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陰陽寮には色々な官がいるが、総じて言えるのは穏やかで仲の良い寮だと言うことだ。他の近衛府や兵衛府など荒くれ者ばかりで揉め事が多いと聞くし、神祇官などは血筋で厳しく統制され他家の者はそれだけで遠ざけられるらしい。
これは偏に陰陽頭の賀茂忠行様の御人柄によるものだ、と僕は思う。
「皆、おはよう」
今朝もにこやかに出仕してきて、皆と朝の挨拶を交わしている。僕みたいな下っ端にもよく声を掛けてくれて、緊張するけどすごく嬉しい。今日も一日がんばろうって気になる。
その忠行様の後ろを直衣を纏った二人の男性が歩いて行く。
一人は忠行様の御子息であり御弟子様でもある保憲様、もう一人はその弟弟子様の晴明様だ。保憲様は忠行様とよく似た面差しで物腰柔らかなのだが―――
(晴明様はすごく綺麗な人だけど怖いんだよなぁ)
これと言って何か言われたことがあるわけではない。そもそも僕みたいな下っ端の者には滅多に声を掛けないし目もくれないのだが、余計な言葉を発しようものなら一刀両断されそうな鋭利で冷たい空気が終始漂っている。
忠行様の御弟子様とは言っても陰陽寮の所属ではない上に、一説によると忠行様よりも御偉い位にいるとも聞く特異な立場だ。よって常時寮にいるわけではないのが幸いだが、今日のようにこちらに出仕している時は心なしか寮内全体がピリリとする。
触らぬ神に祟りなし。
それよりも、晴明様がこちらに来られているので気になることがあった。
――― きょろきょろ
(御方様は・・・いらっしゃらないか)
がっくりと肩を落とす。我知らず懐に大事にしまっている文を袍の上から押さえた。
よく晴れたある秋の日、見知らぬ、とは言ってもおそらくとても偉い殿上人から突然受け取った文だ。何かと思い慌てて開いて見れば、晴明様の御方様からの文だった。故郷に帰る、短い間だったが良くしてくれたという内容で、以前した他愛もないおしゃべりの思い出が綴られていた。些細な内容だったのによく覚えていてくれたなあと感激したものだ。
僕の他にも交流の合った陰陽寮の官たち全員に文が届いて、皆突然の別れを悲しんだ。
それから誰からともなくこんな話が真しやかに囁かれたのも無理はない。
御方様は、晴明様があまりに冷たく無下に扱うのに耐えかねて故郷に帰られたのだと。
然もありなんという内容だったので、今でも信じている者は多い。何故か都の西での鬼退治に参加した者を中心に疑義を呈する者も居たが、真相は誰にもわからなかった。それが最近―――
(連れ戻されたと聞いたんだけどなぁ)
「おーい漏刻担当、朝の掃除終わったか?」
「あっまだです!今から行ってきます!」
噂が本当であれば、折角劣悪な環境から逃げ出したのになんとお可哀想な方なのだろう。
小型の網を片手に、陰陽寮の庭に設置された漏刻へ向かう。
漏刻は、階段状になったいくつかの槽を水が流れていく経過を見る事で、時刻を正確に計る仕掛けだ。でも庭に剥き出しに設置されたそれはすぐに葉や屑が入ってしまうので、頻繁に掃除をしないと計測結果が狂ってしまう。
御方様と知り合ったきっかけもこの漏刻だった。
――― ぽちゃん
そろりそろりと網を水槽に突っ込んで、葉や塵を救い上げていく。槽は大きいしそれなりに深いので、網を隅々までくぐらせるためには冷たい水に手を突っ込まねばならない。
『ひゃあ、まだ秋なのに結構冷たいね!』
『ああ~~僕がやるから御方様はいいんです、おやめください!』
御霊会で初めてお会いした時、この漏刻に興味津々だった御方様に色々聞かれたので教えてあげた。なかなか他の人に興味を持ってもらえるような代物ではないのですごく嬉しかったのを覚えている。
それから、たまに陰陽寮に来ると声をかけてくれるようになった。僕がガタガタ震えながら漏刻の掃除をしていると、おしゃべりしながら手伝ってくれるのだ。その時間が楽しくて、穏やかで、あの文にその時の事が書かれていたので御方様もそう感じてくれていたのかと感激した。
あの近寄りがたい雰囲気を持つ晴明様の御方様とは思えないほど、表情豊かで朗らかによく笑う人だった。何故晴明様と結婚することになったのかすごく不思議だ。晴明様は愛情で結婚するような方には見えないので、やはり政略結婚だろうか。
僕もいつか結婚するならあんな女性がいいな。
やっと水槽の中が綺麗になったのを確認し、網を仕舞おうと寮内に戻ると前方から陰陽寮の官に導かれて誰かがやって来るのが見える。
お客様だ、と脇に避けて頭を下げようとして、ものすごく驚いた。
(御方様!!!)
向こうも僕に気付いてくれて、にこっと手を振ってくれたので胸が高鳴った。嬉しい、やっぱり戻ってきてたんだ。
でも少し様子がおかしかった。
(なんだか・・・怒ってるぞ?)
