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目の前にずいと掲げられたものから目を逸らす。その紙には大きく「陳情書」と書いてあった。
「おい、よく見ろ!」
わざわざ目を逸らした先に移動して頂いた陳情書を仕方なく眺める。小豆みたいなお名前の方が誰かを探しているという内容のようだ。
「いやあ、わたしにはよくわかりませ・・・うぇっ」
じりっと寛明の後ろに回ろうとしたのだが、その前に陳情書を額にべしゃっと張り付けられてしまった。
本当は思い当たる事はなくもないが、そこへ至るまでの説明が面倒なのでできれば有耶無耶にしたい。
「権中納言が、神祇官の官衙前で会った者を探している」
札を書ける者、ということで神祇官と陰陽寮に該当者の有無を聞いてほしいという陳情が上がって来た。
そう言って成明はじとっとわたしを見た。
実頼がお前だと言っているぞ、という言葉に驚いて実頼を見れば、胡乱な目をしてこちらを伺っている。まさかあの聴衆の中に混じっていたのだろうか。良くも悪くも絵に書いたような普通のおじさんなので、上手く聴衆に同化していたのかもしれない。
笑って誤魔化そうとしたが、追及の手は緩まりそうになかった。
「札の効力が強く、連続していた強盗が入らなくなったのでまた頼みたいと」
「もう辞めていたと言っておいてください」
「やっぱりお前じゃないか!!」
はっと口を塞ぐが遅かった。成明と実頼の両方から半目で見られ居心地が悪い。
(悪い事はしてないと思うんだけど)
「一体どんな札を書いたんだ」
その目は、呪力の類は信じてないのによく札が書けたな、と語っていた。もちろんその信条は変わっていない。書いた札は呪力的なものではないのだ。
ただ、成明の前では言いにくい。
ずずいと詰め寄られたので仕方なく袂から紙を取り出し、実頼から筆を借りて力強く書き留めていく。
「この札をすべての門に貼るよう言いました」
――― 検非違使立ち寄り所
「・・・お前、本当に神経図太いよな」
「力を込めて書いたので効いたんでしょう」
筋肉的な意味でそう言うと、寛明があははと笑ってくれたが成明はさっき以上にじっとりとした目でこちらを見ている。晴明は特段反応は示さず茶を飲んでいた。
実頼が、はてと不思議そうな顔をして言う。
「しかし権中納言はあなたを本物の術師だと思っているようですよ
短冊の内容を当てたからだと思いますが、どうやったんです?」
その言葉ににやっとした。
もう一枚の紙を取り出して、あの時と同じように袋を作り先ほどの札を入れる。そうして袂から除菌スプレーを取り出すと右親指にびっしょりと吹き掛けた。
その右手で袋をなぞってから、全員のほうに向ける。
「ほら」
検非違使立ち寄り所、という文字が浮かんで見えた。
ただしその文字は滲んでいる上に、紙が真っ白ではなく混ざり物があるのでひどく読みにくいのが欠点だ。成明たちはぽかんとしている。
「誰がやっても簡単にできます」
読むのが大変ですけどね、と肩をすくめると成明が、やっぱりお前は図太いわ、と呟く。除菌スプレーのボトルを不思議そうに眺めたり嗅いだりしている成明と実頼を横目に茶を飲んでいれば、今日のこの朱雀院の集まりで初めて晴明が口を開いた。
「神祇官の官衙にはもう行くな」
その冷たい声音に、皆しんと静まり返る。
何故か、と聞こうと思ったが聞くだけ野暮だと思い直した。考えればすぐにわかることだ。
(本命の猫目の彼女と妻を接触させたくない、ってところかな)
昼ドラじみてきたなとため息をついて頷いた。いくら行先に制限をかけたところで、根本的解決にならないのだからさっさと離縁すればいいのに。そうしないと――
(いつか、この泥棒猫!なんて言われちゃったりして)
だったらそうなる前にいっそのこと二人をくっつけられないだろうか、と思案の淵に沈むのを晴明がじっと見ていることには気づかなかった。
*
「今日も休み・・・」
「みたいだねぇ」
朝、内侍所で出仕札を見ながら能登とため息をついた。
神祇官の官衙前での騒動から、猫目の彼女はずっとお休みしている。わたしだって諸々の事情で長めに休むこともあるのだからそこをとやかく言うつもりはないが、最後に会った出来事が出来事だけに心配している。
こちらに喧嘩を吹っかけて自爆したような形になっており、思春期のガラスのハートにひびが入っていないだろうか。
(反抗期が悪化してなきゃいいけど)
ただしこう言ってはなんだが、喧嘩の種が休みということで今日の仕事も平和に遂行できそうだ。残りの二人を待ちながら能登とまったりしていたら伊予と信濃が走ってくるのが見えた。
走ってはいけないと日々口を酸っぱくして言われているため、掌侍に怒られないかひやひやしながら見れば伊予の手には何かが握れらていた。淡い桃色に紅葉がくくられたそれは文、それも恋文の類のよう。
「おはよう、朝から恋文とはやるね~」
にやにやと肘でつつくと、伊予が大きく手でバツ印を作った。
「これっ!あの子からっ!」
肩で息をしながらわたしのほうにぐいぐい突き出すので目を丸くしてしまった。
息を整えた伊予達が言うには、猫目の彼女がわたしに渡すように託してきたそうだ。神祇官の官衙の近くで呼び止められたと言っていたので、もしかしてそちらが本業なのだろうか。
「・・・宛先は、御夫君だと・・・」
言いにくそうな伊予とは対照的に、ある意味予想通りだったわたしは落ち着いていた。文を受け取ると驚かれる。
「捨てちゃってもいいんじゃ・・・?」
「ちゃんと渡しますとも」
おまかせあれ、と茶化して言うと皆一様に途惑いの顔になってしまったが、気にさせないように元気よく物置に向かって歩き出した。