼女にも今の状態は分からないという。
でもひとつ言えることがあるとすれば、美鈴さんは前みたいに引きこもりになってしまうかも、というものだった。
美鈴さんが引きこもりだった? 急に体調が悪くなってそのままアイドルをやめた?
わたしは事実すら知らなかった。
友だちだったから話さなかったのか、それとも話す気なんてなかったのか。
高校デビューならそれでいい。だって前を向いて進めたことだから。
でも、このまま美鈴さんと会えなくなるのは、嫌だ。
足が2階の美鈴さんの部屋へと向いた瞬間、1件の着信音が私を静止させた。
「……尊花、さん?」
メッセージを見て、驚愕とともに納得した。
そうか。尊花さん、美鈴さんに告白したんだ……。
「なんて書いてあったんですか?」
「……美鈴さんに告白した話と、その後の様子を見て尊花さんも落ち込んでいたみたいです」
告白した話まではいい。
でも、その後から美鈴さんの様子がおかしかったこと。
それに対して、彼女を傷つけてしまったと、ひどく落ち込んでいる文面だった。
どういうことなんだろう。
そんなに尊花さんが嫌だった、というわけではないはず。
わたしから見ても、2人は仲がよかった。
同性から告白されたって、美鈴さんなら気にしない、と思う。
確証はないけど、嫌なら嫌と返事するか泣くかのどちらかの反応をする。
だから美鈴さんの反応が明らかにおかしいことを再確認できた。
「とりあえず、リビングにいきましょう。ホットミルクを出すわね」
「ありがとうございます……」
咲耶さんの気遣いがわたしを落ち着かせる。
これも確証はない。けれど、美鈴さんはわたしたちに言っていないことがまだある。
恐らく、アイドルをやめたときの話が。
「咲耶さん、心当たりはないですか?」
「…………ないことはない」
「なら!」
「でもこれは言えないわ。これは、彼女の問題だから」
咲耶さんも何か隠している。
そんなに、明かしたくないことなの? 友だちの、わたしでさえ……。
「ごめんなさいね。でも"彼女"の事は信じてほしいの。それだけは間違いなく真実だから」
信じる。あの状態の美鈴さんを。
それは、なんと重たい荷物なのだろうか。
2階の部屋への道が段々と遠のいていく感じさえする。
どこまでも長い廊下と階段。上がればすぐのはずなのに、断絶された世界のように。
でも、わたしの答えは最初から決まってる。
彼女がわたしに『幸せになっていい子』と言ってくれたように。
わたしも、彼女に幸せになってほしい。いつも怯えながらも、笑顔でいてほしい。
そのためには……。
――わたしも、殻を破る必要がある。
「……わたし、悪い子になります」
「え?」
「美鈴さんが言ったんです。わたしには幸せになってほしいって。わたしだって一緒です。美鈴さんの都合のいい子にはならない。わたしは、わたしが幸せになってほしい人のために、悪い子になります!」
言いなりになんてなるもんか。
大丈夫だって言っても、一人にしてほしいって言っても。
わたしは絶対に聞いたりするもんか。
わたしは、美鈴さんのことが大好きなんだから。幸せになってほしいから!
気づけば美鈴さんの部屋の前にいた。
衝動的に動いてみるものだ。初めての経験だったけど、悪くない気持ちだった。
扉に2回ノックの音が響く。
「美鈴、さん……。少しいいですか?」
ガチャン。と鍵が閉まる音がした。
部屋に入らせてはくれないらしい。
「ほっといてください……」
いつもなら引いていたと思う。
でも、今は都合のいい子にはならない。
「まゆさん、ね。今日お願い事をするつもりだったんだ。なんだと思う?」
ただ、沈黙だけが流れる。
地面の中を掘り進めるみたいな、先の見えない採掘作業。
大丈夫。わたしは、大丈夫。
「今晩、一緒に寝てほしいなー、って思ったんだけど、この調子じゃあムリかなーって」
「……当たり前じゃないですか」
「えへへ、だよねー」
――だから。
一拍置いて、ドアの向こう側の彼女に一歩踏み込む。
「代わりに、さ。美鈴さんのことを教えてほしいなーって。昔、何があったのかな、って」
「っ! だからほっといてください! わたし、は……」
怒鳴られるのは苦手だ。だって怒りの感情を日常的に受け止めていたから。
ボロボロの心に、美鈴さんの怒声が強く響く。
彼女にここまで否定されたのは初めてだ。
大丈夫。わたしは、いい子であることをやめたんだ。
悪い子になる。怯まずに、前に進む。
「ほっておけないんだよ、まゆさんも!」
美鈴さんだけじゃない。尊花さんとも一緒にいたいから。
ここにある3人の縁を大事にしたいから。
例え無謀だろうとしても、わたしは断固としてここを動かない。
自分に都合のいい子はおしまいだ。わたしも前を向きたい。
「………………」
「美鈴さん……」
薄く、長く。沈黙の時間だけが過ぎ去る。
わたしは居座ることを決意した。扉に寄りかかって、その時を待つように。
「少し、時間をください……」
「美鈴さん……! うん、大丈夫だよ」
今は、ただ待つだけ。
それでも、わたしの起こした悪いことのせいで、自分の心の中がちょっとだけ穏やかになった。




