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視線が左右に泳ぐ。
右側に伊予と信濃と能登、左側にきつい猫目の少女、真ん中にわたし。遠目に飛香舎の女房たちが御簾の奥からこちらを伺っているのが見える。
(え~と・・・)
何故こんなことになってしまったのだっけ。
「みんな落ち着いて・・・」
そう言った途端左右から抗議の声が上がる。
「だってこの子失礼過ぎる!」
「あたしは仕事をしただけ!」
女孺の仕事においては、今までこれといったトラブルがなかったので忘れていた。ここは女性のみの職場だ。こういう種類の諍いが起こりやすい環境だった。
それにしても配属初日からこれとは、なかなか勝気な子が来たようだ。
時を遡ること三時間前。
内侍所に集まったわたし達に、掌侍が連れてきたのはきつい猫目の少女だった。産休に入った甲斐の代わりだ。目つきがかなりきついものの、絹糸のように見事な艶髪と綺麗な姿勢は大変に涼やかで見目が良く、神聖な空気を湛えていた。年の頃は伊予達とほぼほぼ同じか、少し上くらいだろう。
伊予達も甲斐に接するように親し気に挨拶したのだが、彼女は全て無視し、そして―――
(めちゃめちゃ睨まれている、ような)
顔に見覚えが無いのだから会ったことはないと思う。それなのに彼女はわたしに対して明確な敵意を持っているように見える。どこかで恨みを買うようなことがあっただろうか。
この時代での交友関係など驚くほど狭いはずなのだが。
掃除が始まるとその予感は的中した。
猫目の彼女はわたしが叩く布はたきの行く先々を遮って掃除する。簡単に言えば邪魔されている。
「「「「・・・」」」」
あまりにもあからさまなので全員何が起きているか気付き、伊予などは目に見えて不快感を表した顔をする。それが爆発したのが今日最後の担当場所の、飛香舎を出たところだった。そして冒頭に戻る―――
「・・・よし、じゃあこうしよう」
明日から各自の担当区域を分けよう、というと伊予達は渋々頷いた。猫目の少女はぷいと顔を背けたが、異論は無いようだった。
本当は区域を分ければ効率が落ちてしまうが、この場合は効率よりも円滑な業務を優先すべきだろう。毎日喧嘩していたら仕事が終わらない。
猫目の少女は物置の扉を乱暴に閉めると丁寧にも閂をかけてくれた。残り四人の掃除道具はまだそれぞれの手にある。唖然としたまま一人内侍所まで向かって歩く背中を見送った。
結局名前もわからないままだった。
(反抗期・・・?)
一般的には近しい者に対してつらく当たるようになるが、彼女の場合は近づくもの全てに攻撃的になっているのだろうか。盗んだ牛車で走り出したりしなければまあいいかと思い直し、閂を上げて道具をしまう。
忘れずに飛香舎に向けて手を振ると声援が聞こえた。
ほどなくして終業の鐘が鳴り、内侍所を出て伊予と歩く。
伊予は雅楽寮へ用事があるということで、そこまでお供することにしたのだ。猫目の彼女は鐘が鳴るなり一目散に走って出て行ってしまった。
「本当~~に嫌な奴でしたね!」
まだ怒りが収まらないらしい。足を踏み鳴らして歩いている。
「何でわたしのことがあんなに嫌いなんだろうね」
班全員に塩対応だったが、はっきりと嫌いという意思表示をしたのはわたしに対してだけだ。初対面であれだけ嫌われることはなかなか無い。いくらこっちが大人でもあれだけあからさまだとちょっと傷つく。
二人してよくわからんとため息をついた。
「それで明日はど・・・!?」
急に袿の背を引っ張られて建物の陰に引っ張られた。わけもわからず伊予の指す先を見て驚く。
(猫目の子と・・・晴明様?)
伊予と顔を見合わせた。
猫目の子はいつの間に着替えたのか、女孺の服装ではない。緋袴に真っ白な貫頭衣のようなものを着ており、女孺よりも更に巫女のように見える。そういえば雅楽寮の手前の建物であるここは神祇官の官衙のはずだ。
建物から二人に視線を戻すとまだ話し込んでおり、猫目の子の頬は紅潮し、目は輝き、顔いっぱいに笑みが広がっている。内侍所で見せていた仏頂面とは雲泥の差だ。晴明の表情はこちらからは見えないが、初対面には見えなかった。
(これはもしや)
伊予を引っ張って反対側から雅楽寮へ歩き始めると、さっきの倍ほど怒りを表した伊予がいた。
「他所の御夫君にちょっかいかけるなんて最低!!」
同意できないので、曖昧に笑って誤魔化す。
(伊予、それは逆かも)
*
ちらちらと灯りが揺れる。聞こえてくるのはすり鉢の縁を棒が滑る音だけ。
空気に晒されている左腕がひんやりする。布団の中に入れてしまいたいが、晴明がわたしの手の平を自分の下に敷いてがっちりと固定しているため叶わない。
最初は十五センチほど開けていた置畳の隙間も最近は零に等しくなった。
(さむい)
晴明が何をやっているかと言えば、今日も飽きずにメヘンディを描いている。
最初に描いた日から、一週間くらいの間隔を空けて何度も何度も上書きしているのだ。どういう目的で描いているのか不明なままだが、変なところでマメというかなんというか。色素沈着によって本物の刺青のようにならないか心配だが、この時代には刺青禁止の温泉施設もないだろうと楽観視している。
「今日はどうだった」
「特に何も・・・ああ、産休の甲斐の代わりに新しく入って来た人と顔合わせがありました」
ちらと晴明の表情を探るが、特に変化はない。
夜は冷えるようになってきたので、一枚増えた布団代わりの衣を手繰り寄せながら、空中に内裏の図を描いた。今考えるべきは明日のことだ。どんな分担にするのが一番良いだろうか。
「稚児は好きか」
飛香舎はわたしが担当するのが良いな、と考えながら生返事を返す。
すり鉢を片づける音がした。
「稚児が欲しいか」
綾綺殿は庇のところに手が届きにくいから背の低い伊予は他のところが良いだろうな、と考えながら今度は返事をしない。
するりと布団代わりの衣をめくり上げられて左半身が空気に触れた。最近冷えるからだろうか、勝手に同衾してくるようになったのには閉口している。
(せまい)
壁の方へごろりと転がり背を向ければ、背ごと抱え込まれた。
晴明の体温は驚くほど低いので、こちらの体温が奪われているような感覚に陥る。
「稚児が欲しいか」
今日はしつこい。
「・・・西の対、空いてますよ」
遠回しに別の妻を娶れと言ってみたが、鼻で笑うのが聞こえる。
(あの猫目の子、あの子じゃないのかな)
以前言っていた好きな人。
だったらこんな所でこんな事を言っている場合ではない。変な間違いが起きないように固く目を閉じ、全てをシャットアウトして眠りについた。