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岩が乱雑に積まれた中に乳白色の湯がこんこんと湧き、湯煙が立ち上っている。卵の腐ったようなお馴染みの匂いがするので硫黄泉だろう。温泉は温泉だが、秘湯と表現するのが相応しいものだった。
もちろん周囲には脱衣所どころか衝立すらない。木々に囲まれているものの、どこからでもアクセス可能、つまりどこからでも見られる可能性がある。
「ここは女が入られるようなところじゃねえだろ」
なるほど、道満の反応はこういう事か。
しかしそろそろ冬が来るというこの季節、昼とは言え全身濡れた状態でいたので体の芯から冷えていた。
「寒い!から入ります」
絶対こっち向かないでくださいね、と言いながら袿に手をかけると、道満の顔は面白いほど歪んだ。
「・・・わかったよ、じゃあ俺が周りを見張ってる」
「いえ、一緒に入りましょう」
「はぁ!?」
常識的に考えても、交代で入るほうがいいのはわかっている。一応人妻なのだし。でも―――
(申の刻まで時間がない!)
一分でも遅れたら晴明に何を言われるか、いや、何をされるかわからない。
約束の時間までに帰り着くためにはここで悠長に交代で湯に浸かっている時間はない、でも温まりたいし道満に風邪をひかせるわけにもいかない。
「だから、ぱぱっと同時に入ってしまいましょう!」
頭を抱える唸る道満に駄目押しで声を掛けた。
「大丈夫、お互い背を向けてれば気になりませんよ」
「そういう問題じゃねえんだよ!!」
正気かとか、恥じらいはないのかとか色々と文句を言っているが、袿をばさりと脱ぎ捨てると道満は慌ててこちらに背を向けてしゃがみ込んだ。その状態のまま、温泉の脇の切り株の上に脱いだ衣を置くよう言う。
「あとは笠置・・・あのおっさんが乾かすから」
おじさんの名前は笠置というらしい。
わかりました、と言いながら手早く切り株に脱いだ衣を乗せると、髪の毛を高い位置に括りなおしてちゃぽんと足先から湯に浸かった。
(あったかい、生き返る)
顎までしっかりと沈み込むと、あっという間に体がぽかぽかしてくる。
ふぅと息を吐き湯の中で両手両足をぐぐっと伸ばすと気持ちがいい。その時、微かな水音と同時に水面が揺れた。ようやく諦めたらしい。
湯煙の外側から笠置が衣を持っていく音がした。
右の手の平で湯を掬うと、それを左の首筋にかけ流す。反対側の手の平でも同じようにする。
しばらくはその水音だけが辺りに響いていた。
「・・・・・・頭」
「ん?何か言いました?」
「頭大丈夫か」
背中越しに聞こえた質問に、一瞬喧嘩を売られているのかと勘違いしそうになったが、その後の言葉で納得した。
「頭を強く打った後、湯浴みや飲酒で急激に具合が悪くなるやつがたまにいる」
どうやら心配してくれたらしい。大丈夫だと言うと、そうかよという呟きが聞こえた。お互いに背を向けて喋っていると聞き取りづらい。
確かにそのような話は聞いたことがあるので、今回は長湯はしないほうがいいかもしれない。
(万全の状態の時に、また温泉に入りに来たいな)
頼んだら入れてくれるだろうか。
そんなことをつらつらと考えながら湯に浸かっていると、急にお腹が空いてきた。そういえば、折角茨木が持たせてくれた昼食も食べていない。
申の刻に家に着いたとしても夕餉まで少し時間があるから、できれば帰り道で食べたいな。
――― ちゃぷん
水面が揺れる。緩やかな弧を描く波紋が見える。
ああ、忘れないように晴明へお土産を持って帰らねば。
(どんぐり・・・は、まずいか)
小さい頃、どんぐりを家に持ち帰って後日起きた悲劇が思い出された。紅葉にしよう。
――― ちゃぷん
また水面が揺れる。描かれる弧はさっきよりも大分小さい。
「大方乾きましたよ!手拭いと一緒に切り株に置いておきますからね!」
「はーい、ありがとうございます!」
笠置の声が湯煙の外側から聞こえたので、こちらも返事が届くように声を張り上げた。
衣が乾いたということは、入浴し始めてから思ったよりも時間が経っているのだろう。そろそろ出ないと間に合わなくなるかもしれない。
「じゃあ、わたし先に上がりま・・・」
――― ぐらっ
湯から上がろうとした瞬間、ぐにゃりと世界が回った。
眩暈を起こしている、というのはわかる。単純に逆上せたか、さっき頭を打ったから?
