07
保憲から奪い返した式盤を脇に抱え、スタスタと歩く。砂を踏む音が背後から聞こえてくるので、兄弟子もまだ着いてきているようだ。
今日はこれから一旦屋敷へ寄り、寝具を受け取らねばならない。これ以上絡まれないよう背後には気づかないふりをする。
受け取るだけであれば家人で構わないが、どうもあの女を一日中邸内に野放しにしておくことに落ち着かない。持ち物や出で立ちから、本人の言う通り未来人であるのは偽りないことだろうが、人間性までは保証されていない。邪な心を持つ者かもしれないのだ。
(面倒なものを押し付けてくれる)
苦々しい気持ちで陰陽寮の前を通りかかった時、小さな何かが転がりでてきた。
「父上!晴明様!母上が・・・!」
見れば兄弟子の二番目の子、光国だった。
普段は兄の光栄の影に隠れ大人しくしていることが多い。それが滅多に聞かない大声をあげ、えらく慌てている。
「晴明様の御方様を苛めているのです!」
半べそをかきながら兄弟子の足に縋りつく。
思わず存在を無視していたはずの兄弟子と顔を見合わせた。
御簾越しとはいえ、風通しはいいので大きな声はよく聞こえる。
初めて見たが、兄弟子の妻はなかなか苛烈な女性であるようだ。
(喧しい)
兄弟子のことは、口には出さないが同じ道を歩む者として尊敬すべきところも多い。しかし、その周囲に同じように敬える人が集まるかというとそうではない。人間の醜い部分を煮詰めて凝縮したような彼の妻の言動に反吐が出る。宮の中には男女問わずこういった手合いが多いので、この場所自体が嫌いだ。
兄弟子が目線だけで謝ってくる。
彼は止めようと思っているのだろう、身を乗り出したのを制した。
ちょうどいい。
御簾の隙間から覗くと、対峙する二人の女が見える。奥のほうには見慣れた衣を纏う、特段特徴のない顔の女。手前には私の妻。彼女のほうはこちらにほとんど背を向けているので、表情はうかがい知れない。
一方的に奥の女が聞くに堪えない話を捲し立てる。妻のほうは聞いているのかいないのか、消え入りそうな声で薄い相槌を打っていた。もしかしたら泣くのを堪えているのかもしれない。
(無害、しかし無能、といったところか)
喧しい女も嫌いだが、すぐ泣く女も嫌いだ。
あれだけ責め立てられて、防戦一方で言い返さないというのはどうにも気が弱いのだろう。駒としては微妙かもしれないと思いながら、そろそろ止めようかと口を開きかけた時。
「あなたの価値は、ご主人の持つ素晴らしい役職次第なんですか?」
急にはっきりした声が響いた。
あ、と思う間もなく向かいの女の扇が振り上げられる。このまま打たれてしまうと思ったが、しかしそうはならなかった。
ボオオォッ!!!
女たちの間に火柱が見える。薪に火をつけた時とは全く違う、勢いのある火力。同時に、嗅いだことのない良い香りがふわりと漂ってきた。
「夫がクビになったらわたしが陰陽師になって養います」
尻もちをついて転がる女に、声高々と宣言し振り返った妻の表情は晴れ晴れとしていた。
御簾と御簾の境目に手を突っ込むと、はしたなくも勢いよく跳ね上げて出てくる。御簾の両脇にいる私と兄弟子には全く気付いていないようだ。そうしてようやく、帰る手段がないことに思い至ったようだった。
すごすごと室内に引き返すと情けない声を出す。
「わたし、どうやって帰ったらいいですか・・・?」
堪えきれなくなった兄弟子が噴出したことにより、彼女達はやっとこちらの存在に気付いた。
*
晴明の兄弟子の保憲だと名乗った男性は、丁重に謝ってくれた。先ほどの女性の夫のはずだが、夫婦でも随分人間性に差があるようだ。
声音に楽しんでいるような節があったのは気づかないふりをしよう。
夫人のほうは先んじて牛車に詰め込まれており、もうあの罵り声は聞こえない。
「そんな噂が回ってるなんて知らなかったな
僕たち今日は陰陽寮には来なかったしね」
噂というのは、昨日の実頼の案そのままの晴明の結婚話だった。晴明の身近な場所ということで、成明達が陰陽寮に噂という形で話を流したのだろうか。
たまたま用事があり陰陽寮を訪れていた夫人はそれを聞いて、前々からよく思っていなかった晴明へ牽制するため独断でわたしを呼び出したらしい。
彼らは晴明の為人を知っているはずなので、その噂をどう思ったのか気になるのだが――・・・
「これ、なんですか?」
保憲の表情から反応を得ようと思うのに、眼前に晴明の左袖が垂れさがり何も見えない。仄かなお線香のような香りに包まれる。密着しているわけではないが、晴明の腕の中に入る形になっており居心地が悪い。
面倒くさそうにこちらを一瞥しただけの晴明に代わり、保憲が答えてくれた。
「普通、女性は家族以外に素顔を見せないよ」
御簾、几帳、扇などで隠すんだけどね、という補足で、先ほどの男の子にも注意されたことを思い出した。人の目を見て話すと教えられた現代人としてはコミュニケーションが取りづらくて仕方ない生活様式だ。
いずれも手元にないわたしのために配慮してくれたようだった。
まあこの隠し方もかなり問題だ、と保憲が言う。
偉い人に見られたら処分されちゃうかもね、と彼がからかうように笑うと真上から返事が落ちてきた。
「私が解雇されても妻が養ってくれるので問題ありません」
(盗み聞きとは趣味が悪い!)
不機嫌に顔を歪めると、目の前の袖が微かに揺れた。