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父が死んだ。
否、正確に言えば消えた。しかし公には亡くなったという事で手続きを踏むしかなく、父と近しい者たちへの説明に大変難儀したのは記憶に新しい。
半ば押し切るような形で法輪寺橋の辺りに墓所を建てたが、本当にこれでよかったのだろうか。
(父上、私は最期まで貴方が分かりませんでしたよ)
血の繋がりがありながら時折他人よりも遠いと感じるような父だったので、理解することなど土台無理だったのかもしれない。私も弟も父とよく似ていると指摘されるが、それでも父の真意を伺うなど奈落へ続く深淵を覗くようで到底できそうもなかった。
そんな私達だから、母が居なければ家族の形すら成し得なかっただろう。
いつだって家の中心には母が居て、ともすればお互いに然程関心を寄せられない私達の要となって家族の形を保っていた。皆母にだけは関心を寄せるので自然とそうなったのだが、不思議と私も弟も父の背を追って家業を継いだのだから血は争えぬ。
しかし一つだけ父の真意がはっきりと分かっていることもある。
父は母を追いかけて消えたのだ。父が消える七日前、母が亡くなった。黄泉への旅路に立った者を追うなど正気の沙汰ではないが、父ならば必ず成し遂げるだろう。父母を揃って知る者であれば誰であれわかってくれるはずだ。
子である自分から見ても、父は気が触れているのでは疑うほどに母を愛していたから、母がいない世になど未練はなかったと思う。
当初は追うまでに七日も空いたのが不思議でならなかったが、そういえば母は最期に父へ秘密の願い事をしたと言っていた。母は父とは正反対に分かりやすくて情の深い人だったから、考えが手に取るように理解できる。
きっと残される父が心配で、生きる事への興味を失わないように願い事を託したのだ。
父と母の逸話は枚挙に遑がない。
それこそ一番最初の記憶は物心がつく前、弟が生まれる前の話だ。
その日はしとしとと小雨が降り続ける重苦しい天気で、父は激昂していた。小さな札のようなものを手に持っていて、それを母に突き付けると何事かを凄む。母は困った顔をして宥めようとしていたが、その試みが実を結ぶことはなく結局は塗籠に連れ去られたまま出て来ることはなかった。
稚児の時分の話だから私の記憶は曖昧でここまでしかないが、ずっと後になって酔った実頼様が真相を教えてくれた。
母はもし自分が行方知れずとなった場合を考えて、付き合いのあった中宮や実頼様達公卿に私の後見を頼んでいたらしい。その一覧があの札だ。父では頼りにならぬとはっきり判断している辺り、情を持ちながらも合理性を求める母らしいと苦笑いするしかないが、父は半狂乱だった。
子の養育に関して頼りにならないとされたことではなく、行方知れずになるつもりがあるのかと責めたようだ。母は期せずして遠い異国から流れて来たらしいので、それを踏まえて万一を考えただけのようだったが父は許さなかった。
その夜母が腹に宿したのが弟だと言うから、父は母を縛り付けるためだけに私達を生ませたのではないかと密かに思っている。
父母の記憶と言えば、寝苦しいある夏の夜の出来事も忘れられない。
私は数えの四つで、いつもは筑後が添い寝をしてくれていたのだがその夜は寝苦しさのあまり起きてしまった。筑後を起こそうにも、ぐっすり眠りこんでしまっている。
その頃我が家には絶対に守らなければならない掟があったのだが、眠れなくて気分が愚図つきそれを破ってしまったのが事の発端だ。
掟とは、亥の刻以降は母は父のもの、絶対に会えないし母屋へ近づく事すら許されないというものだった。
『ははうえ~・・・』
