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――― バサバサッ
わたし達がずっと会話していたから飽きてしまったのか、金鵄が柵に留まったまま大きく羽撃きピィピィと鳴いた。
申し訳ないけどもう少し待ってほしい。
「有難いお話なんですが・・・今はお酒も入って頭が働かないので、酔いが醒めてからよく考えたく―――」
道満の腕の中で両手を突っ張って一旦下ろしてもらおうとしたのと、それはほぼ同時だった。
「道満!!!!!!!!!!」
地獄の底から響くような、怒気を孕んだ咆哮が轟く。驚いたように金鵄が宙に飛び上がった。
アンプで増幅しているのかと思うほどの声量の波に内臓がビリビリと振動する。衝撃に体が強張った。
釣殿は館の端に作られるものだ。池に張り出したこの建物で行き止まりなので、誰かがやって来るとしたら釣殿と接続している渡殿のほうしかない。道満の肩越しに渡殿を覗き見て、そしてびくりと体を硬直させた。
「っ・・・!」
何故ここにいるのだろう。まだ国衙に居る時間だし、そもそも暫くは国司館にも戻って来られないと言っていた。
声だけを聞いた時にそれが晴明のものだとわからなかったのは、こんなに激しく声を荒げるのを聞いたことがなかったからだ。不機嫌そうに低い声を出すことはあったし態度から怒りを感じることはあったけど、いつだって声量は落ち着いていた。
不穏な状況にさっきまでの陶然としていた気分は、今や冷水を浴びせられたかのように一気に引いていた。
硬直して動けなくなったわたしとは逆に、道満の顔は不敵な笑みの形に歪む。
体で覆い隠すように抱き抑えられたので晴明の姿は見えなくなった。
「なんだ、お前か。何しに来た?」
答えはない。
誰も動いた様子はないのにミシッと床が鳴る、柱が鳴る、屋根が鳴る。終いには釣殿から渡殿まで家屋全体がミシミシいい始めた。家鳴りと言うにはあまりにも激しいので地震ではないかと道満を見上げたが、動揺した様子はない。
「残念だったな、もう遅いぞ」
――― ドンッ
いつもは足音どころか気配すら悟らせないのに今日は違った。姿が見えなくてもドン、ドン、ドン、と大股で近寄ってくるのが足音でわかる。
足音が近づくほどに家鳴りも一層酷くなった。
「渡せ、それは私のものだ」
「もうお前のところには戻りたくないんだとよ」
さっきの咆哮のような声量ではないが、でもいつもと様子が違う。切歯するかのように、何かを抑えつけるように低く重い声が響く。
「来い」
その声は道満をすり抜けてわたしの耳によく通ったので、はたと気付いた。
(わたしに言ってるんだ)
思い出すのは今朝の苦々しいやり取りだ。
あの時も同じ言葉をかけられて、そして怖くて身を引いた。
晴明に触れられるのが嫌なのではなく、むしろ晴明の腕に包まれている時こそ落ち着くとわかっているのに、咄嗟の行動とはいえ避けてしまったことに落ち込んだし申し訳なく思った。
今もまた、否定されるのが怖くて逃げたいと強く思っているが、本当に逃げて後悔しないかと自分で自分に問う。
わたしはどうすべきか、いや、どうしたいのだろうか。
「来い!!!」
唸るように轟く声には焦燥が色濃く滲み、びりびりと空気が波打つ。
焦っているのはわたしのほうなのに、何故晴明がそんなに声を荒らげるのか不思議だった。
「あ・・の・・・・」
「行かなくていい、あいつのところに戻ったら心が壊れるぞ。それにお前だけの問題じゃない」
道満を見上げると、大丈夫だと言うように力強く頷かれた。
今わたしが置かれている状況を考えれば、きっと道満のところで世話になった方が心乱されることなく落ち着いて生活できるとは思う。晴明の想いは理解できない事が多いから。
(でも――)
身を捩って道満の陰から忍び見ると、ぎらぎらと昏く煌めく黒紫の瞳と目が合った。
その粘度のある視線から逃げるように目を閉じても、今まで晴明と巡って来た様々な道が自然と瞼の裏に浮かぶ。最初に出会った時の皮肉な笑みから、唐突に始まる質の悪い悪戯、何度もした喧嘩、播磨への誘拐、そして本当の夫婦になった夜のこと。
すぅ、と肺いっぱいに息を吸って、吐いた。
(やっぱり、ちゃんと話さないと)
「道満様」
すっかり酔いが醒めたからか、回り始めた頭で考えたことを素直に伝える。
混乱と酩酊でどうかしていたのだ。二人の問題なのだから、二人で解決しなければ。離れるかどうかはその後に考えればいい。
「わたし、晴明様と話してきます。どういう方向になるにしても、一度はちゃんと話さないと」
