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烏羽色の光  作者: 青丹柳
瑞花
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 牛車の床は意外と高い位置にある。基本的に建物から直接乗り降りするため、そちらの床とほぼ同じ高さになっているのだ。

 そこから飛び込んだので、身長差からして普段なら接触不可能な高さにある晴明の首にぎゅうと抱き着く事ができた。

 普段なら絶対にこんな事はしないけど。


 だからだろうか。抱き着く直前に見えた晴明の黒紫の瞳が、僅かだが見開かれていた気がする。不意打ちで、かつそれなりの衝撃があったはずだが、しかし晴明の体は微塵も揺れることはなかった。


「ええと・・・」


 自分の気持ちに素直になりたいという一心で飛びついたが、掛ける言葉は全く考えていなかった。


「今回はちゃんと帰るつもりがあったんです」


 自分の気持ち、というより言い訳のような。


「でも芳達を放っておくこともできないし」


 何の反応もない。

 いつもならしつこいくらいに触れてくるのに、指の一本も触れてこない。晴明と接触しているのは、わたしのほうから触れている部分だけだ。

 やっぱり何度も何度も離れたので、もう愛想を尽かしてしまっただろうか。ぽつんと浮かんだ不安がどんどん大きくなって心臓が早鐘を打つ。


(素直、素直に)


「すごく・・・会いたかったです」


――― ぽろり


 その言葉を口にした瞬間。

 自分でも全く予兆を感じる事無く、不意に涙が零れた。


 いい大人が泣くなんて恥ずかしい。芳には泣くのは我慢なんて言って、自分が我慢できないなんて。そう思うのにぽろぽろと後から後から涙が出てくるので、他人事のように困ったなと思ってしまった。


 今回の騒動は自分で意図せず不可抗力で晴明と離れ離れになった、初めての出来事だった。

 心の奥底で、ちゃんと帰られるのか、忘れられたりしないか、もう一度晴明と会えるのか、ずっと不安だったのかもしれない。

 そしてその不安は半分解消されて、半分未解消だ。


「・・・もう愛想を尽かされてしま・・っ」


 ひゅっと息を飲み込んだ。


 気道が圧し潰される。

 骨が軋む。

 晴明が腰を折るように抱きしめたので、わたしの腰は逆くの字に曲げられて普通は圧迫されないはずの神経がどうにかなったのか、くらくらと眩暈がした。


「・・・っ・・・はっ・・・」


 浅く息をするのが精いっぱいで、もうどんな言葉も吐き出せない。


 いつもわたしが逃げてばかりいたからだろうか。背中から抱き着かれることが多く、そういえば真正面からしっかり抱きしめられたのはほとんど初めてかもしれない。

 相変わらず人間の強度限界ぎりぎりの力を掛けてくるのはやめてほしいけど、今だけは甘んじて受け入れよう。

 この馴染みの香が焚きしめられた腕で意識を失いそうなほどに抱きしめられると、心が満たされてどうしようもなく安心するから、もっとしてほしい。


 わたしも渾身の力を込めて抱きしめ返した。





「じゃあ行ってきます!」


 気持ちを入れ替えてすっくと立ち上がる。

 しっかりと目元を拭ってもらったのだが、多分赤くなっているに違いない。どうせ顔は隠すし、初対面の人間が鼻声かどうかなんて誰も気にしないだろう。

 仕事に穴を空けるなど、社畜には許されないのだ。


「よし行ってこい!と、言うと思うか?」


 半眼でこちらを見る成明に抗議する。


「ここまで来たんですから、全タスク消化したいです!!」

「たすくって何だ・・・?いや、その前に自分の隣を見てみろ」


 言われるがまま、右隣を見る。床しかない。

 左隣を見る。


「うわっ」

「行かせると思うか?」


 形容し難いすごい顔をした夫に、ぐいと首根っこを掴まれて再度座らされた。とても快く送り出してはもらえなさそうだ。

 先ほどまで、見たことがないほどに機嫌が良かったから、なんでも許容してもらえるかと思ったのだが甘かったらしい。


 だけど、為家だけ願いが叶わずというのも気の毒だ。

 犯罪者だから放っておくと言われれば強く反論できないが、それだって被害者と思われた芳と実は共謀していたのだから、被害者はいな―――


(いや、成明様や晴明様達は振り回されてここまで来たのだから被害者はいるか・・・)


