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ついに播磨国へ入った。
道中には俺達を欺く仕掛けが随所にあり相当に手古摺ったので、首謀者はかなり頭が切れるのだろう。
川にかかる橋板は全て外され、分かれ道を指し示す看板は別の方向に向けられていた。食事に使ったと思しき椀の数が途中で減った時、后のものと思しき袿が温かい水の池に浮かんでいた時は、皆相当に肝を冷やし周囲に遺体がないか探索するため時間を取られた。
そんな妨害を何度も乗り越え、この騒動はあと少しで解決するはずだ。
逸る気持ちを抑えて馬を進め、そろそろ群司の屋敷へ着く、という時に不意に目の前に男が立ち塞がった。
「こ、ここから先へは御通しできません!!」
馬が一頭通り抜けるのがやっとのこの細道を抜けなければ郡司の家へ向かえないが、男が居るのですり抜けることもできない。
鍬を構えてこちらを威嚇しているのは、確か蔵人所の下人だった男か。この状況でその行動をとれるとは、主人に対する忠誠心は本物なのだろう。
個人的にはこういった者は信頼できると思っているのでなるべく手荒な真似はしたくないのだが、如何せん後ろからの圧が強すぎて懐柔策をとるのは難しそうだ。
「晴明様、どうか穏便に。非道な事をすれば御方様が悲しみますゆえ」
せめてもの対応として、圧を掛ける人物の琴線に触れる言葉を差し挟む。しかしあまり効果はなかった、というより御方様という言葉によって一層殺気が満ち満ちた気がして失敗だったかもしれない。
(俺はどうすりゃいいんだ・・・!)
彼の御方様とはとある事件を協力して解決したし、愛妻との結婚に至るまで文のやり取りやら何やら取り持ってくれた恩があるし、悪い印象は一切ない。妻の甲斐からも、明るくて話しやすく、優しい姉のような人だと常々聞いていた。
しかしその夫である晴明様はなんと気難しい御仁か。正直、何故この二人が夫婦となったのか不思議で仕方がない。いつか馴れ初めを聞きたいものだ。
ただ晴明様の暴走に付き合うのは二度目なので、他の兵達よりはこれに耐性があると自負している。だからこそ、極秘の勅命だという今回の選抜人員に一も二もなく突っ込まれたのではないかと思っていた。
(民間陰陽師の屋敷に乗り込んだ時も、猛烈にキレてたからなぁ)
あの時居た、飄々とした陰陽寮の官は今回はいない。どうやって選抜から逃げたのだろう。
晴明様のあまりの迫力に他の兵達が二歩も三歩も引いている。俺も引きたい。武官に怯えられる文官など聞いたことがない。
だが、平坦な声で冷静に吐き出された言葉にそうも言っていられない事を悟った。
「邪魔をするのならば殺す」
とても冗談を言っているようには聞こえないし、冗談を言う人物でもない。つまり本当に殺そうとしている可能性が高い。
今から人を殺そうとしている者は、手が震えるなり興奮するなりいつもと違う様子を見せるものだ。なのに目に見えぬ圧を除けば平時と全く変わりない様子で、何でもない事のようにやってのけようとしているのが何より恐ろしかった。
『晴明が暴走しないよう、よくよく補佐してくれ』
出発前に聞いた主上の言葉が蘇る。暴走しないように、と言われたってどう止めればいいんだ。ただの兵には陰陽師が操る奇怪な術など防げるはずもない。
晴明様の両手が複雑な形に結ばれていく。流れるように形を変えるそれが完成すると、きっと良くないことが起こる。そんな気がした。
(やっぱり無理です、主上!!)
かくなる上は体当たりか、と悲壮な決意を固めた時。
――― ズガンッ
ものすごい音が遥か前方から響いてきた。鳥が一斉に飛び立つ。
「な、なんだ!?」
動揺したのも束の間、目の前の晴明様は印を結ぶのをやめ、下人に何かを突き付けるとさっと抜けて行ってしまった。
何をされたのか、あれほど必死に足止めしようとしていた下人は力が入らないかのように道の脇に蹲っている。一瞬焦ったが死んではいない。
(???)
「よくわからんが・・・俺たちも追うぞ!!」
尻込みする兵たちを叱咤して晴明様の後を追う。
流れる木々を横目にしばらく走ると、前方に晴明様の乗る馬と更にその先に牛車、更にその向こうに複数の人影が見えた。やっと目的が達成できそうだ、と思ったその時。
――― ズガンッ
「き・・・きゃああああああ」
もう一度あの重い音と、絹を裂くような女の悲鳴。
ほぼ同時に、人影の中にいた女物の衣を纏った人物が後方にふわりと飛んだかと思うと、背から地面に落下するのが見えた。その動きはまるで、正面から頭部を矢で射抜かれた者のようだ。木々や牛車が邪魔で射手が誰なのかは判然としない。
(まさか・・・まさか!!)
