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烏羽色の光  作者: 青丹柳
狂い花
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 背後から漏れる嗚咽を聞きながら浄衣を脱いだ。

 もう外は夕闇が広がる時分なので神祇官の官衙はしんと静まりかえっており、嗚咽と衣擦れの音だけが響く。狩衣型の上の衣を畳みながら後ろの様子を伺えば、目の周りを真っ赤に腫らした春子が板間をじっと見たまますんすんと鼻をすすっていた。


(どうしたものか・・・)


 変質者を追い払った後、当然陰陽寮からの事情聴取を受けた。

 まずわたし、次に神祇官、春子、最後に少年。本来であれば半ば無理矢理連れてこられたことを声を大にして言うべきだとは思ったが、その後彼らがひどい処分を受けるのではという懸念があって何重にもオブラートに包んで話したつもりだ。

 神祇官まではよかった。気落ちした様子ではあったものの、それほど時間を置かずに解放された。

 だが、春子は両目からぽろぽろ涙を流して泣きじゃくりながら戻ってきたのだ。驚いて彼女を神祇官の官衙まで送って来た陰陽寮の官を見れば、彼も何が起きたのかわからないようで首を横に振った。

 少年に至っては連れて行かれて大分経つのにまだ陰陽寮から戻ってきていない。


 陰陽寮への業務妨害の主犯格は春子だと判断されたのだろうか。

 少年とは姉弟のようだが、二人の様子を見ていればどちらか主だか判断しかねる場面もあったので実際どちらが今回の件を企てたのかわからない。


「・・・いい気味だと思ってるんでしょ」


 ぽつりと彼女が鼻声で言った。

 いい気味も何も、業務妨害についてはしっかり怒られなければならないことだが、さすがに泣きじゃくる彼女を正論で刺すようなことはしない。

 指貫を畳んで狩衣の上に重ねると、女孺の衣を手早く身に着けた。


「だって仕様が無いじゃない・・・好きなんだもん・・・」


「小さい頃からずっと好きなんだもん・・・」


 (しゃく)り上げながら独白は続く。


「絶対結婚するって・・・決めてたんだもん・・・」


「諦められないよぅ・・・・」


 わたしは分からなくなっていた。

 晴明の好きな人というのは彼女だと思っていた。ずっと前から面識があるのは間違いないようだが、しかし晴明は春子に対してあまりにも無関心に見える。苦労して取り次いだ文の反応も芳しくなかったし、今日だって河原で顔を合わせたのにまるで春子が居ないかのように振舞っていた。

 間違いないのは春子は晴明がとても好き、ということだけ。


 歯を食いしばって涙を流す彼女を見ながら、ほんの少しだけ晴明が羨ましいなと思った。

 こんなに激しく身を焦がすような恋情を向けられる人が一体どれだけいるだろう。彼女はルール違反をしてまで晴明にこちらを見てほしいと強く願い続けている。晴明がどう思っているか知らないが、やはり彼女になら。


――― 妻の立場を引き継いでもいいんじゃないか


 元より、いつか誰かに引き継ぐつもりだった。


「・・・確認と提案があるんですが」








 

 私は目の前の男が怖い。この男を前にすると暑くもないのに発汗し、喉の奥がやたらと乾燥する。これは人間が持つ本能的な恐怖だと思う。

 姉は小さな頃からこの男を一途に想い続けているが、それは力を正しく測るすべがない者特有の憧れだ。卜部の血を引きながら、姉には家業の才が全くなかった。


「排除するつもりだったが、見逃そう」


 嬉しそうにくつくつと喉を鳴らして笑う。


 何故、とは聞かない。この男をこれほどまでに上機嫌にした、先ほどの河原での出来事を間近で見ていたのだから。信じられない事に、万事無関心の極みに居るこの男が妻に異常に執心しているらしい。あろうことか血に触れるのを許し、あまつさえそれを嚥下することを期待しているように見えた。

 血が混じるということは魂が交じるということ。私の知るこの男は他者にそんな真似を許さなかったはずだ。それを望むほどに執着しているとは想定外だった。


 この男を恐れながらも姉の手助けをしたのは姉にも見込みがあると思ったからだ。

 良くも悪くも他人に等しく興味がない男なのだから、誰と結ばれたとて差異はない。だったら生業が近く由緒ある家系である卜部を排除することもないだろう。彼に利はあっても損はない。どこの馬の骨とも知れない女には利すら無く比ぶるべくもない。そう考えていた。


 御霊会で騒ぎを起こし事態を収拾することで陰陽寮に恩を売り、邪魔な妻を勾引(かどわ)かす。その計画が悉く狂ったのは、彼女もまた普通ではなかったからだ。この男のように半神と呼べるほどの存在ではないようだが、門に施した術を看破し、心読みが通じず、また事あるごとに奇妙な術を使っていた。


 おかげで今、困った状況になっている。


「本当に晴明は性格が悪い」


 飄々とした態度で首をすくめるのは賀茂保憲だ。こいつも信用ならないと思っている。


「あの弓矢はぎりぎり彼女には当たらなかったよ。あちらは当てるつもりがなかったようだからねぇ」

「万一でも傷つけられたくないのです。それに――」


 庇って傷を負えば、罪悪感という名の鎖に繋げる。

 そう言った男の顔はぞっとするほどに美しく歪んでいた。


(狂ってる)


 できれば姉の願いを叶えてやりたかったが諦めてもらうほかない。

 もはやこの男の妻にも同情し始めていた。彼女はどこまでこの男の本性を知っているのだろうか。


「これ以上余計な事をするな」


 先ほどまでの上機嫌を消し去り、冷たい声音が響く。


 今回、私達がやり過ぎてしまったのは間違いない。許されたのは本当に運が良かったのだ。

 卜部の次期当主としては、黙って頭を下げざるを得なかった。




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