 成明はちらりと奥の部屋の様子を伺った。

 わたしと同じように目の周りを真っ赤にしていた芳は、今は身支度を整えるために奥の部屋に居る。顔を見られるわけにはいかず、侍女の類は呼んでいない。わたしの手伝いも不要だと言う。

 まだ遠くで物音がしているのを確認すると、心持ち声を潜めて言った。


「迷惑掛けて悪かったな」

「いいえ。そりゃあ最初は誘拐でしたけど、最終的にはわたしが自分で決めて付いて行ったんです」


 殴られた後牛車の中で目覚めた時、無理矢理自分だけ逃げるという道が無かったわけではない。

 だけど、二人を放っておくことはできなかったし、何より芳が后だと知ってしまった以上、誰かが身が清いままであることを証明しなければと思ったのも逃げなかった理由の一つだ。それが別の后の女房であれば尚更信憑性が増すだろう。

 単純に、途中で逃げても帰り道がわからないという理由も大きかったけど。


 細く長いため息が聞こえた。


「俺がこんな立場じゃなければ、芳子だってこんな事為出かさなかった。それどころか、こんな立場じゃなきゃ好いたりもしなかったろう。正直疲れる」


(そんな風に思ってたのか・・・っていうか芳の本名は芳子なのか・・・)


 だらりと項垂れる成明の顔は虚ろだった。そういう無の表情をしていると、晴明と雰囲気がよく似ていると思う。

 わたしと晴明が牛車の後ろで再会を喜んでいた時、成明と芳はどんな会話をしたのだろう。その後に顔を合わせた芳の表情には、大きな喜びの影に後悔が色濃く含まれていたような気がした。

 わたしには知る由もないが、その時の会話が今の成明の発言に繋がっているのかもしれない。


 成明が別の立場だったとして、芳がどう思うのか。所詮他人のわたしには測り知れないものだ。

 わたしが唯一言える事は―――


「わたしは、今の成明様のままでも、例え庶民であっても、よしんば女の子になっても、はたまた別の生き物に変身しても、ずっとずっと仲良くしたいですよ」


 芋虫とか。


「・・・不敬罪って知ってるか?」


 脅すような言い方だが、その顔は先ほどと打って変わって破顔していた。少しでも元気付けられたなら嬉しい。

 くすくすと笑いながら殊の外元気よく続けた。


「晴明様にも、寛明様にも、実頼様にだってそう思ってますよ」

「晴明は芋虫でも強そうだな」


 成明がけたけたと笑う。

 終始微妙な顔でこちらを見ていた晴明だが、話を振られると心底嫌そうに眉間に皺を寄せた。


「晴明様が芋虫になったら、わたしが葉っぱを食べさせてあげます」


 ふざけてエアー葉っぱを摘んで晴明の前に差し出す仕草をすると、すごい勢いでがぶりと指に噛みつかれたので慌てて引き戻す。

 超肉食型の芋虫が爆誕しそうで怖い。


 多少の元気は取り戻せたらしい成明が、ぐるぐると腕や首を回す。それから先ほどのわたしのようにすっくと立ち上がって言った。


「為家の事は、俺がどうにかする」

「えっっ・・・為家の恋人役を?成明様が?・・・できなくも、ないですが・・・化粧映えしそうな顔ですし。でもちょっと背徳的っていうか・・・」

「違う!!!!」


 不敬罪で連行するぞ、と地団駄を踏んでいる。

 けらけらと笑えばぷんすかしながら部屋を出ていった。きっといい案があるのだろうから、大人しくまかせよう。


 しんと静まり返った中で、遠くから芳が立てる物音だけが微かに聞こえる。

 未だにわたしの首根っこを掴んだままの晴明と二人きりになってしまった。


(ちょっと緊張する)


 この時代で生活し始めてから夜はほとんど二人きりで過ごしてきたのだから、今更緊張することなどない。とは思うのだが、実は晴明に抱き着いてぼろぼろ泣き噦ったあと陸すっぽ会話らしい会話をしていないので、緊張するというか、少々気まずい。


 涙でぐしゃぐしゃの顔を見て、どう思っただろう。会いたかったという言葉に、何の返答もなかったけど同じように思ってくれていたのだろうか。

 ちらと隣を見上げると、晴明もわたしの顔を覗き込んでいた。その顔には、この為家の一族の離れに通されるまで見えていた機嫌の良さはすっかり影を潜め、苛立ち半分不満半分といったものが垣間見える。

