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夜というにはまだ早い時間だが、季節柄もうすっかり辺りは薄暗がりに包まれている。
普段ならこの時分は人の気配がまばらになって寂しい空気が漂うのだが、今日の玄輝門の周辺は騒がしい。
(筵道だ)
牛車から降りた舞姫たちが汚れないようにだろう、門から内裏まで筵が敷かれていた。
あまり不躾にじろじろ見るのも悪いだろうと門の影に立っていると、砂利を踏む音が近づいて来る。
舞姫は四人だと聞いたが、足音はもっとずっと多い。何故だろうと思ったが、彼らの姿が見えて納得した。まず足元を照らすための松明を掲げる下人が数名、それから紅色の唐衣を着た舞姫、後ろに汗衫姿の御付きの童女達、そして彼女らを案内する直衣姿の年若い公卿達が居る。
舞姫や童女は一様に扇で顔を隠して下を向いているので表情は伺えないが、公卿達の表情は松明に照らされてはっきりとわかる。緊張で顔がかちかちに強張り、手と足を同時に突き出して歩いていた。
(そりゃそうか)
公卿達はまだ十代後半に見える。同じ年頃の女子はもう御簾の奥に籠っているだろうから、こんなに近くで、それも几帳や御簾無しに接する機会がないのだろう。見てはいけないと意識的に顔を背けつつもチラチラと舞姫達を盗み見る様子はとても微笑ましい。なんと言うか、親戚のおばちゃん的目線になってしまう。
門の陰からにこにこと見守っていたのだが、ふと公卿達の中でも一番後ろを歩く男子が気になった。
彼は思い詰めたように、そして睨みつけるように舞姫達を見ている。他の公卿達と全く違うその表情はどういう心境から来ているものだろう。殿を歩いているのが幸いし周りはその異様さには気づいていないようだ。
じっと様子を伺っていたが、特に何事もなく宣耀殿から建物へ上がり、一行は常寧殿のほうへ消えていった。
(具合でも悪かったかな・・・?)
年に一度しか見られない舞姫の参内姿を見られたことに満足し、今度こそ帰宅の途に就いた。
*
――― ずりずりずり
火桶を置き畳の真横まで無理矢理引き摺ってくると、できるだけ近くに寝転がった。
今夜は本当に寒い。
布団代わりの衣を纏めて掴むと顎下まで引っ張り上げる。いつも背中に引っ付いてくる体温の低い夫は今はいない。
新嘗祭前夜に行われる鎮魂祭を執り行うため、まだ内裏に居るはずだ。たまにこういった祭祀のため夜分に不在となる日があるが、必ず朝には何食わぬ顔で塗籠に戻っているので心配はしない。それにそういう時は必ず筑後が居残ってくれるので不安もなかった。
ただ―――
「っ・・・くっしゅん」
風邪の引き始めなのか、どうにも体調が優れない。いつも適当にあしらっているのに、こんな時だけ心細くて傍にいてほしいと思うなんて現金過ぎると自分でも思う。
(愛宕山で温泉に入った時、湯冷めしたかなあ)
東北の対にいるはずの筑後のところへ行こうか、それともこのまま寝てしまおうか。決めかねているうちにうとうとと眠気に襲われそのまま眠りに落ちた。
――― するするする
ふと目を開けると、上下左右すべて闇に包まれた世界に先日も夢で見た白蛇が居た。真っ赤な瞳がじっとわたしを見ている。
(ああ、またこの夢か)
何度も蛇の夢を見るなんて金運が上がりそう。
調子の良い事を考えてそっと白蛇の頭に手を伸ばして撫でると、気持ちよさそうに目を瞑ってじっとしている。ゆったりしたその様子はなんだか可愛い。
(大人しいな)
体調不良で人肌が恋しくなっていたからか衝動的に鎌首に抱き着くと、白蛇は驚いたように仰け反った。いくら大人しいからと言ってもさすがに駄目かと思い離れようとしたが、まるで引き止めるようにするりと一周巻き付いてくる。その体温はあまり高いとは言えない。
