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与えられた部屋は、左右の二面が襖で前後の二面が御簾が掛けられている造りだった。現代の住居に比べると風通しが良すぎて心許ないが、他の女房達は特に気にしていないようなので慣れの問題だろう。
このような造りのため他の部屋の気配もわかりやすい。文箱を開け閉めする音や、碁を打つ音なども聞こえてくる。
(某有名賃貸アパート以下のプライバシー・・・)
今も隣に住む女房の元へ、恋人が逢いに来ているらしい。男女のさざめくような密やかな笑い声と衣擦れの音が微かに聞こえる。決して聞き耳を立てているわけではないのに聞こえてくる。
皆顔さえ見えなければ恥じらいはないのだろうか、と意識を失いかけた時、広廂に面した御簾の前に衣冠姿の男性が立ったのがわかった。
ぱんっと頬を軽く叩いて意識を戻す。
「どうぞ」
小声で声を掛けると、その男性はおどおどしながら御簾を上げて入って来た。
「お久しぶりです、高明様」
そう言うと、高明は困ったように、そして怯えたように頷いた。
今日の昼過ぎ、女御の傍でただ只管ぼーっと佇んでいた時に聞こえてきた声に急いで顔を上げた。
几帳越しで顔は見えないとは言え、その声は間違いなく高明だ。すぐに話しかけたかったのだが、周りに様々な訪問者が居てピンポイントに話しかけることもできず、近くに居た非蔵人に頼んで文を渡してもらったのだ。
現在、飛香舎の女御は帝のお通りがあるとのことで清涼殿の方へ行っている。まさか夫婦の寝室まで護衛に行くこともできないし、わたしは留守番だ。清涼殿のほうが護衛も多いので、あちらのほうが安全だろう。
朝まで自由にしてよいとのことだったので、早速高明に挨拶しようと連絡をしておいた。
「帰国に際して、本当にお世話になりました。恥ずかしながら、帰国できなくて戻ってきてしまいました」
丁寧に頭を下げると高明はきょとんとして、それから辺りを伺うように首をきょろきょろと振っている。
一連の反応に腑に落ちないものを感じて、あの後何があったのか聞いてみた。
「え、扇で殴られた・・・?」
「そう。そりゃあもうすごい剣幕と腕力で、どう責任を取るのかって」
だから今日も晴明に殴られるんじゃないかと思って怯えながら来た、という言葉に目を覆った。なんと謝ればいいのかわからない。
お礼と挨拶がしたかっただけで、今日は晴明はいないと言うとあからさまにほっと息をついた。
「本当に申し訳ありませんでした・・・」
「いや、もうそれはいいんだけどさ。もしかして、晴明のところに戻ったの?」
言外に晴明といて大丈夫なのかと聞かれていると察して、苦笑いで返した。大丈夫じゃないと言うほど仲違いしているわけではないが、大丈夫と太鼓判を押せるほど仲睦まじい夫婦ではない気がする。
偶に、わたしの事をお気に入りの玩具か何かだと認識しているのではと思う時がある。所有者として玩具を独占することを望み、それ故に他者を排除しようとしているような。果たしてそれは夫婦といえるのだろうか。好きという感情とは別物なのではという懸念が過るが、わたしだって自分の気持ちがわからないのだから晴明の事をとやかく言えない。
(穿った見方過ぎるかなあ・・・)
ぼんやりと、お試しを経たあとどうすべきなのか考え、そもそもお試し夫婦の終了条件を決めていないという問題に思い至ったが、今それを考えるのはやめておこう。
「ところで、最近内裏の中でおかしな事はなかったですか?」
主な仕事は女御の護衛だが、情報収集もしておきたい。
飛香舎の訪問者達に聞いてもよかったが、単刀直入にずばり質問するのも憚られた。その点、高明は顔見知りなので内密に質問できるし、その身分の高さから顔が広そうだ。
「何々?何か面白い事をしているんだね?」
途端に目をきらきらさせてこちらを見るので、もしかして質問相手を間違えただろうか。そういえば悪い人ではなかったが、少し享楽的なところがあるのを思い出した。
「急に安子の女房に上がるなんて変だと思ったんだ。僕に何を聞きたいの?」
わくわくしている高明にどこまで話そうか。
*
「~♪」
久しぶりの衣冠姿にスキップしながら真っ暗な内裏を歩くと、動きが滑稽だったのか隣の高明がからからと笑った。何と言っても女性の装束より男性のもののほうが動きやすいので、体が軽くなった気がしてつい。
それにプライバシーの欠ける場所から解放されたのだし、朱雀院を除いて夜間に気軽に外出する機会はないので心が躍る。
高明に頼んで殿上人の衣装を用意してもらった甲斐があったというものだ。
(見回り見回り~)
彼には、オブラートに包んだ情報を共有した。飛香舎の女御に嫌がらせをしている人が居るかもしれない、自分は女御を守りに来たとだけ伝えた。そうしたら、楽しいイベントだとでも誤解されたのだろうか、協力してあげると言うので調子に乗って殿上人の恰好で見回りがしたいと言ったら、あっという間に衣冠一式用意されたのには驚いた。