僕から視線が外れた途端、柔らかな顔を無理矢理しかめて睨めつけるように前を向き、忠行様が居られる間へ消えていった。
気になる。すごく気になる。
そして、あわよくば帰りしなに一言でいいからお話ししたい。
「おい、押すなって」
「もうちょっと頭下げてくれ」
「こっちからだと柱が邪魔で見えないよ、奥詰めて」
口々に小声で言い合う。同じことを考えた者の多い事多い事。
忠行様の間の前で、御方様に気付いた陰陽寮の者たちが押し合い圧し合いして様子を伺っていた。当然御簾が下がっているので人影がやっと確認できる程度だが、話声はなんとか聞こえる。
「晴明が、もう祭祀をやらないと言っておってな・・・」
弱り切ったような忠行様の声に、押し合い圧し合いしていた官達が同時にぎょっとした。
「夜半まで掛かるようなものだけです」
当然の話と言わんばかりの晴明様の言葉に違和感を覚える。なんで夜半の祭祀だけ駄目なんだろうと皆が首を傾げた時、続けて聞こえてきた内容に空気が固まった。
「妻が寂しがるので」
くつくつと笑う晴明様の声以外、何も聞こえない。誰も喋らない。何とも言えない奇妙な空気に包まれる。
沈黙を切り裂いたのは御方様だった。
「全く寂しくありません!」
珍しくも憤慨している。いや、そういえば御霊会の後に陰陽寮でお会いした時も晴明様にからかわれて憤慨していたかも。
「だから、どんどん夜半の祭祀を行っちゃってください!!」
毎日でも良いですよ、ととんでもない提案を忠行様にしている。
忠行様はふむと呟いた後、晴明様と御方様だと思われる人影の肩をぽんぽんと叩いて、よく話しなさいと言って向こう側の御簾を上げて出て行ってしまった。
陰陽寮の官達が固唾を飲んで見守る中、御簾の中に残されたのは晴明様と御方様二人だけだ。
ここに居るものは皆、例の噂を知っている。いざと言う時には仲裁に入るべきか、という葛藤が全員の頭を過ったと思う。
御方様だと思われる人影は、御簾と御簾の間に通る太めの柱に右半身を預けるように座りこんだ。晴明様がするりと立ち上がってその前に来ると優雅な動きで屈む。
二人は小声で何かを言い合っていた。御方様は身振り手振りを加えて一生懸命不満を訴えようとしているが、対する晴明様は聞いているのかいないのか、歪んだ笑みを一層深めたのが御簾越しでも辛うじてわかった。
二人の間では話がまとまったのか?それともやっぱり揉めているのか?
よく聞こえないので全員が半身を乗り出した時。
――― トンッ
何かが建具に当たる音がして、それから御簾の向こうの二つの人影の頭部分が八割ほど重なった。御方様の腕が中途半端に持ち上げられてわなわなと震えている。その頭の影越しに、晴明様の強い視線がこちらに向けられていた。完全に覗き見がばれている。
捩じるように顔を押し付けながらジロリとこちらを睨むその細められた目には、多分牽制の意が込められていたように思う。
僕も含めて、こっそり覗き見ていた者全員が真っ赤になった自分の顔を手で覆ってしまった。だって陰陽寮の官は皆純朴であるから、こんな、こんな―――
(破廉恥なものを見せられたら!)
皆の動揺を他所に、戻って来た忠行様に晴明様が何事かを囁いて頷きあっている。御方様も忠行様に何事か囁くとお辞儀をしてふらふらと出てきた。
(あっ・・・)
急に出てきたので、覗き見していた僕らは散る間もない。
御方様と見つめあう僕らの間に、緊張した空気が流れる。怒られてしまったらどうしよう。
「晴明様のせいでどっと疲れました・・・」
(気づいてないですね、これは)
覗き見されていたとは思い至らないほど憔悴した御方様は、愚痴のようなものを吐かれた。これは雑談が始まる気配、と全員が身を乗り出した時、晴明様も御簾から出てこられて御方様の後ろに立つ。
「そういう仕事なんだから・・・ってちょっとやめてください」
後ろから両手を回した晴明様が両の頬を摘まむので、柔らかな御方様の頬が変形する。それを振り払うと今度は背を撫で上げるので御方様はぐるりと後ろを向いて地団太を踏んだ。が、晴明様にはあまり効果がないようだ。
まるで常に触れていたいと言わんばかりに何時までもちょっかいを出しているので、御方様は更にげっそりとした顔で距離を取った。でも二人が纏う空気はぎすぎすとしたものではなくとても和やかなので、これがいつもの触れ合いであることを感じさせる。
「やめてくださいってば」
「何を」
(とても楽しそうです、晴明様・・・)
皆その時思った。
もしかして、いやもしかしなくても、晴明様は大変な愛妻家なのではと。あの噂は何だったんだ。
いつまでも続きそうな睦み合いに、一人、また一人と散っていく。この二人に割って入ることなどできそうもない。
御方様のことは好きだ。そしてその御方様を慈しんで愛でて揶揄う晴明様も、割と好きかもしれない。二人をずっと見ていたいような、そんな気がする。
(晴明様にちょっとだけ親近感が持てました)
その後伝え漏れてきた話によれば、御方様の体調が芳しくない時に限って別の者が夜半の祭祀に立つということで落ち着いたそうだ。
僕ももっと立派な官になって、代理に立てるようにがんばろう。