09
腹立たしい、腹立たしい、腹立たしい。
あの非力な供一人しか連れず内裏を抜け出した時、天は私に味方したと思った。絶好の機会だったのに、慎重を期して京外のならず者を使うたのに、失敗するとは。
彼らの訴えによると実に恐ろしき術によって視界を奪われ一昼夜悶絶させられたと言っていた。
あいつが邪魔したに違いない。
怒りのままに手元の餅菓子を壁に投げつける。
彼らも今後用心を重ねてくるだろう。条件を満たすのがますます難しくなる。
別の策を考えねば。
「この私がちゃんと守ってあげますよ」
つるりとした二つの木像を撫でて微笑む。高灯台から零れた灯りが映し出すその顔は、優しい言葉とは裏腹に鬼のようだった。
*
(お、重い)
紅の打袴を外側へ蹴りだしながら進んでみるものの、この調子では数メートル進むのも大変だ。
「まあ!そのような大股で進むものではないですよ
足を擦るように、小さい歩幅で・・・そうそう」
筑後が後ろから指南してくれる。
昨日から食事など身の回りの御世話をしてくれている人だ。この衣も器用に着せてくれた。
用意された衣は神社の巫女のような服だった。てっきり普通の着物に上着をたくさん羽織っている形状だと思っていたのだが、この時代の女性はみな袴を穿いているらしい。
更に袿と言う上着を着せられてぐえっと声が漏れる。こちらもそれなりの重量だ。
女孺というのは雑用が主なお仕事のようでこれでも軽いほうなのだと教えられたが、軽くて薄い化学繊維に慣れた身からすると歩くだけでトレーニングになりそうだった。
晴明は渡殿へつながる扉の脇に背を預け、こちらを見ている。見世物をみるような目つきに見えるのは気のせいだろうか。
「お待たせしました・・・」
晴明のもとへ息も絶え絶えたどり着くと、いつまで待たせるんだと言わんばかりにさっさと牛車のほうへ歩いていく。これからまたあの牛車に乗らねばならないのかと思うと、気が重い。
衣を着るのも大変、歩くのも大変、通勤も大変。
「似合わないな」
牛車の中で向かい合った晴明が簡潔に感想を述べる。
なんとでも言ってください。完全に、着慣れないスーツを纏い通勤電車に慄く新入社員の気分だ。
ははは、と愛想笑いして、酔いに耐えるため静かに目を閉じた。
今日もなんとか三半規管は耐えてくれたようだ。昨日よりも乗っている距離が短かったのも幸いした。昨日はどうしたのか知らないが、基本的に大内裏と呼ばれる部分までは牛車を入れてはいけないそうで、途中から徒歩になったのだ。
ざっざっと砂を踏む晴明の後をだまってついていく。
まだ日が出たばかりだというのに大内裏の中にはたくさんの人が行きかっていた。日が昇ったら活動を開始し、日が落ちると休むのだろう。現代よりは健康的な生活に思える。
彼らの業務内容から考えると、これが千年前の霞が関の朝八時の光景ということになるだろう。
(まさか、残業はないよね?)
霞が関の友人たちは、自分と同程度、いやそれ以上に残業していたはずだ。
サラリーマンとしての記憶が蘇り、ぶるりと震えた。
「ここだ」
晴明の言葉に顔をあげると、檜皮葺の建物が目の前にあった。
あとのことは中の者に聞くように、と告げるとさっさと引き返していく。
彼はどういった活動をするのだろう。結局詳細は教えてもらえなかった。少し気になってその背を見送っていたが、意を決して目の前の建物に入ることにした。
「こんにちは」
中に居た、わたしと同じ衣姿の女性達が一斉に振り返る。否、女性というよりも限りなく少女に近い姿だ。全部で四人いる。彼女らはわたしの姿を見とめると、顔を見合わせた。そして、誰が答えるかをめぐって肘を突っつきあっていたが、その中で一際目をひく目のくりくりとした可愛らしい子が一歩前に出た。
「はじめまして、今日から来られる方ですよね」
掌侍様から伺っております、という言葉を聞いて、袂にこっそりしまっていた組織図を取り出す。秘書室の課長っぽい位置の役職だ。社長ポジションの帝から課長まで翌日に話が通っているとは、権力って恐ろしい。
雑務は五人一組の班で行うそうで、わたしは彼女達の班に配属される。初日なので、今日は彼女らの後ろをついて仕事を見ているだけでよいとのことだった。
全員布はたきを持ち、これから七殿五舎を掃除して回る。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
四人からちらちらと視線を感じた。話しかけたいが、どのような話題を選べばいいのか困っているのが手に取るようにわかる。
(わかるよ・・・年齢が離れているから話題がわからないのよね)
わたしから何か話題を振りたいのだが、こちらも千年前のピチピチ女子高校生達と何を話してよいのかわからない。どうしたものかと思っていれば、最初の建物についてしまった。
「あの、気を付けてくださいね」
先ほどの女の子がそっと耳打ちしてくる。
嫌な予感がしたので、彼女たちが掃除を始めるのを部屋の入り口の脇でそっと見守ることにした。
その言葉の意味はすぐにわかった。
「ちょっと!!もう少し丁寧に!!
こちらに埃を飛ばさないでちょうだい」
下々のものはこれだから嫌だわ、と言わんばかりの突っかかりに、こんな絵に書いたようなわかりやすく嫌な女がいるかと思わず驚いてしまった。
几帳の向こう側にいるので顔はよく見えないが、女房なのかはたまた后なのか。
掃除の間中ネチネチと嫌味を飛ばしてくるのはまだ我慢できても、掃除が終わっても解放してくれないのはいただけない。周りの女性たちもクスクス笑って止めようとはしていない。
布はたきを持って彼女の几帳の前に仁王立ちした。
「はじめまして。わたし、今日が初出仕なんです
さるお方の伝手で職を賜りまして」
さるお方がどのお方かはもちろん言及しない。あっちが勝手に勘ぐるだろう。まさか帝とは思わないだろうが、自分の都合の悪い人物ではないかと不安になるはずだ。
どうぞよろしく、と言ってカッと目を見開くと嫌な女がびくりとのけ反るのが見えた。
そう、わたしの身長は几帳を超えるので見えるのだ。この時代の人はみな小柄なようで、女性に限るとだいたい身長は140と数センチ程度。ちょうど几帳が150センチくらいなので、立ち上がっても向こう側はぎりぎり見えない。
わたしだって160センチに届かないので現代では小柄なほうだが、ことこの時代に限っては威圧感のある大女の部類に入る。几帳だってぎりぎり目を出せる。その上背をしっかり利用させてもらった。
想定外の反応だったのか、彼女たちは何も言わなくなった。
(ふん!)
伊達に社会の荒波に揉まれまくっていないのだ。
さあ次へ行こうと同僚達を振り返ると、爛々と目を輝かせてこっちを見ていた。