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熱を持った荒い息が首元にかかる。抱き上げた腕に伝わる体温は常よりかなり高いようだ。
東北の対から母屋への渡殿を巡る間、できるだけ体を冷やさぬように袿で包んだがどれほどの効果があるかはわからない。
苦悶の表情を浮かべた妻の蟀谷から一筋の汗が流れ、顎から首筋、そして激しく上下する胸元へ落ちていく。半開きの唇からは意味を成さない悶え声が断続的に漏れていた。その姿のなんと煽情的なことか。
嗚呼、貪りたい。咬みつきたい。食んでしまいたい。
これが常の夜であれば師との約束も忘れ欲を抑えられなかったかもしれないが、残念ながら今の妻は私を受け入れられるような状態でないのが口惜しい。
――― ガンッ
塗籠の戸を蹴り開けると、置畳の上に妻の体を横たえた。全身の筋肉が弛緩し力無く転がるその体を抱き込むと、幾重にも連ねた衣をかける。以前兄弟子が、熱があるときは兎に角汗をかかせるのが第一だと言っていたのを思い出していた。
本来であれば祓えでも行うが、妻の特殊な体質からあまり効果があるとは言えない。元より体が備え持つ力を補助するしかない。
「うぅ・・・ん」
毎夜こちらに背を向けて眠る妻が今は顔を埋めるよう胸に縋りついてくるので、ほんの悪戯心で背に回した手で背骨を刮ぐように強く撫で上げた。すると首を後方に逸らし、身を捩りながら腕の中で二度三度と大きく震えて反応するので、無意識に喉が鳴る。
これ以上弄ぶと理性の緒が千切れて撫でるだけでは気が済まなくなってしまう。
人は脆い。病で気を遣っている最中に体を重ねれば危険だとは理解していた。仕方なくと刮ぐ手を止めると、足の先まで力が入っていた体が再度弛緩するのがわかった。
――― とぷん
水差しに口をつける。
そうして口内へ含んだ水を口移しで飲ませると、案外素直に飲み下した。眠っている時だけは反抗しないらしい。いつもこうであれば可愛げのあるものを。
頭上の厨子棚の上には水差しの他に、葛湯や生姜、葱など風邪に良いと言われる物がこれでもかと言うほど乗せられている。全て道満が投げつけて寄越したものだ。
道満は何故、いつ、妻の不調に気が付いたのか。
『お前はあいつに相応しくない』
相応しくなかったら何だ。相応しいか否かに関わらず手離すつもりはないのだから詮無い話だが、道満のほうが先に妻の異変に気付いた事だけは許せなかった。私だけが妻の体の隅々まで知っていれば良い。
嗚呼、本当に腹立たしくて堪らない。道満の目の前で体を暴いて夫が誰なのか分からせてやろうか。
道満の件だけではない。何故舞姫など務めたのか。昨夜成明と何をしたのか。
妻はまるで嵐の目だ。周囲を巻き込んでいるようでいて、あちらこちらの騒動に引き込まれ、ふらふらと余所見ばかりするので気が気ではない。私は妻以外一切目に入らないというのに。
成明に言ったことは冗談ではなかった。本当に足を砕き、目を潰し、縛り上げて塗籠に閉じ込めてしまいたい。
「早く目を覚ませ」
起きたら余所見するのが恐ろしくなるほどの仕置きを与えよう。
額に浮かぶ玉のような汗を拭うと静かに唇を押し当てた。
*
髪の毛が微かに引っ張られる感じがする。くるくると指に巻き付けてほどくことを繰り返す手遊びのような動きだ。
同時に冷んやりした何かが頬を撫でて、首筋を撫でて、出し抜けに脇腹を撫で上げた。
(うぅ・・・痴漢)
駅員に突き出さないと、と思うのに声がでない。
今乗っているのは何線だったっけ?次は何駅だっけ?次の駅まで何分くらいあるんだっけ?
脇腹をまさぐる手を掴む。
(この人痴漢です)
こちらが抵抗する気があると悟ったからか、痴漢は動きを止めた。あとはこの手を捕まえたまま、次の駅に着いたら駅員に突き出すだけ。今日は社外会議の予定はなかったから時間に余裕はあるはず。
そう思っていたら唐突に現れたペットボトルが口に宛がわれて、強制的に水が流し込まれる。このペットボトルの口元、冷たくてやわらかい。変なの。
でもとても喉が渇いていたので夢中で口を開いた。流し込まれるままごくごくと飲み干すと、最後にペットボトルの口部分がわたしの唇ににゅっと吸い付いてから離れた。
「いつから」
「何故言わなかった」
(痴漢が何か言ってる)
うーん、なんの話だっけ。記憶がぐちゃぐちゃに混ざる。確かに最近言おうとして言えなかったことがあったような。
ああ、そうだ、わたし意地を張って言えなくて―――
(本当は体調を崩してちょっとだけ寂しくて、心細くて・・・少しだけでも傍に居てほしかった)
口に出してみたものの、誰にそう思ったんだっけ。何で痴漢にこんな話してるんだっけ。
首を傾げた時、いきなり全身がぎゅうと締め上げられた。優しい抱擁ではなく、内臓が全部口から出そうな力で抱きしめられている。でも、嫌じゃない。心落ち着く雅で上品な香りで肺が満たされる。そうだ、この香りは。
「・・・晴明様、苦しいです」
重い重い瞼をどうにかこじ開けると、いつもと変わらない朝の景色が広がっていた。
暗い塗籠の中で辛うじて見える調度品類と、息がかかるくらい至近距離にいる夫と、馴染みの香りが焚きしめられた衣。
「・・・あれ?なんで塗籠?」
確か昨夜は東北の対で寝たはず。目をこすりながら晴明を見ると、なんでもないような調子で返事があった。
「持って来た」
「・・・」
折角風邪がうつらないよう別の場所で寝たのにこれでは意味がない。
(昨日接触した成明様とか舞姫達にもうつってなきゃいいけど・・・)
とりあえず自分の額に手の平をあててみると、もうすっかり熱は下がっているようだった。鉛のように重かった体も元に戻っているし、喉の痛みも引いている。
「体は」
「もう良くなったみたいです」
長いこと寝ていた気がするが、寝起きの気分も良い。今何時だろう。
衣の下でうんと体全体を伸ばしてから解す。それから起き上がろうとして、ふと晴明の様子を伺った。昨晩帰宅した際は何だか機嫌が悪かったと記憶していたが、今はすこぶる機嫌が良さそうだ。相変わらず表情筋は不均衡な仕事しかしていないが、纏う空気が違う。
「なにかあったんですか?」
「もう夜に行われる祭祀はしない」
「ええ・・・?」
(何の話だ)
わたしが寝込んでいる間に仕事の調整でもあったんだろうか。
いつものドッジボール的剛速球コミュニケーションだとそれ以上の詮索は諦めようとしたが、あまりにも愉快な様子なのが少し気になった。人の首元に顔を密着させてくつくつと笑うので、笑い声が直接鎖骨を揺さぶってくすぐったい。
「危うくここから出られないところだった」
「ええ・・・??」
(晴明様が?・・・それとも、わたしが?何故?)
言葉の真意はわからない。
でも直感で深堀りしないほうがいい話題であると判断して、今度こそ起き上がった。
塗籠の戸を開けると、とっくに太陽は高く昇っており澄んだ青空が広がっている。しんと冷えた空気が気持ちいい。思わず深呼吸していると、遠くの方から筑後が遅い朝餉を準備している匂いも漂ってきた。
ああ、やっぱり健康が一番。