晴明様が馬から飛び降りて倒れた人影へ向かう。
自分も馬から降りて駆けつけようとするのに、焦って足が縺れて思うように近づけない。もどかしい。
走ると言うより転がるようにして倒れた人影に向かった時。
唐突に倒れていた人影がむくりと起き上がった。
「あひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
歯の間から空気が抜けるような、奇妙な笑い声が響く。
よく見ると、にっと笑った上下の歯の間に小さな鉄の筒を挟んでいるのが原因のようだ。その顔は紛れもなく、晴明様の御方様その人だった。
ぺっと鉄の筒を吐き出すと、高々と掲げてえへんと胸を張って言う。
「わたしの勝ちです!」
いやあ、わたし歯が丈夫なんです。
そう言いながら衣についた土をぱぱっと払うと、呆気に取られる前方の男達に近づいて行き、今度は普通ににこりと笑って言った。
「二度と舐めた真似しないでくださいね」
尻もちをついた男の手からこれまた奇妙な鉄の塊を取り上げると、ぽんぽんとその肩を叩いて颯爽と牛車に乗りこんで中から声を張り上げる。
「為家、早く行きましょう!」
兵に囲まれていることに全く気付いていない。付け加えるなら、すぐ脇に居る自分の夫にも気づいていない。
(せ、晴明様・・・)
この勅命は勾引かされた后と巻き込まれた女房の救出という内容だった。本来なら一番重きを置かれるのは后だが、晴明様は御方様の安否だけを気にかけ彼女達を追っていたように思う。きっと夫婦が再会した暁には絵巻物のように美しく感動的な光景が広がると思っていた。
なのに、蓋を開けてみれば御方様がご自身だけで立派に対処してしまっている。しかもなんか強い。そして助けが来たことにも余裕で気付いていない。
可哀想、と表現していいのかわからないが、他にぴったりな表現が思いつかなかった。
心なしか、目の前の美しく整った冷たい容貌が、一層冷えた空気を纏ったような。それはさっきまでの見た者全てが気圧される激しい怒りではなく、背筋がぞくりとする静かな怒りのようなものに見えた。まあ結局お怒りになられているのは変わりないわけだが。
なんと声を掛けたものかと逡巡した時、よく通る重厚な声が響いた。
「そこの牛車、停まれ!」
*
その声が聞こえた瞬間、芳と顔を見合わせた。芳の目にはあっという間に水分が湧き出して、今にも溢れ落ちそうだ。
「お化粧が落ちちゃうから、涙は我慢我慢」
きっと好きな人の前では完璧な化粧でいたいはず。
親指でそっと水分を拭うと、ぎゅうと抱き着いてくる。その背をぽんぽんとあやす様に叩くと小さな声でありがとうと聞こえた。
どちらの立場を考えても、これがベストな落とし処なのかは疑問符が付く。でも今この瞬間はハッピーエンドと言っていいのではないか。わたしだって、バッドエンドよりハッピーエンドのほうが好きだ。
――― がたん
為家も抵抗する気はないようで、牛車が大きく揺れて軛を榻に掛けた音がする。
ゆっくりと砂利を踏みしめながら近づいてくる気配がするので、前方の御簾を二人でじっと見つめた。
――― かさり
確かに御簾を上げる音がしたのに、予想に反して前方の御簾は全く揺れていない。
(あれ?)
普通、牛車は後ろから乗り前から降りる。だから降り口である前ばかり見ていたのだが、わたしの頬をつんつんと突いた芳の視線でやっと後ろの御簾を見た。
三分の一ほど捲られた御簾の向こうから、絶対零度の空気を纏う夫が伏し目がちにこちらを睨めつけている。とても機嫌が良いようには思えない。予想通り、玩具を奪われた怒りに囚われているように見えた。
ここに居るということは迎えに来てくれたということだ。
あんなに会いたいと思っていたはずだ。
なのに、いざ顔を合わせると何故か体が竦んでぴくりとも動けなかった。
どうせわたしのことを本当に好きなわけじゃない。
もう愛想をつかされているかも。
この期に及んでマイナスな思考が頭を擡げる。
わたしの葛藤に気付いたのか、芳がそっと耳元に口を寄せて囁いた。
「お行きなさいな」
可憐な声が耳をくすぐる。
「あの狂った男に魂の奥の奥まで侵されてしまえばいいのよ」
物騒な言葉とは裏腹に、ぽんと優しく背を押された。
「自分の気持ちに素直になって」
(自分の気持ち)
晴明の気持ちは測りかねているが、自分の気持ちならつい最近確信が持てた、と思う。多分。きっと。
じりじりと牛車後方の端まで寄ると一瞬だけ目を閉じて深呼吸をし、そして意を決してぴょんと飛んだ。
――― かさり
同時に、背後で前方の御簾が上がる微かな音が聞こえた。