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平安宮内裏、綾綺殿。ここは普段は使われていない殿であり、本日の演奏会に際しての控室になっていた。
その中の一間、藪家に割り当てられたエリアで籠に必要なものを押し込み、慌ただしく準備を進める。
(ええっと、ノートパソコンとプロジェクタ、あとケーブルも)
現当主については妖に憑かれたという主張があり陰陽寮が動いていたようだが、やはりと言うべきか、結局当日までに屋敷へは戻ってはこなかった。万が一ということも考えていたが、やはりこの作戦でいくしかない。
成明と実頼には文を出して伝えているが、うまくやってくれるだろうか。
今、この一間にはわたししかいない。
伊予とその弟にはかなり特殊なことを頼んだので、宣陽門のところで最後の練習中のはずだ。
自分の衣を見下ろした。いつもの動きやすい女孺の衣だが、わたしにもこれから大仕事が待っているのでこのままではいけない。やるぞ、という気持ちを込めて袿に手を掛けた。
――― ミシッ
(?)
二人が戻ってきたのかと、戸の代わりに下がった御簾を見て驚いた。
御簾の向こうに束帯姿の男性が立っているようだが、伊予の弟にしてはずっと背が高い。慌てて几帳の裏に隠れて息をひそめた。
楽家の者ではないわたしは本来ここに居てはいけないので、厄介な相手には見つかりたくない。そっと体の向きを変え、顔を壁にくっつけて絶対に顔面を見られない体勢を取る。顔さえ見られなければ伊予のふりで通せるだろうか。
御簾を上げる音がした。
――― ミシッ ミシッ
別の楽家の者が控えの間を間違って入ってきたのだろう。
(うわ~~こっちに来ないで~~)
めり込みそうなほど壁に顔面を押し付けたとき、背中に何かが覆いかぶさるのがわかった。
「壁にくっついて楽しいか」
「・・・ん!?」
聞き覚えのある声。馴染みのある香。
壁から顔面を引きはがして振り向くと、一週間ぶりに見る晴明があの歪んだ笑みを浮かべていた。へな~っと脱力する。これから大仕事、というところでつまみ出されるかと思った。
「驚かせるのはやめてください!!」
意地悪く喉の奥で笑う。
晴明の束帯姿は初めて見た。彼もまた今日の演奏会に出席するのだろうか。見慣れない黒い袍からいつもの香がすることに何故か安心した。
「どうしてここに居るんですか?」
返事はない。
代わりに耳元に温かい吐息がかかった。ぞわっと肌が粟立つ。
「一週間は長い」
早く戻ってこい。
それだけ言うと、するりと背を撫でて晴明は離れていった。
(な、なんだった・・・?)
呆然としていたが、伊予達の足音が聞こえたのでハッとして自分のやるべきことを思い出した。
*
こそこそと綾綺殿から出ると、予め落ち合うことになっていた実頼にプロジェクタを渡す。そうして周囲を警戒しながら紫宸殿の入り口脇までくると梯子から梁へ登った。
身軽になるために袿は脱いでおり、たすきを使って袖をまくり上げた格好だ。この格好を見た人が卒倒するレベルのひどい恰好である自覚はある。
(なんとか登れた・・・)
ほっとする間もなく、急いで成明の上の梁まで移動した。
ノートパソコンにつないだケーブルを、柱の影を通してそっと下ろす。実頼がそれを掴んでプロジェクタと接続すると、隣の平敷畳に座った成明の服の脇にさっと置いてくれた。
ノートパソコンがプロジェクタの接続を検出する。
(よし!)
あとは、と下をのぞくとちょうど伊予の弟が帝の前に進み出たところだった。
「本日は藪家の二つの秘曲のうち、次子にのみ伝えられる幻の演目を奏します」
腹から声を出しているが、緊張からかかなり声が裏返っている。
要は、今日は当主がいないのではなく、今日の演目は当主不要なのでそれ以外の者で演奏しますと言っているのだがこの主張は大分苦しいものだ。
実際、藪家の秘曲はひとつと認識されているので、周りの他の楽家たちもざわざわしている。
黙らせるには幻に相応しい舞台にしなくては。
「よかろう。聞かせてみせよ!」
成明には予め計画を話してあるので、ある意味こっち側の人間ではあるが緊張する。
その声を合図にして、御簾が一斉に下ろされた。それも二重に。紫宸殿の中が暗くなる。
同時に、ケーブルを揺らして合図し、実頼にプロジェクタのカバーを外してもらった。
暗闇の中、帝の前には伊予と伊予の弟が立つ。
ふたりの浄衣のように白い衣に桜吹雪と水面が照射された。伊予は設置された箏のほうへ歩みをすすめ、弟はその横に立ち笛を構えたが、光は彼らを捉えて追う。他の楽家たちのざわめきが消えた。
(なんとかなったか、プロジェクションマッピング)
ちょっと光量が足りないように思うが、ポータブルプロジェクタなので仕方がないだろう。
ふうと息をつく。
本来なら照射対象が動体である場合、まずカメラで画像を取り込み照射対象の動きを分析する。その結果に合わせてプロジェクタから照射する位置・内容を自動調整するのが一般的だ。
ただこれには相当の処理速度を持つ機材が必要になる。手持ちの機材でやろうとすると、どうしてもラグが大きくなりすぎ使い物にならなかった。よって、事前にかなり細かい単位で動きを示し合わせることで、彼らのほうに合わせてもらっているのだ。
ちょっとでも計画と違う動きをすると光がずれる。
彼らが最後まで演奏しきるのを、固唾を飲んで見守った。
――― ポロン
最後の一音が奏でられたあと、しばらくは静寂が広がっていたが、そのうち思い出したかのように大きな拍手に包まれた。
明るくなる前に、伊予の前に几帳が立てられ、そして実頼がプロジェクタのケーブルごと丸めて自分の衣の下に押し込むのを確認すると、梁の上を後退して梯子まで戻る。
(あ~働いた!)
成明にはあとでどんなお礼をもらってやろうか。
この一週間、ほとんど寝る間もなかったのだから、色々要求をしてやる。そんなことを思いながら梯子を下りていたら、最後の一段を踏み外した。
あ、と思わず宙を掻いたがもう足場には手が届かない。梯子は建物に付属して上から下がるタイプなので、地面までまだ1メートル近くある。落ちる、とぎゅっと目をつぶったが、しかし予想した衝撃はなかった。
(この香は・・・)
恐る恐る目を開ければ、冠を被った男性がこちらを覗き込んでいる。表情は逆光でよく見えないが、見知った人物であることは間違いない。
何故かこんな裏口のようなところに立っていた晴明が受け止めてくれたようだ。が、地面へ下ろされる事なく、そのまま大内裏へつながる宣陽門へ歩いていく。
「途中退室は失礼なんじゃないですか」
紫宸殿からはまだ他の楽家の演奏が聞こえてくる。しかし晴明にはそれを聞くつもりはないようだった。