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烏羽色の光  作者: 青丹柳
瑞花
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 清々しい冬の朝日が細く差し込む飛香舎の塗籠の前で、清々しさとは真逆の行為に耽っていた。


 左右の腕をくんくん嗅いで顔を歪める。臭い、気はしない、いや香の匂いが強くてよくわからない。その香も晴明邸で使われているものとは全く別の香りなので落ち着かなかった。


(湯浴みしたい!!)


 女房として生活するようになって初めて知った。

 この時代の一般常識として、湯浴みは毎日しない。五日に一度するかしないか、という世捨て人ギリギリラインだ。皆様々な香を衣に焚きしめているが、おそらく体臭を誤魔化す意図もあるのだろう。ちなみに湯浴みのタイミングはどこぞで占ってくるらしい。そもそも清潔にするためではなく禊として湯浴みするようなので仕方ないかもしれないが、わたしにはかなり辛い。

 晴明が毎日湯浴みしていたから長い事誤解していたが、こちらが特異らしかった。晴明は晴明で職業上の理由からそうしていたのだろう。


 前に湯浴みしたのは二日前だったか。

 冬だからまだいいものの、夏のことを思うとゾッとする。


 せめてもの対策として、湿らせた手拭いを使ってできる限り体を拭き清めた。

 塗籠の中からは何の物音もしない。まだ安子の起床時間には早いから当然だろう。蔀は采女が全て開けていったので、御簾の向こうが薄っすらと見える。


 昨夜は清涼殿へのお呼び出しのなかった安子の塗籠の前で護衛も兼ねて就寝したのだが、慣れない場所で寝たからかまたあの夢を見た。


(不思議な蛇の夢、定期的に見るんだよなあ)


 特にどうという事もない内容だ。以前みたいに絞殺されかけるような結末にはならないのは体調の安定を示しているのだろうか。終始、わたしが蛇に他愛もない話をし続けるだけ。体調は良くなったこと、女房になったこと、でもその生活は驚きの連続であること、夫との関係に悩んでいること。

 いくら夢の中でも機密情報をしゃべるのは憚られたので、女房となった理由までは言わない。でも普段人には話づらいことも打ち明けられるこの夢を、最近はとても気に入っている。


――― バサバサバサッ


 ふいに外から激しい羽音が聞こえてきたので、御簾の隙間から内裏を覗いてみた。一人の少年が腕に鷹を止まらせて何やら指示をしている。その顔はここ数日ずっと追っていた蔵人所の鷹飼のものだった。

 明るみ始めた場所で見ると、純朴そうな顔をしていてとても嫌がらせをするような人には見えない。豊明の節会で見たような剣呑な様子も今はない。


(話しかけてみたい、けど)


 成明と晴明に言われた言葉が頭の中でくるくると響いていた。


『いいか、しばらく蔵人所には近づくな』

『蔵人達にも、その下人達にもだ』


 理由を聞く前に彼らは立ち去ってしまったのだが、何か明らかになったことがあるのだろうか。


(うーん・・・・報連相、大事!)


 理由を聞いていないのでちょっとくらい平気だ、と自己判断したことにしよう。そろりと自分の部屋へ戻って着替えてから目当ての荷物を取ると、ちょうど起きてきた女房に少しだけ塗籠の前に居てもらえるようお願いして、内裏へ降り立った。



「お早うございます」


 にこっと話しかけると、どこか怯えた様子で小さな挨拶が返ってくる。その目線はわたしの衣に注がれていた。どうやらわたしが着ている袍が殿上人のものだったので、萎縮しているらしい。

 できるだけ警戒されないよう、軽い口調で話を続ける。


「鷹、可愛いですね」


 猛禽類特有の鋭い目をこちらに向けながら、小刻みに首を傾ける鷹はお世辞抜きにとてもかわいい。かっこいいのにかわいい。担当の鷹を褒められれば悪い気はしなかったのだろう、少年は初めてはにかむように笑った。


「実はね、わたしも鳥類を飼っているのですよ」


 そう言うと右手に持ったコントローラーを操作し、左手に持った黒いものを掲げる。


――― ブゥゥゥン


 無機質な音を響かせて、真っ黒な飛翔体が明け方の空に向けて飛んでいった。


「うわぁ!まさか、これ!?」


(うわわ・・・後ろ手だと真っすぐ上にしか飛ばせない)


