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烏羽色の光  作者: 青丹柳
天花
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 母との思い出はほとんどない。その上わずかに覚えている内容をとっても、彼女のような心温まる思い出ではなかった。


『出世の遅いあんたなんかと結婚したのが間違いだった!!こんな野蛮な地に閉じ込められて・・・私の幸せを返してよ!!』


 毎日のようにそう叫んでいた母の声が、今でも耳にこびりついている。普通はあるべき母との思い出、例えば子守歌やあやす声など全く記憶にない。

 父への失望から来る罵倒、思う侭にならない我が身の嘆き、世の中全てに対する嫉妬。母を構成するのはそれだけ。そこに俺が入る隙間などなかった。


 父には罵詈雑言をぶつけたり、時には物を投げたりもしていたが、俺に手を上げることはなかったと思う。代わりに徹底的に無視された。泣いても、怪我をしても、母の大事にしていた衣に悪戯をした時ですら視界に入れてもらえることはなかった。

 毛嫌いしている夫との子だから、最初からいなかったことにしたかったんじゃないだろうか。


 俺が生まれる前も、生まれた後も、父はずっと地方で国司を務めていたが、俺が物心つく前に母は都へ帰ってしまった。都生まれ都育ちの母には地方暮らしが耐えられなかったのかもしれない。

 当然のように俺は置いて行かれ、松小母さん達が母代わりになって育ててくれた。父も宿直の多い不規則な勤務の中で、できるだけ息子に関わろうとがんばってくれた。

 だから、俺の家族は父と、ずっと昔から父に仕えてくれていた松小母さん達だけだ。分別の付く年齢になった頃には自分は母に捨てられたのだと正しく認識できていたので、母の事を家族だと思ったことは一度もない。


 昨年の暮れ、母が死んだと聞かされた時も何とも思わなかった。

 それどころか、最早他人なのだからと喪に服すのも拒否した。

 父は悲し気な顔をしたが、俺の意思を尊重して咎める事は無く、一時的に父だけが都へ戻るということであっという間に話はついた。


「だからさ、お前さんも同じ類の輩や思って大嫌いやったんよな、大目様の御方様。都から来たことを鼻にかけるし、為家にも当たりが強えし。でも、お前さんは子供の事をちゃんと考えてるみたいやから、やっぱ俺の母さんとは違う」


 そこまで言って、口を噤んだ。


 別に同情してほしくて話したのではないのだが、女性二人は思うところがあったのか、まるで自分が痛めつけられたような顔でこちらを見ている。そんな顔をさせたかったわけではないので、自分で話しておきながら申し訳なくなった。


 この話にはまだ続きがあるのだが、話そうとする口が縫い付けられたように動きが鈍る。ここから先は父と旧知の仲である道満を除けば、極々親しい人でも知らない事だ。


 実母の喪に服さないと決めた事も、今話そうか躊躇している事も、褒められた話ではない。

 でも、今この場所でなら、全て話してもいいのではないかという気がしていた。話して肩の荷を下ろしても許される、そんな気が。


「母さんはかなり理不尽な事を言っとったと思うんやが、親父は文句ひとつ言わんかったんだわ。それがずっと不思議でな」


 元服した日の夜、祝いの酒でべろべろに酔っぱらった父が口を滑らせた。


 母と結婚するよりももっと昔、父には想い合っていた女性が居たと言う。

 父は添うつもりでいたが、家柄や血筋などよりももっと如何ともし難い事由によって別れることになり、穴を埋めるように強制的に親に宛がわれた結婚相手が、俺の母だ。

 ありがちな話と言われればそれまで。都ではこんな話、掃いて捨てるほどあるだろう。


 でも別れた後もずっとその女性を想い続けており、今でも行方をこっそりと探していると言っていた。

 多分父は母に負い目を感じていたんだ。母を、というよりその女性以外を心から愛することができないという理由で。


 今思えば都から遠く離れた慣れない土地で暮らす心労と、父の本当の想いを知っていて、母は崩壊寸前だったのかもしれない。大人になった今なら冷静に考えられるが、子供心に傷ついたのは間違いないので到底許す気にはなれないが。

 荒れる母を、父は只管に宥めて受け入れていた。母が喚き散らす無茶苦茶な我儘も、可能なものは全て叶えていた。他にどうすることもできなかったのだと思う。


「で、お前さんに協力してもらっとん人探しってのはその女性なんだわ」

「でも、今の話だと都に居る人なのでは?」


 播磨で探しても見当たらないのではないか、と訝しがる彼女に首を振った。


 女性は都を出て行かざるを得なかったのだ。

 父は、他者に身分を誇るような事はしない人だが、しかし出自を知る周囲は勝手に忖度する。父の生母の身分は高くなかったとはいえ、先々帝の皇子だ。父と別れた女性は養父母からも縁を切られ、追われるように地方へ下ったと聞いた。