まだ亥の刻の鐘が鳴り止んだ直後だったと思う。子供の浅知恵で、まだこのくらいならば赦されるだろうと踏んでしゃくり上げながら母屋の重い戸をこじ開けた。母に柔らかく抱きしめてもらえればきっとこの愚図ついた気持ちも晴れるはずだという一心だったのだが、戸の向こう側が目に入った途端それどころではなくなる。
塗籠の戸の前で、父が母に圧し掛かり首に噛みついていたのだ。母は口の端から銀糸を引いている上、顔は紅潮し目はとろんとしていてどう見ても普通の状態ではない。
その頃から父は怖くて冷酷な人だと認識していたし、男女の情愛を察するには早すぎた。
父がついに母を殺めているのだと勘違いし、火がついたように泣きながら父母の間に割って入ったのだから、驚いたのは母だ。
『やめて!!ははうえをころさないで!!』
『吉平、大丈夫よ。わたしは大丈夫だから』
掟を破った私に父は冷たい目を向けたが、少しだけきまりが悪いという顔でもあった。
結局その夜は私があまりにも泣き続けるので、一晩だけということで父母に挟まれて塗籠で寝ることになったと記憶している。
この時に父が母ごと私を抱き込んだので、父の腕は筋肉質でがっしりと、かつ冷やりとしており母の柔らかな腕とは全く違うのだと初めて気づいた。父は相変わらず怖かったが、しかと守られているようで少しだけ安心したのを覚えている。
なかなか寝付けない私に、母が稚児の時分の思い出話をしたのも手伝ったかもしれない。
『あなたは夜泣きが多くて多くて。晴明様のほうが夜更かしが得意だから、よくあやしてもらっていたのよ』
あの頃も全然寝付かなかったですよね、と母が父に言えば父は素っ気なく頷いた。
父は我が子にすら微塵も興味がないという認識だったから子供ながらにひどく驚いたものだ。どんな顔をして私をあやしていたのだろうか。
ころころと耳に心地よい母の笑い声と、時折差し挟まれる父の低い声。交互に聞いていると眠気が襲ってくるのは稚児の頃の記憶があるからかもしれない。父と母の腕に抱かれていつの間にか深い眠りに落ちていた。
この夜の出来事は幸せな家族の記憶として深く心に刻まれている。
自分が子を持つ身になって改めて思ったのは、父母の教育方針は独特だったということだ。
筑後という家事全般を担う女性は居たが、あくまで家事が主体であって乳母ではない。都における貴族の家庭では乳母が子らを養育するのが一般的だったから、寝かしつけ以外はほぼ父母が面倒を見てくれていたと言うと皆に驚かれる。
ただし例外もあった。
『わたし宮中での教養はさっぱりなの・・・でも得意な人をたくさん知っているから一緒に習いに行こう』
そうして手を引かれていった先には同じ年頃の男子が二人。
教師は内容ごとに変わったが、一番多種多様だったのが和歌の手習いだ。身なりの高貴な女房達から腹の出た公卿達まで、和歌を通して宮中の常識を学んでいった。
男子らとは弟を含めて四人で長らく付き合いを続けていくのだが、彼らが村上帝の中宮安子様が生んだ二人の皇子であると知ったのはもっとずっと後だった。
そういえば父も母も、どういう経緯なのか村上帝とその先帝である朱雀帝と非常に懇意にしているようだった。
だからか、朱雀帝が若くして崩御した時の母の取り乱し様と言ったら。
私と弟が心配になるほど何日も泣き腫らしていたので、まさかただならぬ仲だったかとの疑いが頭を過る。が、一瞬の後そんなはずはないと結論付けた。あの父が許すはずがない。
事実、故人を偲んで涙に暮れる母に寄り添いながらも、父は嫉妬に狂った目をしていた。生前にただならぬ仲になどなりようもない。
母がどう思っていたのか今となっては知りようもないが、朱雀帝の命日になると必ず朧月夜の唄を口ずさんでいた事を覚えている。朧月夜は春の季語だ。朱雀帝の命日は秋だというのに何故かと不思議に思って問うと、朱雀帝が生前に母の事を朧月夜と呼んでいたことを知る。
