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静かな夜。庭の木々が揺れる音だけが微かに聞こえる。
湯浴みを終え、薄手で滑らかな生地のルームワンピースを身に着けた。この時代には寝巻きと言うものが存在せず、皆重ねた衣の一番下の小袖と袴で寝る。できるだけこの時代に沿った生活をしようと思っているが、湯浴みをして体を綺麗にしたのにもう一度同じ衣を身に着けるのがどうしても嫌で、これに関しては現代式を通していた。
ん~と伸びをする。久しぶりに出仕したので疲れた。
すぐにでも寝たいが、今日は朝から晴明と口論したり緊迫した空気感になることが多かったので、できれば彼が寝てから塗籠に入りたい。
塗籠のほうに目をやると戸からは灯りが漏れていた。
(夜型だもんなあ・・・)
今までわたしより先に寝たことはなかった気がする。
何をして時間をつぶそうか。
綺麗に手入れされた庭の木々を見ながら、月見でもしようかと考えたところで思い出した。先日の傷が瘡蓋になったので処方された軟膏を塗らなければ。厨子棚に置きっぱなしになっていた軟膏の壺を手に取った。
(いや、待てよ。これって大丈夫なやつ?)
この時代の常識は、現代の非常識である可能性がなきにしもあらず。水銀など昔は高価な薬だったとも聞く。
壺の蓋を開けてくんくんとにおいを嗅いでみると、特段変な感じはしなかった。強いて言うならワセリンのようなにおいがする。
有毒なもの全てににおいがあるとは思わないが、大丈夫だと思おう。
晴明が塗籠の中に居ることを再度確認して、ワンピースの裾をたくし上げた。
怪我は膝から10センチほど上の部分にあるので、軟膏を塗る姿はとても人に見せられない。明日からは湯浴みの部屋で服を着る前に塗らねば。
さて、と傷口をちら見する。
(気持ち悪い)
治りかけの大きな傷は表現し難いくっつき具合で、見ると背筋がぞわっとする気持ち悪さがある。そして僅かにだが痒みがあってむずむずする。できるだけ見ないようにして塗ろうと壺に指を突っ込んだ時、ひょいとそれが取り上げられた。
「何をやってる」
黒く紫がかった長い髪を下ろし、ゆったりとした白い単衣と袴を着た晴明が立っていた。月灯りを受けて長いまつげが濃い影を作っている。
いつもは湯浴み後に塗籠から出てくることはないのに、今日に限って、しかも間の悪い時に出てくる。慌ててワンピースの裾を下ろした。
「瘡蓋になったので頂いた軟膏を塗ってたんです」
返してください、と手を差し出すと少しだけ首を傾げる。
そうして壺を畳の脇におくと、何を思ったかぐいとわたしの体を持ち上げた。
畳の縁に腰かけた晴明が両足を投げ出して、その左右の足の間に下ろされる。背中に晴明の体温を感じる。平たく言えば晴明が人間リクライニングシートのようになっていた。
いつぞやの悪戯と同じような展開だ。一体どういうつもりかと問い詰めたいが、多分いつもの意地の悪い冗談のひとつだろう。
彼は何も言わずに右腕をわたしのみぞおちに巻き付け、ワンピースの裾をたくし上げる。それから左手の薬指を軟膏の壺に突っ込むと傷口をそっと撫でた。
如何とも言い難い感じがする。
痒みによるむずむずと、傷口を撫でるこそばゆさと、氷のように冷たい晴明の手の温度が刺激になって、思わず顔を歪め身を捩ろうとした。しかしみぞおちの腕が邪魔で思うように身動きが取れない。
抗議の意味を込めて斜め上を睨むと、予想通りあの歪んだ笑みがそこにあった。
「何するんですか!」
「軟膏を塗るんだろう」
いけしゃあしゃあと言う。
「自分で塗るからいいです!!」
手は止まらない。
よっぽど手の甲をつねってやろうかと思ったが、あまり暴れるとワンピースの裾が更に際どい事になってしまうので諦めて背を倒し、晴明の上半身に委ねた。
まるきり移動中の新幹線車内でリクライニングシートに寄りかかる体勢だ。
「まだ痛むか?」
丁寧に軟膏を擦り込みながら聞いてくる。
「いいえ、治りかけだからちょっと痒いだけです」
抵抗をやめて脱力したことで、なんとなく穏やかな時間が流れる。
今なら、聞きにくいと思っていたことも話せるかもしれない。
「そういえば離婚の時期なんですが」
――― グリッ
「い゛だぁ!!!」
瘡蓋とはいえまだ完治していないのだから、思い切り傷口を押されるとそれはもちろん痛い。
何てことをするんだと怒りの形相で振り向くと、なぜか晴明も憮然とした面持ちでこちらを睨んでいた。
(なんでやねん)
思わず似非関西弁で突っ込む。
「離婚したいのか?」
「そういう話だったじゃないですか」
手伝いと引き換えに面倒見てもらっていただけなので、解決すればもう終わりですよね。
そう言うと、しばらくにらみ合った。
よく考えれば、いやよく考えなくても何故こんな態度を取られなくてはならないのか。好きな人がいるなら、離婚を喜んでもいいではないか。心の端っこがモヤっとする。
「婚姻関係を解消するに足る双方の利点は?」
(上司か!)
メリットデメリットや定量的な根拠を示さず報告書を提出すると、こんな感じで責められたものだ。
みぞおちに絡んでいた腕が移動して首に絡みつき、手が下顎から頬に添えられて、そして両側から軽く押された。無理やりひょっとこのような顔にされてしまって腹が立つ。
「文を一つもらったくらいで、夫を挿げ替えられると思うな」
「ひひゃいまふよ!」
理解できない和歌をもらっても一つもときめかない。大体、実頼に説明してもらっても歌詞の内容が意味不明だった。なんで甲斐地方の梨の花なんだ。
(・・・ん?)
その時、あの手紙に関する重大な勘違いに気付いてしまった。
しかし晴明の指が、更にきついひょっとこ顔を強要してきたため、一旦それは置いておいて彼の手を振り払う。
「わたしには利点はありません。でも晴明様は――・・・」
「じゃあこのままだ」
そう言うと、軟膏を塗りこむ作業を再開する。これでこの話は終わったと言わんばかりだ。
わたしとしても婚姻関係を続けるほうが利があるのだから、文句を言うのはおかしいかもしれない。でも彼のことを考えて話題にだしたのに。
(勝手にしてください)
もしかしたら、彼の好きな人というのは結ばれない立場に居る人かもしれない。既に鬼籍に入っているか、身分違いか。
もうこの件を考えるのは止そう。
御簾の隙間から届くそよそよとした初夏の風を感じながら、今後の平安生活について思いを巡らせた。