19
あの女孺が飛び出して行ってから大分経つ。真っ暗だった空も雲が晴れてきて、辺りは月灯りに照らされていた。先ほどとは打って変わって、夜にしては明るい。
晴明も彼女も無事だろうか。
母については色々と思うところがある。小さい頃はわからなくても、大きくなるにつれて常軌を逸したところがあることは気づいていた。
それでも母であるが故に、見て見ぬふりをしてしまった。ここまでの事をしでかすとは思っていなかったのだ。
臭い物に蓋をした結果、彼に、いや彼らに何かがあったらどうすればいいだろう。
神に祈る気持ちで満月を仰ぎ見た時、月の灯りに何かの影が見えた。
(なんだ?)
気になって、正体を見ようと夜空を凝視する。
周りもその行動が気になったのだろう、同じように空を仰ぎ見た。
何かが飛んでいる。真っ黒で、ちょっと不格好で、滑るように飛んでいる。
「八咫烏だ!」
御春の声に二の句が継げない。
そんなことがあるのだろうか、八咫烏なぞ伝承上の生き物だ。そう思いながらも皆フラフラとその影を追い始めた。
*
「そんなに苛ついても仕方ないよ」
治療が終わるまで待とう、というとそうですねと返ってくる。その声は平時となんら変わりないものだったが、腕組みした指が忙しなく二の腕をトントンと叩いていた。
その袖は大きく引き裂かれている。
あの後、八咫烏に導かれて進んだ先に二人が居た。
その近くで地面に伏す母達を見た時、何があったのか大体察することができたが、その後が大変だった。御春たちに母達を縛り上げてもらい下山したところまではよかったのだが、牛車の前で彼女が倒れてしまった。
緋袴だったので全く気付かなかったが、傷を受けていたようで触ると血でぐっしょり濡れており失血によるものと思われた。
晴明が自分の袖を裂いて縛り上げ止血をしたものの、すぐに典薬寮に連れて行かねばということになった。しかし成明と実頼は母の処遇を早急に決めなければならない。こんな母でも朝廷で最高位の女性だ、普通の罪人と同じに扱えるはずもない。
そういうわけで、成明は御典医に彼女の処置を重々頼むと、実頼と御春を連れて内裏へ消えていった。現在、晴明と自分だけが典薬寮で処置を待っている。
柱に背を預けたまま、処置所への戸を睨みつける晴明をちらと見た。
手持無沙汰に待つだけだからだろうか、なぜか、遠い昔に彼と初めて会った時のことが思い出された。
父である敦仁に、内密の話があると言って弟と清涼殿へ呼び出されたのは確か六歳のころ。成明はまだ三歳だったので、この時の事はほとんど覚えていないのではないだろうか。
父とはいえ帝であり、母を伴わずに会うなど滅多にないことで、すごく緊張したことを覚えている。
弟と二人、実頼に手を引かれながら進むと御帳台の前に見慣れない童が居た。
その後ろには陰陽寮所属の官が控えている。
年の端はほとんど自分と変わらない。だが、顔立ちは随分大人びて見えた。
このくらいの頃は可愛い可愛いと言われるものだが、彼はその時点で可愛いよりも綺麗という表現が断然似合う顔だった。黒にわずかに紫がかかった神秘的な目と髪の色、切れ長な目、鼻筋はスッと通っており、佇むだけで周囲に威圧感を与える美しさ。残念ながら、濃い隈と死人のような顔色がそれら全てを打ち消してしまっていたが。
父は彼の事を、君たちの兄だと言った。
山ほど異母兄弟がいるのは認識していたが、この者は今まで一度も見たことがない。そう正直に表情に浮かべると、父が御帳台に寄るように僕たちを手招いた。内緒の打ち明け話をするように。
「本当本当に好きだった女性との子なんだよ」
訳あって彼女は入内させることはできなかったが、今後この子は京で過ごすことになるだろう。
中宮の子として一番権力の中心に近い者となるお前たちがよく面倒を見てくれないか。
父はそう言った。
正直、父の意図をはかりかねた。
異母兄弟というのは半分血のつながった存在でありながら、他人よりも遠い。自分に相手を蹴落とすつもりがなくても、向こうから突っかかってくるのが常だ。
そんな者をよろしくと言うのは、常識的に考えて変だと父も理解しているだろう。
困った顔をしてしまったのが見て取れたのか、父が僕の頭をぽんぽんと撫でた。
「彼は特別なんだ。大丈夫、彼もきっとお前たちを守ってくれる」
だからよろしく、と言う。
父は慈愛に満ちた瞳で彼を見つめていた。いや、彼ではなく、彼の面影の向こうに別の誰かを見ていたのかもしれない。その目は母にも、自分たちにも向けられたことのないものだった。
その後、父の頼みということもありこっそりと三人で会うようになる。
親しくするうちに気付いたが、彼は周囲に全く興味がない。金、出世、女、おおよそ他の官が目の色を変える事柄はおろか、時々生きているという状態にすら興味がないのではないかと思われることがあった。
そういう変わり者だったので仲良くなれたのかもしれない。彼は皇子に準ずる待遇も固辞しており、師であり後見人の賀茂忠行の一弟子としてごく一般的に育った。
そして、父の言った特別の意味も大きくなるにつれて理解できた。
――― 彼の力は本物だ
口さがない者たちが、彼の母は妖狐であると言っていたが、あながち当たらずとも遠からずなのではないか。
父曰く、人外の美しさを持つ人だったと言っていた。母の心が壊れるほどに。
ともかく、彼が居なければ自分も弟もこの年まで生きていなかっただろう。
ずっと処置所の戸を見ていた晴明が、視線に気づいたのかこちらを向いた。
長い付き合いだが、彼は最近になって初めて人間らしい感情の片鱗を見せるようになったと思う。
それが嬉しいような気もするし、一方でからかいたくなってしまう。
「ねえ、朧月夜を僕にくれない?」
「朧月夜?」
春の夜に現れたから、というと誰のことを指しているのか気付いたらしい。
からかい半分、もう半分はまじめな打診だ。
我が強くて短気で高慢な母を持つと、年頃にはすっかり女性が苦手になっていた。男色の気があるわけではないが、数名の女御の入内でもう十分と思ってしまうほどに。結果、為した皇子はいない。
でも彼女は他と違う。あの晴明が執着するのもわかる。
自分の立場上妻にはできないが手元に欲しい、そう言うと彼は何か言おうとしたが、その時処置所の戸が開いた。
「いや~面目ないです、ははは」
御典医に付き添われ、左足を引きずりながら彼女が出てくる。笑顔ではあるが、失った血が多いのだろう、晴明に負けないほど顔色は悪かった。その手には軟膏が握られている。
傷が開くかもしれないので絶対安静ですよ、と言う御典医に、明日出仕して良いか尋ねてこっぴどく叱られている。
彼女に声を掛けようと足を向けた時、横をさっと何かが通り過ぎていった。
「妻のことは私がよく見ておきましょう」
あっけに取られている間に、彼女を俵のように担ぐとさっさと出て行く。
彼女の驚いた顔が徐々に遠ざかる。外はもう白み始めていた。
(嫉妬深い男は嫌われちゃうよ)
寛明は思わず苦笑いしてしまった。