母は兎も角、朱雀帝のほうには淡い想いが垣間見られて、何とも言えない甘酸っぱい気持ちになったものだ。
朱雀帝の同母弟である村上帝は、私自身何度か見かけたことがある。
あれは朱雀帝が亡くなった頃からか。村上帝が実頼様を伴い、忍んで父母へ会いに来るようになったのは。
はじめは帝が忍んで我が家へ来ているなど想像もできなかったから、どこぞの公卿だろうと勘違いしていた。
ある秋の夕方に珍しく誰も供を連れずに現れたその公卿が、母と他愛もない会話をしているのが庭に居た私にも聞こえる。父はまだ内裏から戻らず、二人は父を待って本題を話そうと相談していた。
それまでの雑談として、どうやら母が苦手な和歌をお題とすることで彼は母をからかっているようだ。
特別にお前に歌を詠んでやる、という声が聞こえる。聞くとはなしに聞いていたのだが内容に驚いた。
――― 逢坂も果ては行き来の関もゐず 尋ねて訪ひ来 来なば帰さじ
何と情熱的な歌なのだろう。
悩んでいるのか無反応な母に、さあ歌の意味を考えてみよという声が追い立てる。一体彼はどういうつもりで母にこの歌を詠んだのか。内裏まで父を呼びに行くべきだろうか。
焦った時、矢庭に母がばたんと立ち上がった気配がして、次いでバタバタと足音が遠ざかって行った。何があったのか、気配を消して母屋の中を覗き込むと丁度母が戻ってくる。
『わっかりましたよ!!合わせ薫き物少し!!』
縦読みは得意なんですよね、と胸を張って薫き物を差し出す母に、心なしか肩を落とした公卿の背が見えた。
『歌の意味は、その・・・わかったか?』
『いいえ、全然。だからこそ、すぐに暗号に気付きました!』
逆に歌の意味はわかったが、母が薫き物を持ち出してきた理由がわからず私は混乱する。
薫き物を差し出して微笑む母の腕を凝視した公卿は、そろりそろりと頭を動かしてそこに頭を寄せた。
『成明様?』
『少しだけこのままで・・・疲れているんだ』
その姿は母に甘えているようにも見えて、付き合いの長さと深さを感じさせる眩く美しい光景だった。
ああ、この公卿は―――彼の気持ちを察したちょうどその時、外門のあたりから父の牛車の音が聞こえてくる。公卿はぱっと身を離すと、それ以降は妙な空気を醸すこともなく父母と長く語らっていた。
この時はそれきりだったのだが、後日庭で聞き取った歌が村上帝の后達に配られたと聞いて驚いたものだ。そこで初めてあの公卿と村上帝が繋がった。あれは后達の機知を試す歌だと言う。沓冠折句と呼ばれ、中に十音が隠されていてそれが"合わせ薫き物少し"だった。
一人だけ暗号を解読した女性がいるらしいと話題になったが、后達の中で名乗りを上げるものは終ぞいなかったので不思議がられていた。
私だけが知っている、村上帝の秘密だ。
そのような縁があったからなのか、父も母も時の帝から奇妙な頼まれ事を多々引き受けていたようだ。内裏で父母の話を聞く事も珍しくないが、話者によって全く違う立場で語られる。特に母については奇妙な頼まれ事を引き受けた結果か、各人の認識に大きな隔たりがあるようだった。
ある者は女蔵人として盗人を裸足で追い駆けるのを見たと言い、またある者は東豎子として帝の隣に立ち護衛する者だったろうと言う。更に右大臣曰く、海の向こうからの渡来人が国賓として訪れた折、母を娘婿にしたいと無理矢理連れ帰ろうとして内裏で大騒動になったことがあると言う。また陰陽寮で大きな争いが起きた際に、何故か父ではなく母が収めたと聞くから真の姿は結局誰にもわからなかったようだ。
母は変わった学問にも長けていて、私達にもそれを授けようとしていたが終ぞ二人とも完全に理解することはできなかった。しかし一部の教えは今でも役に立っている。