有難いのだが、晴明に扇で殴打されたと怯えながら、面白そうな気配を感じるなり懲りずに首を突っ込むその精神には天晴れだ。
「内裏の中には怪しい者は見当たらなかったけど、どうするの?」
うきうきと聞いてくる高明の言葉に、顎に手を当て空を見上げる。
飛香舎の女御に嫌がらせできるということは内裏の中に入ることができる者、つまりある程度範囲が絞られるのだが、内部に異常は無さそうなので今日はその外の大内裏まで足を延ばしてみようか。
(ある程度身分があれば飛香舎への出入りが簡単すぎるんだよなあ・・・)
さすがに女御の寝所へ入るのは難しくても、参内を許可された者は飛香舎へ入るだけなら苦もない。現に女房の恋人達も立ち入っているわけだし。
静脈認証のセキュリティゲートを付けろとまでは言わないけど、もうちょっと厳密でもいいんじゃないかと思ってしまうのは現代人だからか。
「大内裏に出るのなら念のため護衛も連れて行こう」
内裏の周りをぐるりと取り囲む大内裏は、内裏と違って出入りの制限が緩いので官だけでなくその付き人やら各種物品の納入業者やら様々な者が歩いている。確かに夜間に大内裏を歩くならば護衛もいたほうが安心だ。意外にもこういうところは用心深いらしい。
こくりと頷くと清涼殿の先にある校書殿に向かって歩き始めた。校書殿の西には内裏での雑務、特に帝や高位の者の雑務を担う蔵人の詰所があるので彼らに頼むのだろう。
「申し、誰かいないか?」
高明らが声を掛けるとぱたぱたと足音がして、十四、五の少年が顔を覗かせた。高明の顔を見るなりあっと声を上げて頭を下げるので顔見知りのようだ。
蔵人の補員の一種である非蔵人だという彼が付いてきてくれることになったのだが、こんな年頃で夜勤とはなかなかの労働環境だ。逆に考えればもう参内が許されているのだから将来有望なエリートなのかもしれないが。
高明と非蔵人、わたしと、松明を掲げた蔵人所の下人二名で大内裏を反時計回りに歩き始めた。
「どういう御用があって大内裏を練り歩くのですか?」
「ふふふ、詳しくは言えないが勅命の任務があってね。いや、不届き者の調査なんだが」
得意げな顔をして説明する高明に、余計なことはしゃべらないようにと睨みを利かせるが、おそらく通じていない。
年若い非蔵人はそうなんですね、すごいですね、と律儀に返すので高明の軽快トークは終わる気配を見せなかった。高明の相手は彼に任せてきょろきょろと辺りを見回す。
(怪しい人って言ってもすれ違うだけじゃわからないなあ・・)
行き交う人の量は昼間とは比べ物にならないものの宿直の官達もそれなりに歩いており、そこに居るというだけではおかしくもない。
大内裏を半分ほど歩いたところで、興味を引くエリアがあった。
「ここって・・・」
「ここは豊楽院ですね」
豊楽院には女孺の仕事においても立ち入ったことはない。現在は使われていない建物らしく、大内裏の建物とは思えないほど荒廃し薄気味悪い空気が漂っている。
大内裏の中でも異質な場所だが、興味を引いたのはそこではなかった。
(今、誰かいなかった?)
薄暗くて色味も判別できなかったが、絹特有の光沢が翻るのが見えたような。
「昔々は宴会に利用されていたのだけど、今は専ら紫宸殿を使うから酷い有様だねえ」
使わないなら取り潰して更地にするなり、別の用途に転用するなりすればいいのにもったいない。
そう思いながら万秋門と書かれた門の内側を覗き込んだ時、非蔵人の彼がああっと大きな声を上げたのでびっくりして飛び上がった。
「な、なに?どうしたの?」
「いえ、中を覗くのは止した方がよろしいかと・・・」
理由を問うと、真っ赤な顔をしてもじもじと言いにくそうにしていたが意を決したように口を開く。
「ここは逢引場所の定番でして、その・・・すごいものを見てしまうかもしれません」
この時代の恋愛は基本的に女性の部屋を男性が訪れるものらしいが、人によっては外で会ったりもするのだろうか。
ではさっき見えたのも逢引き中の恋人たちだったのか。
なかなか門の敷居から離れないわたしに業を煮やした彼が、離れるよう促すために近寄って来た時、再度あっと声をあげた。
「為家?」
門内の脇に誰かが隠れるように立っている。
為家と呼ばれたその少年に皆の視線が集中した。
(うん?)
縹色の衣を纏った少年は逢引きなどするにはまだ早い年頃、非蔵人と同じくらいに見える。下人の掲げる松明に照らされた顔はひどく青ざめていた。
少年はぎゅっと唇をかみしめるや否や、こちらが何か声を掛ける前にぱっと頭を下げて走り去ってしまった。
「あらら、邪魔しちゃったかな?」
逢引の現場を見られて逃走したのだと解釈した高明がくすくす笑うのを聞きながら、彼の顔を思い出す。
(彼は豊明の節会の後に内裏で見た・・・)
常寧殿を睨みつけるように見ていた年若い官だ。
奇妙な再会にどこか釈然としないものを感じて、これから起こることについて考え込んだ。