 そんなに為家の恋人役が嫌だったか。


(ちょっとお芝居するだけだったんだけど)


 首根っこを掴んでいた手がずるりと上がってきて、後頭部を力いっぱい鷲掴みされぐいと引き寄せられた。もう片方の手の平はいつも通り頬に添えられたが、そのうち親指だけは口内に侵入して舌をぬるぬると弄んでいる。


「言いたい事が山ほどある」

「・・・ふぁい」


 喋りにくいから口内に指を突っ込むのはお控えいただきたい。

 でも自分の気持ちを自覚してからは、晴明に倒錯的な事をされても強く突っぱねようとする気概がしゅるしゅると萎んだ気がしていた。拒めないというか、受け入れてしまうというか。


 ずっと変な事をされ続けてきたから、もしかしてわたしの性癖まで歪んでしまっていたら怖い。

 不安な気持ちと責めるような気持ちが綯交ぜになって、もの言いたげに晴明の顔を見上げると、ぞくりと全身の肌が粟立つほどの昏く歪んだ笑みを浮かべていた。喉仏が上下に動いて、何故だか生唾を飲み込んだようだ。


「嗚呼、お前は本当に・・・」

「ふぁんれふ?・・・ん!?」


 晴明の肩越しに見える御簾の、そのまた向こうに何かが動いた。

 御簾と御簾が雑に掛かっているので隙間が大きく、部分的だが顔も判別できる。


(あれは、御春様!)


 彼も巻き込まれていたのか。

 こっちを見て、身振り手振りで何かを伝えようとしている。右手で晴明の背を指さし、それから左手でわたしを指さし―――

 ここからが意味が分からなかった。


「さっき言った事をもう一度」


(ばってん・・・泣く?)


 右手と左手を交差させて、それからしくしく泣き真似をしているのだが、本当に意味が分からない。

 わざわざ伝えると言うことは、この情報をもってして何かしてほしいのだ。そこまで推測できるのだが―――無理だ、全然わかりそうもない。


「もう一度言え」


(・・・直接話せばいいのでは?)


 もしかしたら急ぎかもしれないし。

 そう思って頬に添えられた手を掴み、一旦晴明の腕から抜け出そうとした。


――― ぬるん


「ぅっ・・ぐうぅ!!」

「余所見をするな」


(でも!!)


 抜け出そうとしたのが余程気に喰わなかったのか、口内に差し込まれた指が一気に四本に増え、舌の根を強く掴まれる。

 例え精神的には多少受け入れたとしても、生理的嫌悪感はどうしようもない。吐き気を誘発するその行動のせいか、異物があるからか、口内に唾液が溢れてきてそれが口の端から零れたのが分かった。

 わたしよりも随分長い晴明の舌が、羞恥心を煽る音を立てながら丹念に丹念に舐めとっていく。


 その肩をばしばしと叩いて、御春が何かを訴えているのだと伝えようとした。


「んむぅ!んむぅ!!」


 御簾の向こうと晴明の顔に交互に視線を移して主張する。視界の端で、御春が顔を真っ赤にして視界を手で覆っているのが見えた。


(恥ずかしがってないで、御簾上げて入って来て!!)


 わたしの葛藤を他所に、晴明は小さなため息をついて、それから。


「っんは・・・え?」


 先ほどまで口内に突っ込まれていた手が取りだされたかと思うと、今度は両目を覆われた。口内から体温が移ったのか、いつもより多少温かい。


「私以外見る必要はない」


 割と見る必要はあると思う。だって何も見えないとちょっと怖い。

 晴明がわたしの肌の上で呼吸する時の僅かな空気の流れが、やたらと敏感に感じ取れる。それは顔面と耳、それから首元を行ったり来たりしていた。

 たまに空気の流れではなくて唇が押し当てられると、自分でも驚くほどびくりと体が震える。そうすると晴明が本当に嬉しそうに低く笑うのだ。


 どれくらいそんな事をしていたか。

 気が遠くなりそうなくらいずっと繰り返されて、強制的に研ぎ澄まされた集中力はぼろぼろだ。結局大勢の足音が離れに近づいて来て御簾を上げる直前まで、その遊びは続けられた。


 その時には御簾の向こうに居たはずの御春の姿は消えていた。


(裏切り者~~)



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