 少年の問いかけにも答える余裕がなく、あわあわととりあえず頷く。

 操縦が難しすぎたし、何より少年の腕に止まる鷹が怯えてバサバサと羽ばたいたので慌てて降下させ、背の後ろに隠した。


「主上の命により、極秘でお世話しているのです」


 優秀な鷹飼のあなたにだけ見せましたが皆には秘密ですよ、というと活き活きした目で少年は何度も頷く。

 成明達が初めてドローンを見た時に八咫烏と勘違いしていたのをヒントに、同じ鳥類ということで話のネタにならないかと持ってきたのだが、思った以上に感動を与えたようだ。

 キラキラした目でこちらを見上げる少年に少しだけ罪悪感を抱いた。


「僕は為家と言います。播磨の郡司の家から宮仕えの身になり・・・」


 彼が語るところによると、播磨国の郡司の嫡男として生まれ、社会人経験を積むためにというのと中央との繋がりを得るために宮仕えに出されているのだと言う。つまりは地方豪族の未来の長ということだから、そんなに怪しい身分の者でもない。内裏では中央貴族より下に見られることもあるかもしれないが、それでも政令指定都市レベルの長なのだから、出自は高貴なほうだろう。


 高貴だからと言って精神まで高潔とは限らないが、話してみると極々普通の純朴な少年に思えた。


「僕、大晦日に播磨へ帰るのです」


 鷹を撫でながら目を伏せて言う。彼が世話しているのは帝の鷹だから、もちろん連れ帰ることはできない。ずっと世話をし続けたいという気持ちがあるからなのか、寂しそうだ。

 もうすぐ宮仕えを辞するということは、豊楽院での逢瀬は別れ話だったのかもしれない。


「内裏にあなたのような鳥に詳しい方がいるのなら、安心してこの子を置いていけます」


 そろそろ皆が起きてくるから戻らなくては、と少年はこちらに頭を下げてから蔵人所のほうへ消えて行った。

 結局、嫌がらせするような人物には見えなかったな、と独り言ちる。


(杞憂だった、かも?)


 だとすると、何故蔵人への接触を禁じられたのか、そっちが気になってきた。






「そんなに苛つくな、もうすぐに帰してやれるから」


 今回の騒動が予想より長引いていることで、異母兄の機嫌が最底辺まで落ちていることはわかっている。だが宥め賺したところで、この氷室の中にいるような空気は改善できなかった。


「あの蔵人と下人を追放し、女から内裏へ入る権利を取り上げれば終わりでしょう」

「・・・そうは言うが、簡単にはいかんだろう。慎重に進めねば」

「手を拱いている時間などありません。真の狙いまでは判然としない、今に大事になりますよ」


 無表情ではあるが、左の手に握る扇を右手の平に忙しなく打ち付ける動作から心中を察することは容易い。少なくとも今掴んでいる事実でさっさと処罰しろという言い分もわかる。だが―――


 大きなため息をつくと、話題を逸らすことにした。目の前の異母兄の妻が話の内容に困った時よく使う手だ。まさか自分が参考にする日が来るとは。


「大晦日まで日がない。追儺(おにやらい)の準備に抜かりはないな?」


 問題ないに決まっていると言いたげに鼻で笑うのを見ながら、更に方向転換の話題を重ねる。


「お前の妻は大層楽しみにしていたぞ。当日はよく見せてやれ」


 何故かどこの豆とかどんな味の豆とか、豆の話ばかりしていたので千年後の行事内容がかなり気になるところだが、行事そのものは残っているようで反応はよかった。

 そういえば、彼女が女房に上がってからこの夫婦に気を遣っていたことがある。偶には外で恋人気分を味わうのもよかろうと、安子を寝所に上げることで夜間に彼女を自由にしてやった。さすがに他の后の目があるため連日連夜というわけにはいかなかったが、今までにないほど頻度を上げたつもりだ。うまくいっただろうか。


「え、会えていない?何故だ?」

「浮かれて出掛けています」


 そういえばそんな話をしていたが、まさか徹夜で出歩いていたのか。

 どうも彼女は"仕事だ"と言われると俄然張り切るきらいがある。更に本人が活き活きするので始末が悪い。

 晴明の手の中の扇がメリメリと嫌な音を立てて撓んでいた。


 それに、と言葉が続く。


「最近、妻が私に何か思うところがあるようで。それでいて心の内を晒さないので、忍耐の緒が切れそうなのです」


 その言葉には鉛のようなどろりとした重さが感じられる。

 晴明が妻に対して耐え忍んでいるところはほとんど見た事がない、という点についてこの場で言及しないでおくが、この夫婦も何かと嚙み合わない状況が続いているようだ。


「妻が唯一人のお前ですらそうなのだから、何人もいる俺が上手くいかないのも無理ないな」


 二人で深い深いため息をついた。



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