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彼女にどう接触しようかと悩んでいたが、思いのほか早く機会が巡ってきてしまった。今からしようとしていることは褒められたことではない。だから機会を得られなければ諦めようと思っていたのに。
都合よくぶら下がってきた餌に、喰いつかないという選択肢はなかった。
父の話を真剣に聞きながら頷く彼女をちらと見る。
(ごめんね)
真実を知ったら彼女は怒るだろうか。それでも後には引けない。
これは彼のためだ。
父も自分も、彼が小さな頃から気にかけてきた。人としての基礎教養から家業である陰陽道までをも授ける中で、少なくない時間を共に過ごしてきたのに彼はいつも周りと線を引く。一歩下がって俯瞰し、必要以上に関わらない、執着しない。それは他人に対しても、彼自身に対しても。
父は常々、この状態は良くないと言っていた。あまりにこの世の全てから距離を置きすぎて、簡単に生を手放しそうだと。
原因はわかっている。そして、今、それを解決する用意がある。
そのためには、多少なりとも彼が興味を持っている彼女が餌として必要だ。
(ごめんね)
もう一度心の中で謝った。
*
藍色の袍の袖を翻して大股で渡殿を歩く。もう夏の頃だが、夜はまだ涼しく過ごしやすい。冠から垂れ下がる長い纓が夜風に揺られる様が自分の心のようだ、などと柄にもない事を思ってしまった。
このまま渡殿で移ろいゆく雲をただ眺めていたい。そう切実に思うが、そろそろ仕事を始めねば。
本日の宴は、先日の内裏での演奏会成功を労うため各楽家が合同で開いたものだ。特に帝からの評が良かった藪家の邸宅が開催場所となっていた。
だから―――・・・
(なんで晴明様がいるんですかねえ)
渡殿の手すりに突っ伏して動かなくなったわたしの背を突っつく者が居る。
「おい、早く妖姫を探そうぜ」
保憲の息子の光栄だ。補佐をつけるとは言っていたがまさか彼とは思わなかった。
陰陽寮で保憲たちからされた依頼。それは、妖姫を誘い出すことだった。
藪家の当主が秘密裏に邸内に妖姫を囲っている噂があり、それを誘い出し陰陽寮まで送り届けろという。その後のことは保憲たち陰陽寮が全て請け負うので大丈夫だと言われた。
普通に考えて妖姫などいるはずないのだから濡れ衣だろう。そのまま引き渡して良いとは思えない。あとは大丈夫だと言われても傍は離れないつもりだった。
今はそんなことより。
「さっき晴明様居なかった?」
それでもって、こちらを睨んでなかった?そう聞くと光栄は首を横に振った。
「何言ってんだ、いるはずねえじゃん
よしんば居たとして、あんなに人がごちゃごちゃしてちゃわからねえよ」
しかも男の恰好してるのに遠くから見てわかるもんかよ、という言葉には納得する。今、自分の恰好は立派な平安男子だ。やはり気のせい、と思うことにしよう。
さあ早く、と光栄が責っ付くのでよっこいしょと立ち上がった。
西の対には伊予達が居るはずなので、東の対か東北の対のほうだとあたりをつけている。そろりそろりと進んでいった。
東の対は几帳やら棚やらが雑然と置かれていたが、人の気配が全くしなかった。ということは東北の対のほうだろう。
――― カサッ
東北の対の御簾をそっと上げる。
線香のようだが仄かに甘い香りがした。目の前にある几帳の更に向こうに女性がいるようだ。
光栄に目配せすると、頷いて牛車の準備をするために車宿のほうに走って行く。あとはわたしが上手く連れていくだけ、なのだが。
(どう声をかけよう・・・)
「こんばんは」
わたしは青年、そう何度も心の中で念じながらできるだけ低い声で話しかけた。
「こんばんは」
返ってきた声は思いのほか落ち着いたものだった。几帳の向こう側で身じろぎしたのだろうか、わずかに衣擦れの音がする。
「・・・月が綺麗ですね」
言うに困って思わず有名な一文を声に出してみた。後世の人の間では別の意味もあるが、彼女には通じないだろうな。
彼女がくつくつと喉で笑う。
(なんか・・・お姫様って感じじゃない)
不思議な印象を受けた。最近どこかで似たような笑い方を聞いたような気がするが思い出せない。
「文を書いておりましたの」
でも、いい夜ですからお散歩したくなりましたわ。
都合よくそんなことを言ってくれる。都合が良すぎて誘い出そうとしているこちらが罠に嵌められているような気持ちになった。
では一緒に月を見ましょう、と言うと几帳の裏から真っ白な手首が出てくる。連れて行ってということだろう。もう片方の手で扇を開き顔を隠しているのは、いかにも姫君という所作だった。
触れた手は氷のように冷たい。こちらの震えを悟られないように極々ゆっくり車宿まで歩を進めると、牛車の脇に立った光栄とアイコンタクトして乗り込む。
(なんとかなった~)
気づかれないように息を吐いた時、彼女の手に何かが握られているのが見えた。
牛車がゆっくり動き出す。
なんだろうとじっと見ていると、気付いた彼女が差し出して見せた。中には文字が書かれており、先ほど書いていると言っていた文だろう。宮中でよく見る和紙だったが、内容に目を見張った。
「月・・・満ちる・・・息子?」
わたしの知る文法とは全然違うので文意が読み取れないが、単語を拾う。それは明らかに英語で書かれていた。自然と次の文章に目が滑る。
その時両頬を掴まれて、文章から強制的に目をそらされた。眼前に金色の目。黒い瞳孔がキュッと縦に窄まるそれはまるで猫のよう。
そのまま身動きが取れない。
牛車がガタガタと揺れる。
「・・・」
「・・・あの・・」
一心不乱に食い入るようにわたしの眼球を凝視するので、途惑いがちに声を上げると更に瞳孔が縮まり驚いたような顔をされた。
そうしてニタァっと笑うと紅い唇を舐め上げている。獲物を前に舌なめずりするようなその動きに背筋が凍る。
「痛っっ!!」
首の左側に鋭い痛みを感じて、それから何が起きたかわかった。彼女がわたしの首に飛びつき、わざわざ襟元を緩めて噛みついている。
慌てて引きはがそうとするのだが、くらりと眩暈がして牛車の壁に手をついた。光栄を呼ぼうと口を開けるのだが、舌がまわらない。
金色の目が何重にもぶれて見える。
(だめだ、くらくらする・・・)
どうにかしなければと気が焦るが、そのまま意識は暗闇に沈んでいった。