(あ、極度の空腹時の入浴も危ないんだっけ)
斜め右へ傾ぐ体でどうでもいい分析をしたとき、ざぶんと大きな水音がして後ろから何かががしりと支えてくれた。
「ったく、世話が焼ける!」
何枚も重ねた着物の上からではわからなかったが、やたらと筋肉質な腕が腹に巻き付いている。一拍置いてから、道満が支えてくれたのだと気づいた。
このシチュエーションでこの体勢はまずいとは思うのだが、世界はまだぐるぐると回っていて一人では立てない。思わず巻き付けられた腕にぎゅっと抱きついたら、その腕はびくりと大きく揺れたものの離れはしなかった。
左側の腰にも手が添えられる。
「おい、立てんのか?頭痛か?」
乱暴な口調とは裏腹に、その触れ方は壊れ物に対するそれだ。あまりにも恐る恐る触るので、却ってくすぐったい。どこかの誰かとは大違いだ。あちらは人間の限界強度ぎりぎりの力加減で触れてくることが多いので、こんなに慎重に触れられると逆にこっちも緊張する。
「大丈・・・」
――― ぐーきゅるるるる
「・・・」
「・・・眩暈がするほどお腹が空いちゃって」
てへへと笑うと背後の気配が明らかに呆れたものになった。
「色気のねえ女・・・」
辛辣なコメントではあるが、心配をかけてしまったと謝ろうとして何も考えずに振り向いてしまった。
「・・・体、柔らかいですね」
「うるせえよ」
湯から出ているのは上半身のみで、首から下はこちらを向いてわたしの体を支えているのに顔をほぼ180°後ろへ捩じっていた。精一杯の配慮をしてくれたのだろう。口調と行動の乖離が激しい。
道満の首が捩じ切れる前にと急いで湯から上がると、切り株の上の手拭いで手早く水気を取る。自分の着替えを抱えると少し離れた岩の脇に移動し、道満に声を掛けた。
「わたしの着替えは取ったので、もう上がっても大丈夫ですよ!」
体の芯はぽかぽかしているとはいえ、外気温が低いので急激に冷える。手早く衣を身に着けるが、こんな時何枚も重ねるこの時代の衣はもどかしかった。
もう適当でいいやと袴の帯を雑に結んで複数の袿を一気に羽織ると、切り株のところへ戻る。
男性の衣も色々重ねるので時間がかかると思ったが、すっかり身支度の整った道満が立っていた。
「じゃあ帰りまし・・・んぐっ」
矢庭にもにゅっとした何かが口に突っ込まれる。
「腹減ってんだろ、茱萸の実だ」
遠い昔に祖母の家の庭に生えていたものを食べたことがあるなと思い至って歯をたててみれば、渋みと酸味と甘味が混じった独特の味が口内に広がる。すっかり空っぽになった胃袋に染みる、素朴で懐かしい味だった。
「おいひい、あひがほうごらいまふ」
もぐもぐと口を動かしながら礼を言うと、何故かもう一粒口に押し付けられた。よほどひもじい奴だと思われたのかもしれない。
黙ってもう一粒も口に入れると、気が済んだのかすっと離れて行くぞと言う。
(茱萸って時期が外れているような気もするけど、色々種類があるのかな?)
*
――― ゴォォン
鐘の音が響く。
――― ずだだだっ
牛車から飛び降りて猛ダッシュしながら数えた。今のは五つ目の鐘。
門の前に立つ人影を見てさっと青ざめながら更にスピードを上げる。
六つ目。
七つ目。
――― だんっ
七つ目の鐘の余韻を聞きながら、右足だけ敷居の内側に踏み込んだ。
「セーフ!!セーフですよね??」
人影、もとい晴明ははぴくりとも表情を崩さずこちらを見下ろす。
思わず伝わるはずのない横文字を使ってしまうほどには焦っていたが、この薄い反応ならセーフのはずだ。
後ろからゆっくりと追いついてきた牛車の中から、光栄がひょいと顔を出して咎めた。
「牛車から顔出すのも駄目なのに、走り出すとかひどいぞ!」
命が懸かってるのだから仕方がないではないか。
晴明からは特にお咎めはなかったので、厨のほうへ回って筑後に夕餉はいらないと声をかけた。申し訳ないのだけど、今の時間ならまだ作り始める前なので間に合う。
「あら、寒いのだから汁物だけでも食べませんか?」
「うーん・・・今日はやめておきます」
帰り道にて茨木お手製の昼食を食べてしまったので、もう夕餉を食べる余力がない。
湯浴みも済んでいるし、お腹もいっぱい。
今日は色々と疲れてしまったので、もう休もうか。
母屋に入ると、ちょうど光栄がわたしの監視報告を終えたところのようだった。
「ってわけで、いつも通り大暴れしていましたが依頼は完了しました」
(いつもそんなに暴れているつもりはないんだけど・・・)
最終結論が問題なしであれば何でもいいや。
寝巻に着替えようと塗籠の戸を開けた時、襟首をぐいと掴まれて体が宙に浮きそのままぐるりと回転した。
目の前に晴明の顔が近づいて、思わず空中でのけ反る。
「わっ!?」
「帯の結びが朝と違う」
(・・・名探偵か?)
別に悪い事をしたわけではないが、この居たたまれない気持ちというか罪悪感はなんだろう。急いで着替えたことをものすごく後悔した。
「あ、それは湯浴みしたからです」
フォローのつもりか光栄が口を挟む。
(お願い、どうか余計なことは言わないで!)
「たっ・・・滝の水を被っちゃって冷えたので、住職様にお湯をお借りしました!」
光栄が何か言う前に差し障りのない範囲で自己申告すると、ゆらゆらと揺れるわたしの額のあたりをじっと見られているのがわかる。秘密を見破ろうとするようなこの視線が少し苦手なのでそっと目を伏せたら、ふぅんという気のない声とともに床に下ろされた。
(よし!)
他に色々と言われる前にと今度こそ塗籠の中に飛び込んだ。