63
あの女の勘は良いと思う。晴明と自分は似ている。両親のうち片方が人ならざる者だという共通点から、性格ではなく魂が。
人ならざる者は執着がただ一つのものに収束しやすい。母が亡くなったあとの父は、自分も生まれたばかりの弟たちも顧みることなくどこぞへ飛び立ってしまった。大人になった今なら、母との思い出が残る場所に居るのが辛かったのかもしれないとも思えるが当時は随分と荒れた。
そんな時、境遇の似た者がいると風の噂で聞いて会いに行ったのが晴明との初めての対面だった。晴明ならこの辛さや孤独をわかってくれるのではないかと淡い期待があったが、自分があまりにも尖っていたからか、いや、元々あらゆるものに興味の持てない奴だから、適当に往なされた。その時から今に至るまで何かと争い続けているが、もしかしたら晴明は争っているという認識すらないかもしれない。
自分の性質は幾分か人に近いが、おそらく晴明は人ならざる者に近い。
だから、こんなところにこんな顔をして立っているのだ。
「いくらお前でもこの結界は簡単には破れない」
几帳の裏で身じろぎして出て来ようとする女を目で制しながら言う。女の腕には黒紫の呪がはっきりと表れていた。先日から何度も何度も上書きしてほぼ完成したはずだった深紅の呪は跡形もない。再度上書きされた。元があまりにも薄くなっていたので不完全ではあるが、物理的接触無しでそんなことを実現する方法は知らない。何らかの禁術を使ったのだ。
あの晴明が何を目的にここまでするのか。
(執着、か)
こっちの動揺を知ってか知らずか、母屋の入り口前に立ち塞がる晴明は淡々と問う。
「私の妻はどこだ」
「お前の女なんて知らねえよ」
手元から離れたらすぐに忘れているだろうという予想は甘すぎたようだ。
それでもこの結界の中は外側からは靄がかかって見えないはず。彼は母屋の中に妻が居るかどうか探しあぐねている。
今日のところは知らぬ存ぜぬを通して追い払うしかないと思ったその時、晴明が目を疑う行動に移った。
晴明の右腕が戸の影から何かを引っ張って抱え上げる。よく屋敷に遊びに来る集落の子だ。その喉元には小刀が突き付けられていた。
「出て来なければ、この子供に傷がつく」
天気の話でもするかのような平坦な声なのに、背筋がぞわりとする。
(俺に向けて言っているんじゃない)
慌てて几帳を振り返るが遅かった。
「やめてください!」
「馬鹿、出るな!」
靄の中でも女の姿が垣間見えたのだろうか、それとも声が聞こえたからだろうか。晴明の顔が歪んだ笑みの形に変わった。
*
まさかこんな形で再会することになるとは。
震える足で晴明の方へ歩く途中、道満が小声で囁いた。
「危ないから戸の敷居は越えるな」
敷居を越えても越えなくてもあまり変わらない気もするが、こくりと頷いて母屋の戸の手前に立つ。
「その子を放してください」
晴明は何も言わなかったが小刀は下ろされた。泣きながらこちらに駆けてくる子をぎゅっと抱きしめると背に隠す。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・お姉ちゃんのねんねこ歌を歌ったら捕まっちゃったの・・・」
まさか子供に歌った子守歌から居場所を割り出したのか。
そんなことをしてまで晴明は何をしに来たのだろう。最初は道満との仕事上のトラブルかと思ったが、先ほどの会話を聞くにわたしを探していると言わなかったか。
晴明は何も言わないが、目を細めてこちらをじっと見るその視線に違和感があった。小さすぎる文字を読もうとするような、暗がりで前が良く見えていないような、そんな目をしていて微妙に視線が合わない。
バチバチッとかすかに耳障りな音が聞こえるが、これには覚えがあった。
(前に陰陽寮の中庭で見た、あの静電気みたいなやつだ)
その音は晴明とわたしの間、戸口の辺りから聞こえる。道満が敷居を越えるなと言ったのはこれのためか。
