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「これは?」
「梶の葉に願いを込めた和歌を書くんだ」
夏の夜風を感じながら、朱雀院で過ごすいつもの夜。
だったはずなのだが、今日はお茶の横に文箱に入れられた梶の葉と筆記具が用意されている。実頼がいそいそと墨を磨っていた。
一体何をしようとしているのかと思えば、今夜は七夕だという。
(短冊か!)
まだ旧暦に慣れないのでイベント事はスルーしがちだ。
この時代は短冊ではなくこの葉に、和歌の形式で願い事を書くらしい。和歌の能力必須とは参加ハードルが高すぎる。
「和歌・・・詠めないって言ってるじゃないですか・・・」
顔面で不参加表明をしてみるものの、にやにやした成明に筆と葉っぱを何枚か持たされた。絶対に面白がっている。不承不承筆を構えたのだが、もちろん書けるわけがない。
周囲を見ると、皆思い思いに筆を走らせていた。
和歌を書くことは最初から諦めているが、七夕らしく願い事は書きたい。何を書こうか。
(願い、わたしの願いってなんだろう)
健康、仕事運、交通安全。思いつくのは神社のお守りラインナップとほぼ同じ。家内安全はどうだろうと思い、チラと顔を上げるとちょうど晴明と目が合った。葉っぱの記入面を体に押し付け、見せませんよというジェスチャーをするといつもの歪んだ笑みが見える。
そういえば、家内とはどの範囲になるだろうか。
今はもう遠く離れてしまった、血のつながった家族の安全も祈れるだろうか。
いや、それよりも、元の時代に―――・・・
(いやいやいや)
この時代での生活基盤はできているし、七夕を一緒に祝う友人も居るんだし、偽物とはいえ家庭もあるんだし、そんなこと書いたら皆に心配をかけてしまうかもしれない。
でも―――正直に言うと先日晴明の母が上洛してきた時、心の中で羨ましいと思ってしまった。
それだけじゃない。寛明と成明の気の置けないやり取りを見た時、伊予と弟の仲睦まじさを見た時、心の奥底でわたしも家族に会いたいと思ってしまった。
今の今までこの時代に適応することに必死になっていたが、もしかして帰る努力もすべきなのではないか。最近特にそう思う。方法は全く思いつかないけれど。
考えるうちに気持ちが深く沈んでいきそうだったので、自分の頬を軽くたたいて意識を切り替えた。
(よし、とりあえず無難なの書こう!)
手元の葉っぱにはでかでかと『家内安全』と書いておいた。
その上で、まだ白紙の葉っぱのうち一枚を袂にこっそり押し込む。家でこっそり自分だけの願い事を書くことにした。
予想通り、わたしの葉っぱを見た成明が、和歌って言ってるだろ!とげらげら笑い、実頼が仕方なさそうに和歌に直してくれる。
そうこうして、朱雀院での楽しい七夕の夜は過ぎていった―――・・・
晴明が湯浴みをしている間に、梶の葉を袂から取り出した。墨を磨るのは今からだと手間なので、筆ペンを持ってくる。
この時代の短冊である梶の葉は笹に吊ったりしないようだが、現代式に馴染んだ者としては庭のどこかの木にこっそり吊り下げたい。
筆ペンのキャップをきゅぽんと開けて考えた。
(わたしの願い・・・)
――― 家に帰れますように
素直にそう書こうとしたのだが、晴明の顔が過ってどうしても筆がすすまなかった。今の家はもちろん晴明邸だが、この葉の中で言う家は現代のほうだ。なんだか裏切っているような気持ちになった。
別に晴明としては、わたしがこの家に居ようが居まいが興味はないだろう。なのに後ろめたさを感じてしまうのは、わたしが晴明との生活に馴染み始めているからかもしれない。
天の川を見上げる。
織姫は彦星と会えただろうか。今日はやけに感傷的な気持ちになるのでそんなことまで考えてしまう。
――― カタン
遠くから微かな音が聞こえ、はっとして筆ペンを握りなおした。
悠長に星を眺めている場合ではなかった。
意を決して、さっき思いついた通りの願いごとを書き込むと、草履をつっかけて庭に駆け下り適当な木の枝の奥のほうに梶の葉の茎を結わえる。
(勢いで書いたけど、叶ったらどうしよう)
叶ったら嬉しいような、でも寂しいような。
庭へ下りる階段に腰かけて天の川を見ていると、ほどなくして晴明が戻ってきた。月明かりに映える黒紫の濡れ髪を拭きながら、階段のほうへ寄ってくる。
「どうした」
「いえ・・・七夕なので天の川を見ていただけです」
なんとなく晴明の顔を見られなくて、空を見ながら言う。
目線を逸らしたまま、湯浴みに行ってきますと伝え母屋を離れた。
だから―――・・・
その後晴明が庭に下りて先ほどの梶の葉を見つけ、それを破いたことには気づかなかった。