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烏羽色の光  作者: 青丹柳
狂い花
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 置畳も敷かず、直接板間に転がると心地良い秋の日の光を全身で受け止める。

 朝餉後でお腹一杯であることも手伝い、つい微睡みそうになった。このままでは牛になってしまう。折角の休みなのでどこかに出かけたいが、この世界には駅ビルもカフェもない。皆どのように休日を過ごしているのだろう。


(牛車でこの辺を一周してみようか)


 遠くで筑後が家事をする音を聞きながら、車宿に向かう。

 ひょいと覗き込んでみれば、そこに牛車はなかった。


「あれ?」


 今日わたしは休みだが、晴明は出仕する日だ。

 晴明が出仕したあと、帰宅の時間まで牛車は一度邸宅へ戻ってくる。今日も出仕から一時間は経っているので戻っていていいはずだが、どこかへ遠出しているのだろうか。


(そういえば、保憲様はあれを渡してくれたかな)


 昨日、伊予から猫目の彼女の文を預かったあと、そのまま晴明に手渡すか迷った。

 というのも、伊予達は神祇官の官衙近くで文を受け取ったと言っていたが、わたしは近づくなと言われている場所だし、わたし経由で文を渡すということは何らかの理由で正規のルートでは送れなかったのではないだろうか。そうすると渡し方を工夫する必要がある。


 母屋に戻り、蔀戸にもたれて座りふうと息をついた。


 保憲には、知らない人から預かった文だと言って今日の出仕時に晴明に渡すようお願いしてある。兄弟子からだったら無下にしないだろうし、わたしも怒られない。しかももし文の内容が思ったものと違って機嫌が悪くなっても、朝渡されたら夕方帰ってくる頃には機嫌を直しているのではないか。我ながら素晴らしいアイディアだった。



 今日は筑後の手が空いたら色々教えてもらいながら料理研究でもしてみようか。

 この時代の食べ物はシンプル過ぎて物足りない、そう思った時筑後がぱたぱたと駆けていく音がした。


(まだ忙しそう・・・)


 牛になる覚悟でこのまま一眠りしようと蔀戸にもたれたまま目を閉じた時、ふわりと晴明の香が鼻をくすぐった、ような気がした。

 

(この香り、落ち着く)


 目を閉じたまますんと香を嗅ぐ。

 最近同衾しているからだろうか、前よりもずっと晴明の香に馴染んでしまった。近いうちにこの香りともお別れになるかもしれないのに馴染んでどうする。そう思うと、心の奥に小さな何かが引っかかった気がした。


 すんすんすん。

 あれ、残り香とは思えないほど存在感のある香りだなと思った時、うっかり目を開けてしまった。


「・・・・・・晴明様?」


 背中に暗雲を背負っているかのような夫が目の前でわたしを見下ろしていた。

 





 陰陽寮に立ち寄ると兄弟子が厭らしい笑いを浮かべて近づいてきたので距離を取る。こういう顔をしている時は碌な用事がない。


「晴明宛てに文が届いているよ」


 気色の悪い笑みはそのままに差し出されたのは薄桃の文。中を見ずとも送り主も内容もわかる。面倒な女が寄越したものだ。臭いものでも見るように顔を背ければ、兄弟子は文を更にこちらに近づけた。

 兄弟子も腹立たしいが、問題は何故これがここにあるかという点だ。

 あちらからの文は絶対に取り次がないように陰陽寮全体で周知されているのに、どこの愚か者が持ってきたのか。


「誰が持ってきたと思う?」


 君の御方様だよ。


 その声が耳に入った瞬間、目の前に突き出された文が潰れた。力が制御できない。

 さすがの兄弟子もその行動は読めなかったらしい。瞬間的に後ずさりして今度は向こうが距離を取る。


「・・・操られていたわけじゃない、そこは大丈夫だ」


 後ずさりながら両手を上げて首を振った。

 聞くまでもない。兄弟子は知らないが、妻の体には既に強固な結界と強い呪が刻み込まれているのだから。だが操られていなかったとしても間接的に彼女を唆した何かがいる、その事実が堪らなく不快だった。

 どうせあの女の後ろにいるあれだ。通常の経路では文が届かないことを見越して、妻を利用したのだ。


(私のものに触るな)


 心の奥底から昏く重い感情が湧き出てくるのを止められない。これを払拭できるのは一人しかいない。 


「帰る」


 踵を返せば後ろで兄弟子が文句を垂れているが、知ったことではない。





 蔀戸にもたれてうたた寝するその顔は穏やかだ。呼吸をする度に体が僅かに上下する。

 顔を見ればこの漠然とした靄が晴れるかと期待したが、逆に鬱屈した感情を呼び起こした。


 こちらの気配に気づいたか、身じろぎして頭を持ち上げる。


「・・・・・・晴明様?」


 焦げた茶の瞳がこちらを見上げた時、自分の中で何かが弾けた。


――― ダンッ


 彼女の顔の横の蔀戸を力任せに叩くと、それだけで彼女の全神経が自分に向いたことを確信して少しだけ靄が晴れた。

 和歌の話題で八の字になる眉、機転を褒められると膨らむ鼻、寝入り端に潤む眼球、些細な出来事を面白がって笑う口、悪戯を仕掛けると膨らむ頬、緊張すると舌で濡らす癖がある唇。

 その全てが今、自分の一挙手一投足に縛られている。気分が良い。


「あの文を取り次いだ意図は何だ」


 彼女も何の話か察したようだが、こちらに取り次いだことが露見しているとは思わなかったらしい。大きく目を見開いている。


「汚らわしい文など必要ない」


 その言葉に彼女は首を傾げて悩むような仕草をした。

 大方、あの女がこちらに気を持っていると見て手伝う気になったのだろう。少しずつこの手の内に堕ちて来ながら、しかし彼女は既の所で境界を維持していた。だからこそ、何かにつけて他の妻を娶るよう勧めてくるのだ。それが腹立たしくて仕方がない。

 今回の件においてもその魂胆が透けて見えたからこそ、この鬱屈した感情を抑えられない。


 彼女を利用する者も、他の女を宛てがおうとする彼女も、どちらにも腹が立つ。


「私の妻は一人で充分だ」


 蔀戸に突いた手と反対側の手で下顎を固定すれば逃げるように頭を振った。どうせ逃れられないというのに無駄な事をする。

 彼女の抗議を聞く前に口を塞ぐと肩を叩かれたが、口内を弄れば大人しくなった。真昼の母屋に響く如何わしい音に耐えかねたのか顔を歪めて固く目を閉じている。


「・・っ・・・もうしないって言いましたよね」

「言ってない」

「言いました!」

「人前ではない」


 もたれていた蔀戸からずるずると背を下に滑らせ逃れようとしている。追いかけ、覆いかぶさると小さな悲鳴と筑後を呼ぶ声が上がったが、その後はくぐもった声だけが響いた。



 初めは手元に置いておければ満足だった。でも今は―――



 嗚呼、何度貪っても腹が減って喉が渇く。

 満たされない、満たされない、満たされない。


 いっその事、ぐずぐずに溶かして全て食めばこの渇望は収まるだろうか。




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