(変温動物だもんね)
この白蛇も実在していたらとっくに冬眠に入っているのかな、とどうでもいい事を考えると、そんな事はないと言わんばかりに首を横に振った。
ここでは声が出せないのだが、不思議と白蛇はわたしの考えを読んでいる気がする。
(夢の中だから、都合よくできているんだろうな)
どうせ夢だからと、とりとめもない事を心に浮かべてみた。
少しだけ頭が痛くて、少しだけ喉が痛くて、少しだけ体が怠くて、少しだけ寂しい。だからくっついていてほしい。
考えを読み取ったのか白蛇はとても困ったようにしっぽの先を揺らしていたが、やがてしゅるしゅると何周も体を巻き付け始め、ついにはわたしの首元から足先までみっちりとぐるぐる巻きにしてしまった。
白蛇にほとんど温度がないので温まりもしないし、人肌と違ってざらざらしているし、決して心地よいものではないけれど、その行動に不器用な優しさを感じて笑みが零れる。
(ありがとう)
心配そうに覗き込んできた白蛇にお礼を言うと、真っ赤な舌が鼻先をぺろりと舐めた。
やはりわたしの考えは伝わっている。
舌と同色の瞳をじっと見ていると、それに見覚えがある理由に唐突に思い至った。愛宕山で食べたあの二粒の茱萸の実にそっくりだ。
それに気づいた途端、白蛇の真っ赤な茱萸の目がかっと見開かれ、白蛇の体はまるで何かに喜ぶかのようにぶるりと震えた。わたしの体にぴったりとくっついていた白蛇の体がぎゅうと絞められる。
(く、る、しい)
体が軋む。
急にどうしたのか、その原因を探る前に意識がほどけて溶けていった。
――― ぱちっ
目を開けると、そこはいつもの塗籠だった。晴明はまだ帰って来ていない。
塗籠の中からでは何時なのかわからないので戸を開いてみると、外は僅かに白み始めていた。夜明け直前のざわざわとした周囲の空気も感じられる。
これ以上体調を悪化させないように戸をしっかり閉めて、もう少しだけ温まろうと衣に潜り込んだ。
不思議とあの白蛇にはマイナスの感情は持たなかったが、それでも夢を見る度に絞殺される目には合いたくないので二度寝するのはやめておく。
(体調悪い時って変な夢見るよねえ)
衣の中で両手と両足を何度も擦って温めると、気合を入れて起き上がった。これからもっと寒くなるとますます起き上がるのが大変だと思いながら、顔を洗うためにのろのろと塗籠を出る。
ちょうど渡殿のほうから浄衣姿の晴明が歩いてきた。
「おかえりなさい」
ふあぁとあくびをしながら出迎えると、冷たい手が伸びて来て頬を撫で親指が目の下をぐりぐりと撫でた。言いたいことはわかる。ずっと夢を見ていたということは眠りが浅かったということだし、更にいつもと比べずっと早い時間に起きてしまったので目の下にひどい隈があるのだろう。
「ちょっと早起きしすぎちゃって」
もう一度大きくあくびをすると、首の後ろを強く引かれてお互いの頬が触れ合った。
耳元で囁きが聞こえる。
「私が居なくて眠られなかったか」
「そんな事ありません。ぜーんぜん違います」
本当は体調不良からくる心細さがあって傍に居てほしいとほんの少しだけ思っていたのだけど、それを素直に言うのはなんだか悔しくて言わなかった。それに、代わりに白蛇が一緒に居てくれた。
ふんっと顔を背けて井戸の方へ向かうと後ろからくつくつ笑う声が聞こえる。
(いつもなら一人でもぐっすりだし)
誰に伝えるわけでもないのに心の中でぶつくさ言い訳してしまうのは何故だろう。
――― ぱしゃんっ
氷水かと思うような井戸水を勢いよく顔にかけ、もやもやした気持ちを無理矢理切り替えた。