不意に目の前の晴明が狩衣の懐に手を突っ込んで白くて薄い板を取り出し、バチバチしている戸口の空間に押し当てたが、それが目に入った瞬間戸口から飛びのいた。以前自分も全く同じことをしたので何が起こるのか予見できる。
回路が焼き切れる嫌な臭いに混じって、肉の焦げる臭いも漂う。
「手を離して!」
想定外の通電で壊れかけた携帯電話を握ったまま戸口に押し当てているせいで、晴明の左手は火傷を負っているはずだ。すぐにリチウム電池も発火するだろう。
もう一度同じことを叫ぼうとした時、晴明の顔を見て息を呑んだ。彼は心底楽しそうに昏い笑みを浮かべていた。
――― パァンッ
予想通り晴明の手の中で爆発発火した携帯電話の炎が、その笑みを不気味に照らす。左の手の平は直視できないほど爛れているのに、痛みを感じる素振りもない。
(怖い)
今までの人生で感じてきたのとは色の違う恐怖。理解の及ばない存在、訳が分からない存在に対峙する恐怖。
でもそんな事を考えたのは一瞬だった。
陰陽寮の中庭で起きたのと同じように、携帯電話の犠牲で不快なバチバチ音が消えた。晴明の視線は、今度はわたしを真っすぐ捕らえている。こちらに向かって来る。道満には目もくれない。背に隠した子を道満のほうへ押し出し、無理矢理蔀を弾き上げて庭へ出た。
(やっぱりわたしを追ってるんだ)
冷静に考えれば逃げる必要があるかどうか検討の余地はあると思う。用件も聞いていない。でもあの異様な様子を見てどうして逃げずにいられるか。本能的に逃げることを選択した。
道満や集落を巻き込んではいけない。集落とは反対側の斜面を降りよう。
庭から洗濯場へ回り、置いてあった桶を踏み台に築地塀に上がった時、思わず悲鳴を上げかけた。
「保憲様・・・」
道満の屋敷の周りは松明を持った多数の官達に囲まれていた。
保憲を筆頭に御霊会の時に見知った顔、それに御春もいるので陰陽寮と近衛府か。彼らもこんなところからわたしが現れると思わなかったのか、こちらを見上げて固まっている。
――― ガチャン
ハッと後ろ見れば築地塀の瓦を踏んで立つ晴明が居た。煌めく金糸が織り込まれた濃紺の狩衣の袖が優雅にひらひらと舞う。しかし黒焦げの左手が目に入って体が強張り、じりっと後ずさった。
保憲達がどう動くか迷っているように見えるのは、彼らの前で色々な大道芸を披露してきたからだろうが、あいにく今のわたしの手元には爆竹も手品のタネもない。
銃も川に落ちたとき全ての弾薬を水没させてしまったので使えなくなった。仮に持っていても彼らには向けられないが。
懐から鉄扇を抜き出して構える。
(何でこんな事になってしまったんだろう)
塀の上の晴明、塀の下の保憲達、両方を警戒しながらじりじりと集落と反対側の斜面の方向に進むと、出し抜けに晴明が小さい紙人形のようなものをこちらに投げてきた。間髪入れずに鉄扇で叩き落とす。
紙など放っておけばいいかもしれない。でも直感で無視してはいけないと思った。
ちらと後方に視線をやると、斜面まであと百メートル以上はある。いつ迄も塀の上に居るより隙を見て下りて走った方が良さそうだ。
「皆様、何用ですか?」
「迎えに」
晴明の簡潔な回答に頭痛がする。何のために迎えに来るんだか。
思わず眉間に手を遣ろうとした時、もう一度晴明が紙人形を投げたので反応が一拍遅れた。だがぎりぎり叩けたと思った瞬間、紙人形がふわりと有り得ない動きをして舞い上がりわたしの額にぴたりとくっつく。
「うわっ・・・!!」
驚いて体勢を崩し、瓦を踏み外してしまった。
(落ちる)
目をぎゅっと瞑ると、しかし想定したものとは全く違う衝撃が走った。鉄扇を握った手首に強烈な圧迫感と脱臼しそうなほどの重力。
そっと薄目を開ければ、わたしは晴明が握った手首だけで宙にぶらんと揺れていた。
「捕まえた」