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「何でそんな歩き方なんだ?」
生まれたての子鹿のようにぷるぷると足を震わせてぎこちなく歩くわたしに、成明が不思議そうに問いかける。わたしだって好きでこんな歩き方をしているわけではない。
背に手を回して支える後ろの人物をぎろりと睨むが、当人は涼しい顔で見返してきたので頬を膨らませた。
てっきり保憲の屋敷からまっすぐに帰るのかと思えば、朱雀院に招集がかかっていたようでそのままこちらへ移動して来ていた。
(足の裏が痺れて、すごく歩きにくい)
牛車の中でされた事について事細かに説明するつもりはないが、晴明様のせいです、とだけ言うと即納得されたのもなんだか釈然としない。
よろよろと歩いて何とか置畳の上に腰を下ろすと、それを待っていたかのように成明が大きな箱をずいと前に押し出した。
「ちょっと相談したいことがあってな」
先日から引き続きかなりお疲れのようで顔色があまり良くない。
「今日、飛香舎にこんなものが・・・」
蓋を開けた箱の中には高さ二十センチほどの可愛らしい人形が入っていたが、全体的に違和感があった。
黒い糸で縫い込まれた目はくりっとしていて細目が多い現代の日本人形とは違う系統に見えるし、何より生成色の布で作られたそれは何も着ていないし髪もない。
この顔、どこかで見たことがあるような。
(・・・あ、宇宙人か)
顔の作りが幾分人間に寄っているものの、人差し指をくっつけて友達になれそうな顔をしている。
――― ひょい
「危ない、箱に戻せ!!」
「え?」
人形を持ち上げると、成明がこれ以上ないほど驚いて大きな声を出すのでこちらも驚いた。また変な呪いがどうとか言うのだろうか。
『ウチュージンダヨー』
人形の腕をとって皆に振って見せた。
「・・・前々から神経が図太いとは思っていたが、今一番図太さに慄いている」
頬をひくつかせながら言う成明に、人形を少し傾けて敬礼させる。
『アリガトウッ!』
「いいから、早く箱に戻せ!」
愛嬌のある顔の人形だと思うのだけど、成明や寛明、実頼があわあわしながらこちらを見るのでやむを得ず箱に戻した。人形におかしなところは何も無いのに。
「誰かが飛香舎の女御を呪ったのだと思っている」
以前成明達が呪われた際に使われていたのは木の人形だったが、これは全然別の種類のものに見えた。何故呪われたと思ったんだろう。
疑問を口にすると、成明が人形がしまわれた箱の中を指さしあれだと言った。覗き込んで見ると人形の他に呪いと書かれた札が入っている。
「・・・え、こんなわかりやすく呪います?」
以前見た木の人形は読めない文字が書かれていたが、こちらは稚拙と言うか、子供が鬱憤晴らしにいたずらしたものにも見える。
呪われたというより、嫌がらせされていると言ったほうが正しいのではないか。
「こういうのってどこの省が調べるんですかね?」
「いや、それが女御は・・・安子は、どの省にも頼りたくないと言うんだ」
要は事を公にはしたくないらしい。内裏の中にも色んな思惑が渦巻いているのだから、弱みになるような事をおいそれと広めたくないのかもしれないが、何も対処しなくていいというわけでもないだろう。嫌がらせがエスカレートする可能性もある。女御とは知らない仲ではないので心配にもなる。
「せめて護衛を付けたりと・・・か・・・ん?」
そこまで言いかけて、成明が縋るようにこちらを見ていることに気付いた。
「事が収まるまで、安子のところへ女房として上がってくれないか?安子もお前が来てくれるなら安心できると言ってるんだ。頼む!」
「ええ!?」
まさかそんな事を言われるとは思わなかったが、女御が望むのなら護衛に行くのもやぶさかではない。問題は―――・・・
(すっごい睨まれてるんですが)
成明の肩越しに晴明と目が合った。どうやら夫への事前調整はなかったらしく、その表情は明らかに断れと言っている。
