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烏羽色の光  作者: 青丹柳
瑞花
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「朝まで雑談でもして過ごすつもりだったんだ。それだけだ。

 縛られていたのはあいつの趣味に付き合っただけだぞ」


 歯に着せた衣が重なり過ぎて、舌を噛みそうだ。


 何も言わずに僅かに目を細めてこちらを見返すその顔は冷え冷えとしており腹の上の方が一層キリキリと痛んだが、今回は正真正銘自業自得なのがまた辛い。

 しかも、思っていたよりも怒りの度合いが小さいような気がして、それが却って不気味で不気味で仕方がなかった。晴明のいつもの調子から考えれば、顔を合わせた途端首を絞められそうなものだと覚悟していたのに。


「・・・あの後、何かあったのか?」


 恐る恐る聞いてみると例のあの歪んだ笑みを浮かべたので、あったんだろう。機嫌を急激に回復させるような何かが。

 彼女はこの期に及んでまだ正式な夫婦ではないと言い張っていたが、どうやってこの偏屈の機嫌を治したのだろう。おかしな事になっていないといいが、と心配になったがそもそも自分にも原因があるので言えた義理ではないかもしれない。


 正直、あの時の自分の行動はどうかしていたと思う。

 今朱雀院へ向かっている理由、常からの物思い、生涯唯一人の伴侶を得た異母兄への羨望、何が切っ掛けかはわからない。全てが切っ掛けだったかもしれない。

 人と違う道を自由に堂々と歩く彼女なら掛け値なしに一人の人間として自分を受け入れてくれるんじゃないかと思って、偶然が重なったあの夜、衝動的に一度でいいからと手を伸ばしかけてしまった。魔が差したとしか言えないが、寛明のことを諫めていたのに何たることか。それともそれだけ彼女が周りを惹き付けるのだろうか。


 でもそれは異母兄への裏切りに他ならないのだから、あの時の衝動的な望みが成就しなくて本当によかったと今なら思う。


 心の内を漏らせば本当に消されかねないので声には出さなかったのだが、晴明は全て見透かしたような顔で淡々と言った。


「あれは私だけのものですから。以後お気をつけください」







「ええ、また増えるんですか?」


 煎餅をかじりながら驚いて見せると、むっとした成明が口をもごもごと動かした。お前のその能天気さが滅茶苦茶腹立つ、などとぶつくさ言っているので彼が望んだことではないのだろう。


 舞姫の騒動後初めて顔を合わせた成明は、わたしよりもずっと気まずそうだった。

 きっと彼も色んな鬱憤が溜まっていたんだろうと理解し、わたしはできるだけいつも通り接することにする。皆生きてれば色々とあるものだ。


(立場が立場だし)


「どこの御姫様が入内するの?」

「実頼の弟の・・・師尹の娘だ」


 均衡を保つため受け入れざるを得んという言葉に、彼の鬱憤の一端を見た気がした。政治的しがらみだけで結ばれた后を何人も取らねばならないとは、そういう時代だとは言え神経をすり減らしそうだ。

 せめて彼と后が、入内後からでも心を通わせられるよう祈った。


(そういえば、わたし達も同じようなもの、かも?)


 合理的な理由により結婚して、その後色々とあって、お試し期間中とはいえ今も夫婦でいる自分も似たような立場か。

 でもわたし達の場合は心が通じ合っているのかと言うと、そうだとも言えるしそうでないとも言えるような。

 ちらと晴明のほうを見る。


(仲が悪いわけではない、と思うんだけど・・・)


 たまに不可解な理由により勃発する喧嘩を除けば、恋愛によって結ばれた夫婦と変わりなく円滑に日々過ごしているとは思う。でも相変わらず考えていることは読めないし、晴明はわたしと居て楽しいと思っているのだろうか。