母は学問の探求にも熱心だったが、それに邁進する余り小山を吹き飛ばしたこともあったし、雷を操ろうとして家の一部を燃やしたこともあった。あの時の父の顔と言ったら。私と弟がどんなに危ない事をしようが焦る事はなかったあの父が血相を変えて飛び込んで来たのだから、そちらにものすごく驚いた記憶がある。
母はそれらの学問を駆使して、数々の勅命任務を厭う事無くむしろ嬉々として取り組んでいたようだが、いつだってその背後には父が幽鬼のように恨めしそうに立っていたという点だけはどの話者でも一貫している。
惚れた弱み、という言葉の意味を真に理解できたのは父母のおかげだと思う。
この不思議な任務については村上帝の皇子である憲平や守平の世になっても変わらなかった。
むしろ、一層重用される向きがあったが、それは多分に彼らの私情が絡んでいた事を私は知っている。
『吉平!!どうだ、母上は息災か』
二人は顔を合わせる度に、まず私の母について尋ねる。
彼らの母である村上帝の中宮と母は非常に親しく、幼い頃から互いの母を通して交流していたことから彼らは私の母の事もほぼ実母のように扱う。その傾向は中宮が亡くなってから特に強くなった。
とりわけ憲平は優しすぎて陰謀渦巻く内裏の水が合わず、心を病む度に母を訪ねてきたものだ。
『憲平、あなたは叔父の寛明様によく似ている。繊細で嫋やかで優しいところが特に』
母は母で彼を亡くなった朱雀帝と重ねており、心を揺らしやすい性格を非常に心配していた。もう内裏へ戻りたくないと度々駄々をこねる憲平を優しくあやす母の心情はどんなものだったろう。
結局二年余りで退位することになったのだが、冷泉院へ移る際に母を連れて行きたいと父に頭を下げに来た時はさすがに驚いた。
『どうしても彼女を連れて行きたい!折に触れて暇は出すし、隔日でも構わぬからどうか』
退位したとはいえ上皇だ、無下にはできないだろう。父はどうするのかと冷や冷やしながら後ろから伺っていたが、結果は単純明快。憲平は屋敷から叩き出された。慌てたのは私と弟だ。彼とは幼馴染でもあるわけで、母には及ばないだろうが頻繁に訪ねるからどうか此度の事は不問としてくれととりなした。
出仕していた母はこの出来事を知らなかったのだが、後日憲平から落胆の文が届いてついに知るところとなる。
『晴明様、ちょっとくらい訪ねて来てもいいですよね?』
板挟みとなって困った顔をする母が一番の被害者だったかもしれない。
絶対に許さぬと譲らない父と、会いに行きたいという母の間で何度も話し合いが持たれ、結局は父を伴うのであればという条件で許された。
全くもって、父はいついかなる時も母しか見えていなかった。私や弟はあくまで母の付属品だ。
父のそれは純愛と呼ぶには余りにも重く粘度が高く、激しい執着を体現したような愛だったと思う。それ故母は人生を雁字搦めに制限され、余所見すら許されない。
幼い頃から、母は何故父と結婚したのだろうと不思議に思っていたが自分の家庭を持つ今は少しだけ分かる。
父の偏執に対して困ったり憤ったりしていた母も、結局は父の執着を余すことなく全て受け入れていた。受け入れることが母の愛だったのではないか。身体的にも心理的にも父の束縛は並大抵のものではなかったのに、母はいつだって笑っていたし不思議な明るさがあった。
尤も、懲りずに何度も父の目を搔い潜っては何かしらの騒動に巻き込まれ、そのたび父に叱られていたものだから母もなかなかに逞しい人だったと思う。割れ鍋に綴じ蓋夫婦だ。
父と母はある意味奇跡的な均衡を保っていた。
陰と陽、他者を一切寄せ付けない父と良きも悪きも惹き付けてやまない母、烏羽色の闇を纏う父と春の陽だまりのような暖かい光を放つ母。全てにおいて対極なのに不思議と釣り合っていた。
それに、あの父を振り回せるのはこの世で母一人だけだった。