道満の目が信じられないようなものを見るように見開かれ、次いで険しい目付きに変わった。
「駄目だ!」
苦しい時に案じて手を差し伸べてくれた道満には感謝しかないが、余計な迷惑をかけてしまったのが忍びない。
後日改めてお礼をせねばと思いながら、大丈夫だと頷いて地に足を付けた時。
――― しゅる
ちょうど道満の衣の袖の向こう側に突き出た手首を、何かが向こう側から掴んだ。
「わっ!!な、何!?」
何が起きているか確認する前にずるりと道満の腕の中から引きずり出される。瞬く間に流れていく周囲の景色の中で、道満がわたしを引き留めようとして伸ばした腕がわずかに届かず空振るのが見えた。
「・・・晴明様」
近くには立っていたが、腕が届くほどの距離ではなかったはずだ。今、確かにわたしの手首を掴んでいるのは晴明の筋張った青白い手指だが、さっきの感触は絶対に別のものだった。
みしみしと手首の骨が悲鳴を上げている。
「あの・・・」
恐る恐る仰ぎ見れば視線が絡む。
これまでに何度か見た憤怒の表情の比ではないその顔を見ると、さっきの決意がどこかへ消えて行ってしまいそうだ。
奥歯を噛み締め、唸り声のような滾る吐息が歯の隙間から漏れ聞こえて、まるで威嚇する大きな獣のようだと思った。これほどまでに乱れた表情は一度も見たことがなかったので、ひくりと喉の奥が痙攣する。
(今朝とは別の意味で怖い)
わたしへの執着は隠さない晴明だから、きっと道満に玩具を盗られると思ったんだろう。
「お話がありま――・・・っ」
ちゃんと話そうとしたのに、言い終えるより先に噛み付くように口を塞がれて途中からくぐもった声しか出せなくなった。
至近距離で妖美な瞳が細められるが、その奥に狂猛な冷たい光が揺らぐ。背筋がぞっとするような光だった。
息をする隙間が確保できないほどに吸いねぶられるので酸欠で頭がくらくらして、だけど勢いよく倒れるわけにはいかないのでずるずると釣殿の柵に縋る。
「お前の夫は誰だ」
銀糸をひきながら詰問するその言葉に体が強張った。
「晴明様ですよ・・・でも、そうじゃなくて・・・っ」
しゃがみこんでも覆い被さられるので逃げ場がない。顎を強く掴まれ強制的に仰いだ顔に影がかかり、再び嵐のような勢いで口を塞がれる。
混乱がおかしな方向に進みつつあることだけは確かだった。
きちんと話さなかったわたしが悪いのだから自業自得だけど、とにかく事態を収拾したい。
「よく見ておけ、道満!!これは私の、私だけのものだ」
わたしから視線を外さないまま、道満にそう嘯く晴明の面貌はいまや激越を極めていた。急に体が持ち上げられてくるりと前後を反転させられる。
向きが変わったので茫然自失の体でわたしを見ていた道満と目が合った。
(何を)
「ぐがっ!?・・・ふぐぅ・・・・・」
「愚かな道満に誓言してやれ。お前の生涯の夫は誰だ?」
後ろから回された晴明の両腕がぎゅうと全身に巻き付いて荒々しく抱きしめられた。それだけでは済まず、親指、掌底、小指で下顎を固く拘束された上に、人差し指から薬指までを喉奥に押し込められたのでとても答えるどころではない。
――― すり
舌を抑えられ唇を閉じられないため口内から唾液がたらりと零れた。晴明が頬擦りしながら悠然とそれを舐めとるので背筋がぞくぞくとして力が入らない。
道満はどんな顔をしてこれを観ているのか。確認する勇気がでないまま瞼を固く閉じるが、どうしようもない羞恥を覚えて顔から火が出そうだった。
「ふ・・ぐぇ・・・がぁ・・っ!!」
「そう、私だ。悦びも愉しみも痛みも苦しみも、与えるのは私だけ」
有無を言わせない冷たい声がわたしの代わりに応じた。意味を成さない呻き声だけで勝手に自己完結しているところを見ると、最初から問う気はなかったようだ。
みっともなく嘔吐きながら、腕から逃れようと我武者羅に藻掻く。
「道満、私が妻に全てを与えるのをそこで見ていればいい」
何を言っているのか。
夫婦喧嘩など他所様に見せるようなものではないし、何より今は―――
渾身の力で腕を引き剥がそうとがんばったが晴明の体は微塵も揺るがない。逆にその手を床に縫い留めるよう乱暴に組み伏せられてひやりとした。
「やめろ晴明!!!乱暴するな!!!!そいつの腹には―――・・・」
道満が慌てて止めに入ってくれた、その時。
「人の屋敷で何やってんだ、コラ」
どこかで聞いたことがある声と足音が聞こえた。
その方向に意識を向けるが、拘束されたままでは振り向けない。足音は釣殿まで来て止まった。