 そして一番わからないのは自分のことだ。露顕しの儀式の夜、晴明はわたしの事が好きだというような事を言っていたが、自分はどうなのだろう。


 あまりにも食い入るように見つめたためか、晴明がこちらに目を向けた。何の表情も浮かんでいないので、やっぱり何を考えているかはわからない。


宣耀殿(せんようでん)に上がる。お前も会うことがあるかもしれないから、よろしく頼むぞ」


 げっそりとした調子で成明が声をかけてきたことで、晴明から視線と意識が逸れた。


「いつ入内されるんですか?」

「大晦日だ」


 何でまたそんな年の瀬の忙しい時期にと思わなくもないが、后たっての希望だったそうで成明はそれを受け入れたらしい。これから后となる姫とその後盾である外戚に気を使ったのだろう。


 よろしく、とは言われたが后が女孺と直接関わることなどほぼ無い。実際飛香舎の女御が特別なだけで、他の后達は御簾や几帳越しでしか見かけたことがなかった。

 運よくどこかで顔を見れるといいな、くらいの心持ちでまかされたと頷くと、絶対に騒動を起こさないように!という実頼の厳しいツッコミが入った。


 わたしが自ら騒動を起こしたのは帰国の件くらいなのに、本当に信用がない。


「大丈夫ですって、遠くから見守るだけですから」


 その言葉に全員が懐疑的な視線を寄越したのには閉口した。


(トラブルメーカーみたいな扱いやめて!)







「あれ?何かある」


 湯浴み後に母屋で脱いだ衣を畳んでいると、中にいつもは無いずっしりとした異物感を感じて訝しむ。ごそごそと探った結果、袂から出てきたのは夕方に芳から託された小さな鏡だった。


 危ない、すっかり忘れてた。

 素材が銅なら割れる心配はないかもしれないが、繊細な細工物であるのは間違いないし、何より人の物だ。壊さなくてよかった。


 衣を片づけると、改めて鏡を覗き込んでみる。

 さすがに冬の夜間は寒いということで母屋の蔀は全て閉じられており、光源は四隅に置かれた高灯台の揺れる灯りだけだ。

 その灯りの元、鏡面に映し出されるのはいつもと変わりない自分の姿だけ。内裏で見た白いふわふわした光も、色糸も、何もない。強いて言うなら現代の鏡より若干全体が曇っているが、それは製造方法の違いだろう。


 やっぱり芳が言うような、おかしな力を持った物ではないと思う。


(あ、にきび)


 額の端に小さいにきびを見つけて顔を歪めた時、母屋の戸が開く音がした。振り返るまでもなく、東北の対へ巻物を取りに行った晴明だろう。

 にきびの縁に爪をあてて、どうにか芯を出せないかと悪戦苦闘していると、何をしているのか問う声が聞こえた。


「ここ、にきびが出来ちゃったので芯を――・・・」


 横着して振り返らずに鏡の中から後ろの晴明を見た瞬間、息を呑んだ。


 鏡の中の晴明の背から、黒く禍々しい靄のようなものが立ち昇っていた。

 植物の蔓のようにも見えるし、何かの動物の尾のようにも見えるそれは何本も蠢いて見える。それらが鏡の中のわたしに纏わりつき、手や首を締め上げ、耳や口へ侵入しようとしていた。


 すぐに自分の体を確認するも、当然実体のほうには何も起きていない。


 もう一度鏡の中に視線を戻すと、鏡の中のわたしは黒いものにすっかり絡めとられて所々に肌色が見えるだけになっていた。鏡の中の晴明の目は昏い金色に輝いていて、心底楽しそうにあの凶悪な笑みを浮かべている。


