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嫌な気配がした。巧妙に隠されているが、誰の気配か、誰を狙っているかは疑うべくもない。まさか堂々と内裏で事を起こすとは、よほど自信があるのか、こちらが侮られているのか。
舌打ちして菊酒の杯を乱暴に置くと立ち上がった。
「晴明様、もう帰られるのですか?」
纏う深緋の袍に負けないくらいの赤ら顔をこちらに向けて、名も知らぬ官が杯を掲げながら囃すように言う。塵芥に構う暇はないが念のため主上の方を見れば何かを察したか、早く行けと手を振っていた。
紫宸殿の雑務を担う侍従たちが慌てたように沓を差し出す。乱暴に足を差し込むと傘も差さずに一直線に承明門へ向かった。移動に伴う風で咲き乱れる菊が揺れ、泥が跳ねるが構わない。
(臭い)
門の付近には独特の臭気が漂っており、その中に妻と異母兄が居た。
彼女は門を見据えたまま、じりじりと後退している。普段あれほど目に見えぬ物を否定しているが、彼女には見鬼の才があるようだ。その行動は正しい。
門は出入口、別の場所へ彼女を誘う手が見える。門に向けて九字を切れば、臭いの元が簡単に霧散した。今回は様子見か。
こちらに気付かぬまま後退を続ける腕を取ると、不安に揺れる瞳が振り向いた。こちらを見とめると不安がほどけたのがわかる。だが覗き込めばふいと視線を逸らされるのが気に喰わない。左耳の上に挿された菊の花は他人の臭いがしてもっと気に喰わない。
菊の花を身に着けていたのは悪いことではなかった。菊は邪気を払う。私の手の届かない範囲においては多少なりとも身を守るすべにはなったろう。
――― グシャ
髪に挿さった菊の花を取り上げると踏みつぶした。
「な、なにするんですか!」
「私が居るのだから、もうこれは必要ない」
目を瞬かせながら、口を開く。
「晴明様は・・・双子ですか?」
なるほど、彼女にはあの白手が自分の姿に見えていたようだ。面倒な事に異母兄が口を挟んできた。
「どうして晴明が後ろにいるの?」
前に居ると思ったのに、後ろから来るなんて驚いた。
その言葉に何度もうなずく彼女に、更に異母兄は質問を重ねる。
「なんで目の前に迎えの晴明が居たのに、門をくぐらなかったの?」
彼女は首を傾げながら、ちらとこちらを見て言いにくそうに告げた。
「なんていうか・・・あれは晴明様じゃないと思ったので」
歪んだ笑みが広がる。
目で、理で、見えぬもの以外は信じないと言いながら、彼女は正しく夫の在り様を認識していた。見た目に惑わされず、私の魂の輪郭を理解しているとも言える。ただそれだけの事が何故こんなに喜ばしいと思うのか。体の奥底に焔が沸き上がる。
彼女が落とした傘を拾い上げて広げると、その下に引き入れた。まだ首を捻っているのは、彼女の理では解しきれぬからだろう。
牛車の方へ歩き出しながら後ろの異母兄を睨めば、肩をすくめてそれ以上何も言うことはなかった。
異母兄などに構っている暇はない。
明確な敵意を向けられた以上、手を打っておく必要がある。傘の中でこちらに身を寄せながら、未だ考え込む妻を見た。
余計な事を嗾けてくる邪魔者は排除しなければならない。彼女の手を離すことは絶対にないのだから。
*
天高く馬肥ゆる秋、という言葉があるが、今日はまさにそんな天気だ。昨日とは一転して晴天が広がり、澄んだ空気が高く広がっている。
母屋の庇ぎりぎりの日が当たる場所に置畳を引っ張ってくるとごろんと横になった。
(今日が休みでよかった)
今頃は片づけ担当班の女孺達がてんてこ舞いだろう。
昨日は膳に甕にと色々運んで重労働だった上、泥が跳ねないよう慎重に土の上を進むのが思った以上に負担になっていたらしい。しっかり寝たのにまだ全身に倦怠感がある。
暖かい日差しを感じながら目を閉じれば、すぐにうとうとしてきた。微風もあるのでなお気持ちが良い。
かたん、という音に薄目を開ければ、すり鉢のようなものを持った晴明が立っていた。
狩衣姿だが内裏では見ない紫色、それも裏地が透けて複雑な色を着ている。絹特有の艶やかな光沢に目を細め、そのまま閉じようとすれば投げ出していた左腕をとられた。腕を掴むのは白く滑らかな指で一見するとどこぞの深窓のご令嬢のものかと思ってしまうが、大きくて筋張っているのでそこは男性の手だ。なんの手入れもなくこの肌のきめの細かさなのは心底うらやましい。
眠い。だけど、何をしようとしているのか一応聞いてみようか。
晴明の考えは読めないことが多い。ついでに言うと、聞いてもよくわからないことが多い。
寝入り端直前だったため考えがまとまらないまま眺めていると、すり鉢の中に入った黒い液体を鉛筆のような形の棒で掬い取っているのが見えた。何をするのかと思えばそれで左腕の肌をなぞり始める。
器用にも草花の形を描いていく。
するすると肌をなぞる感覚がくすぐったくて思わず笑ってしまうと、揺れるからだろうか、左腕をがっちりと拘束されてしまった。
「これ、知ってます。メヘンディでしょう」
ヘナを使って肌に書く刺青のようなものだ。ただ刺青と違って二~三週間ほどで消え、主に中東やインドの結婚式で施されると聞く。
インド人の同僚の結婚式に出席した際、彼女が両手両足に施していた見事なメヘンディを思い出した。仏教などが諸国を経由して入っているのだから、こういった文化も既に伝わっているのだろうか。
晴明は肯定も否定もしなかった。
以前甲斐に送った組紐を編んでいる時に指輪の話などをしていたので、こちらの文化を慮ってのことだろうか。
(でもあれは揃いの装飾品を持つという話だったんだけど)
メヘンディは女性側だけだったはずだ。違う意図があるような気がする。
うとうとしながら考えを巡らせていると左腕が解放され、そして日差しが陰った。晴明が庭側に投げ出した右腕の傍に座ったため日光が遮られたようだ。
同じように右腕にも草花が描かれていく。位置も左と全く同じで、手首より少し下、ぎりぎり袖で隠れるあたりに腕輪のように一周している。
よく見れば、ところどころに梵字のような意匠も見えるが、これもインドから伝わったのだろうか。
左右全く同じ位置なので、なんだか―――・・・
(手錠みたい)
この時代は夏も冬も袖で隠れるのだし、メヘンディは永続的なものではないのであまり気にはならない。
それよりも、これは乾かすのに相当時間がかかったはずなので熟睡しても構わないだろうと判断し、今度こそ午睡を貪ることにする。
(?)
目を閉じる寸前、あの歪んだ笑みを浮かべた晴明がこちらを見ていたような気がした。