さっき牛車の中で散々怒られたこともあり、余程の事でなければ夫の気持ちを考慮してお断りするのだが。
(でも安子様も心配だしなあ・・・)
「そんなに長い期間じゃないですよね?だったら、いいですよ」
ごめんなさいと晴明のほうへ目配せしつつ答えると、その顔は憮然としたものに変わった。女御を放っておくこともできないので、嫌々でも理解してもらうしかない。
「ああ、長くはかからないだろう。晴明に調べてもらうから」
犯人が分かればすぐ返すから、と成明が晴明に向かって言う。わざとらしく大きなため息をついたが、晴明はそれ以上不満を表すことはなかった。
「二人にはすまないと思うんだが、俺も困ってるんだ・・・」
もうすぐ新しい后が入内するというのに、荒事の種を野放しにできん。
頭を抱えて言うその言葉から、成明の顔色の悪さの理由がわかった。もう十二月も半ば。后が入内するという大晦日まで日がないため、早急に内裏のトラブルを解決しておきたいのだろう。
(偉い人も色々大変だ)
ここはわたしが一肌脱いであげましょう、と胸を叩いて安心させようとしたところで実頼がぼそりと零した。
「女房は何よりも教養が求められます。大丈夫なんでしょうか・・・こんなので・・・」
奇妙な沈黙が下りる。社交辞令でいいから、誰かフォローしてほしかった。
「・・・和歌は絶対詠みませんから」
やっぱり断ったほうがよかったかもしれない、と一瞬でも考えてしまったのは仕方のない事だった。
*
(服が重い)
重ね袿の重さにふらつくわたしの横で発された安子の言葉に、飛香舎の中央にある一番広い間に集まった女房達がざわついた。
「まあ飛香の君がこちらに?」
「本当に?」
「嬉しいわ」
今まで女孺として一日のうち極短い時間しか関わってこなかったのに、これからはみっちり一日中一緒にいることになる。少し不安もあるが、ひとまず歓迎されているようなので安心した。
「わたしが必ずお守りしますから、ご安心ください」
今回の目的は何より女御の身辺を守ることだ。
女御が不安を感じることのないようしっかりと手を握って声を掛けると、女御は頬を染め周りの女房達からは黄色い悲鳴が上がる。
ああ、この宝塚の男役のような扱いがたまらない。
「・・・・・・どこの色男だ・・・」
げんなりした様子で几帳の向こうからこちらを見る成明ににこりと笑った。
「わたし意外とモテるんですよねえ、女性にだけですけど」
その言葉をどう捉えたのか、几帳の隙間から成明が複雑そうな顔を覗かせて何か言いたげにもごもごと口を動かす。しかし結局言語化できなかったらしく、後は頼んだ、とだけ言って清涼殿のほうへ戻って行った。
(女房ってこんな生活なのか)
一日飛香舎の女房として過ごして気付いたのは、女房は意外と忙しいということだ。
彼女らは建物から滅多に出て来ないので、御簾の中から流れる雲でも眺めて過ごすのだろうと思っていたのだがそんなことはなかった。
女御の身辺のお世話から始まり、朝夕の配膳手配、香の調合と衣への焚きしめ、それに―――
「まあ、そんな事件が」
「先日頂いたお歌は素晴らしかったですわ」
各后達の殿舎は世間と隔絶されているわけではないので、割と訪問者が多い。殿上人、つまり異性の訪問も制限されておらず、几帳越しにその話し相手も務めるのも女房達の仕事の一つだ。
和歌を詠みあったり、流行りものや内裏でのトラブル、恋の噂話も飛び交う。殿舎全体が、女御を中心とした一種のサロンのようなものだった。
とは言ってもわたしは和歌も詠めないし、話術も話題も持っていないので女御の傍でじっとしているだけだ。
最初のうちは訪問者の中に怪しい者が紛れているのでは、と鈍器を構えていたが、和歌についての議論や恋の噂話を小一時間も聞いていると脱力してくる。
(ね、眠い・・・)
うとうとと船を漕ぎ始めた時、その声は唐突に聞こえてきた。