 実体の方の晴明を振り向きたいのに、どうしても鏡の中の光景から目が離せない。振り向けない。


 ごくりと生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。


――― ミシッ


 床が鳴る。

 鏡の中の晴明が一歩近づいた。黒い靄が一層濃くなる。黒い靄の中に一瞬だけ煌めく何かが見えた。


――― ミシッ


 もう一度床が鳴る。

 鏡の中の晴明が更に大きくなって、鏡面はほぼ黒い靄だけになった。


――― ミシッ

――― メキョッ


 更にもう一度床が鳴ったと同時に、腹と背に強い圧迫感を感じる。

 手の中の鏡が、金属がダメージを受けた時特有の硬質な音を立てて真っ白に曇った。もう何も映らない。


「どうした」


 やけに楽しそうなその声に、思い切って頭を振り仰いだ。

 腹に回された腕と背に密着している体から考えるに、天井を仰ぎ見るように上を見ないと晴明の顔が見えない。


(・・・なんだ)


 実体の晴明は鏡の中と違って黒い靄も背負っていないし目の色もいつもの黒紫色だったので、ほっとして体の力が抜けた。

 本当はへなへなと座り込みたいくらいだったのに、腹に晴明の腕が強く巻き付いているのでそうできない。腹いせに全体重をかけて腕に寄りかかった。


(これ飛蚊症ってやつ?)


 瞼をしぱしぱと閉じたり開いたりしてみる。

 飛蚊症は確か母世代以降の悩みと聞いたことがあった。まだそんな年じゃないと思いたいし、何より飛蚊症だとするととんでもない蚊の大群だったが、他に説明がつかない。目薬なんてまだ存在しないとは思うが、典薬寮でどうにかしてもらえないだろうか。


「何でもないです、ちょっと目が疲れたみたいで」


 右腕だけがするりと腹から離れ、その冷たくて筋張った手指が鏡を持つわたしの右手を舐めるように撫でる。

 背にかかる圧力が俄かに大きくなり、わたしの頭に顎が乗せられたのがわかった。


「またおかしな事に首を突っ込んだな」


 わたしのせいじゃない。騒動のほうから首を狙ってくるのだ。

 でもどうせばれてしまったのだし潔く打ち明けてしまおうか。

 渋々と、今日の同僚との話を聞かせてみせた。心の奥深くの願望がわかるという鏡、その真贋が知りたいという同僚、伊予が試してみた話。どう考えても眉唾物だと思うのだが、持ち主を不安がらせないよう専門家としての適切な取り扱い方法についてのコメントが欲しい。

 それなのに―――


「私の望みが見えたか」


 全然わたしの話を聞いてないんだから困る。


 仮にあの映像が望みだとすると具体的な内容は全く読み取れないが、えらく禍々しい物なのは間違いないのでどう答えたものか迷った。


「いつ叶えてくれる」


 それは間違いなくいつもの平坦な声なのに、複雑な色が入り混じっているように聞こえるのは何故だろう。つむじに生温かい息がかかって背筋がぞわりと粟立った。腹に回った腕と、右の手首を掴む手の平にぎゅうと力が込められて苦しい。

 わたしが叶えられる望みなのかも知らないのに、何も言えない。


「えーと、考えておきます」


 必殺、自社へ持ち帰り検討致しますの術。

 そう言うと、あからさまに面白くなさそうにふんと鼻を鳴らされた。ずるずると塗籠へ引っ張られるので、この話はこれでお終いらしい。

 せめて何か一言、と芸能リポーターばりに食い下がると、ただの鏡なのだから小箱にでもしまっておけという身も蓋もないコメントが得られた。


(専門家、とは・・・)


 がっくりと項垂れたわたしに、ついでのように晴明が付け足す。


「その鏡は見る側に力が無ければ何の意味もない」

「どういう意味ですか?」


 聞き返したわたしの言葉に、今度は返事がなかった。衣の中に放り込まれて、いつものように抱き込まれる。もう寝ろと言うことだろう。

 仕方がないので、明日芳になんと申し開きするかを考えながら眠りについた。鏡を壊してしまったことをどう謝ろう。

 悶々と悩んでも、人間勝手に眠気はやってくる。考えがまとまる前にすぅと意識が落ちていくのがわかった。


「私の望みはお前だけだ」


 だから、眠りに落ちる寸前に聞こえたその言葉を咀嚼して理解することはできなかった。


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