母は度々些細な頭痛に悩んでいたのだが、症状がある時はいつも父の手の平に触れたがった。曰く冷たくて痛みが和らぐのだと言う。しかしその触れ方が父とは真逆で慎ましいものだから、その時の父は得も言われぬ表情を浮かべるのだ。
母の体を案じる気持ち、指先にしか触れてこないもどかしさ、父に触れて安心しきった様子の母に満ち足りた気持ち、もっと隙間なく触れ合いたいという欲を何時まで抑えるべきかという悩み、そういったものが綯い交ぜになった結果のようだった。
夕餉を摂りながらそれを眺める私と弟の胡乱な目など気にもしていなかったのに。
兎に角、父母は普通の夫婦ではなかったが、そこに愛はあったとは思う。
ふとした瞬間、母屋で、渡殿で、内裏で、父母だけの世界が形成されていることがあった。そんな時、父も母もお互いの事しか目に入らないという顔をして、子である私達でも割って入ることなど出来ないのだ。
だから―――
(母上の亡骸すら隠すのですね)
実は亡くなる直前までは私や弟も面会していたのだが、亡くなったところは父しか見ていない。命の灯が消えかけていたのは間違いないので人知れず生き永らえているとは思わないが、父が母の亡骸を明かさなかったので埋葬のしようがない。
私と弟は、父は密かに母の体を食んだのではないかとも疑っている。母の全てを独り占めしたがる父の事だから輪廻の先まで追う為に腹に納めたか、もしくはもっと重く母を縛るための壮大な禁術の糧としたのではないか。
荒唐無稽な推測だが、かなり真実に近いのではないかと考えている。
「兄上、また供物が届きました」
「どちらに向けて、誰からだ?」
「どちらにもですよ、父上と母上へ。播磨守の季平殿からですね」
一体どこで縁を繋いできたのか、父母が亡くなったと公にしてから予想だにしない方面より供物が届く。
二人はどんな人生を歩んだのだろう。いつか供物の送り主たちと父母の思い出話をするのも良いかもしれないなどと柄にもなく思う。
「そういえば、あの方はどうされているでしょうね」
母は関係のあった者たちへ別れの文を用意していたので、遺言に従って亡くなった際速やかに送ったところ真っ先に訪ねてきた男性がいた。
蘆屋道満。父に勝るとも劣らぬ名声は聞き及んでいたものの、滅多に人前に出て来ないと言う幻の非官人の陰陽師。
最初はその素性に驚いたが、もっと驚いたのは私達の顔を見て大粒の涙を零した事だ。
『二人とも顔の造りはほとんど糞野郎の血だが、目元は・・・あいつにそっくりだな』
溢れ出る涙を拭こうともせず暫く私達の顔を見ていたが、はっとしたように問うて来る。
『晴明は?旅立ったか?』
その時はまだ父は消えていなかったから、何を問われているかよくわからなかった。
いいえ今は用があって都外へ出ておりますが、と答えると悪童染みた笑みを浮かべて供物の入った箱を押し付け一礼して去っていった。
『俺はまだ諦めてねえんだ。先に追うと伝えてくれ』
そう捨て置いて。誰にとか、何をとか、重要な情報は聞けないままだった。
父母があの蘆屋道満と面識があるなど一度も聞いたことはなかった。父は職務上もしかしたら関わっていた可能性がなきにしもあらずだが、口振りから母とも少なからず交流があったようだ。
本当に、父母は理解の及ばない存在である。
――― ピチチチ
春の日差しが母屋の中を柔らかく照らす。可愛らしい小鳥の声が遠くに聞こえる。
世の中はこんなに穏やかなのに、ぽっかりと穴が開いたような気がするのはやはり父母がいないからだろうか。
願わくば、あの不可思議な父と母がどこかで再会できているように。
「父上と母上は・・・もう会えただろうか」
「少なくとも、父上は母上を捕らえるまで追い続けましょう。それこそ常世の果てまで」
「今頃はとっくに母上を捕まえて、首に噛みつきながら睦合っているかもしれんな」
弟とくつくつ笑い合う。
さあ、父亡き後でも滞りなく務めを果たさねば。