 父は今でも別れた選択は正しかったと言って譲らないが、それ以来自ら望んで地方官である国司を歴任し諸国を放浪するような生き方をしている事から、何を考えているのかは推して知るべしだ。


「その女性は元から都の暮らしに執着する人じゃあなかったみたいやし、気付いた時にはどこぞへ旅立ったあとだったんだと」

「・・・自明様は成明さ・・・ええと、現帝と異母兄弟なのですか?」


 少し本筋から逸れた質問が投げかけられた。

 彼女の顔には驚いたような表情が浮かんでいるが、まさかその事実を知らなかったのだろうか。積極的に身分をひけらかす事はしていないので大目の御方様が驚いているのはわかるが、彼女のほうは夫の出自からして当然知っていると思っていた。


(いや、あり得るか)


 ふと、父が上洛する前によくよく頼むと言っていた事を思い出す。

 頼まれ事に付随して渡された情報のひとつに、彼女の夫が彼女を酷く過保護に囲っているというものがあった。物理的な話だけでなく、余計な情報にも触れさせないようにしている可能性もある。


(本人がその囲いからひょいひょい抜け出してりゃ世話ねんだがな)


 こちらとしては都合が良いのだが。


 四十人弱も兄弟が居れば一国に一人くらいは異母兄弟がいるかあ、と勝手に納得している能天気な彼女を見て、それから隣にいる道満を見る。

 自分は父の期待に応えられるだろうか。また、それは本当に正しい事なのだろうか。場合によっては悲劇の繰り返しに―――


(いや、二人は違う。きっと大丈夫だ)


 頭を振って気持ちを切り替えた。


「ま、そんなこんなで俺の家庭環境はあんまり誇れたもんじゃないんだわ」


 場の流れで家族の話をし始めたとはいえ、予め事情を知っている道満を除き、他の者たちは急にこんな重たい話を聞かされて戸惑っただろう。しかも子供に聞かせるような話でもなかったかもしれない。

 なんか悪かったな、というと女性二人は首を横に振った。男の子に至っては、もうすっかり涙も引っ込み神妙な顔でこちらの話を聞いているのがいじらしい。


「大目様の御方様、あんたもなんか事情があんじゃないか?子供を心配してこんな山ん中まで来んのは立派やが、普通は乳母かなんかが来るもんだ。貴族の母親は自分で子育ての細々はやらんのやろ?」


 このまま道満へ話を繋ごうかと思ったが、その前に気になった事を指摘してみた。

 あいつらが捜しに来るまでもう少しかかりそうだから、話す時間はまだたっぷりある。


「あ・・・私・・・」


 急に話題を振られたからか、大目の御方様は先ほどまでの勢いを失くして口を開けたり閉じたりしていた。

 正直母と重なる部分が多すぎて大嫌いの部類に入る人間だが、彼女もまた腹の内に色々と抱えているのではないかと思える。こんなところまで自ら子供を探しに来ることもそうだし、顔を晒しているのも通常であればありえないはずだ。

 彼女はちらりと息子を見て、そして言い辛そうに口を開いた。


「私・・・その、市場でお会いした時失礼な態度を取ってしまった自覚はあるのですわ。申し訳ありませんでした・・・」


 俺自身は市場の騒動の時に居合わせていないので又聞きではあるが、為家夫妻に暴言を浴びせたことは忘れていない。

 だが、息子の前では正しくあろうとするその姿は母と違うなと素直に感心した。


 為家は本当に良い奴だ。播磨に来た時に郡司の嫡子として紹介され、それからずっと親しくしている。しかし優しくて良い奴であるが故に、必要以上に周囲から侮られることも多い事が横から見ていて腹立たしい。

 だからこそ、立場上は上であるはずの俺が坊ちゃんと呼ぶことで周囲に箔付けをしてきたのだが、まだまだ足りていなかったらしい。


 大目の御方様は胸の前で両手を組んで、そわそわと話し続ける。


「夫とこちらへ赴任して来る時、乳母や家人達が地方へ行くことを嫌がってしまって。結局必要最低限の人員をこちらで揃えるしかありませんでしたの。乳母は適当な者が見つからず、未だにつけておりませんわ」


 市場に出られたのは、ほんの少しだけ戻って来た大目が息子を見ていてくれたかららしい。

 話しながらその両の眼に水滴がせり上がって来ているのがわかって、さすがの俺もぎょっとした。


「夫は食事だけは一緒にとってくれますけども、ほとんど国庁に居て国司館には戻りませんの。乳母も居ないので息子の事は全て私一人で行わなければならないですし、家人も現地で募った者達で打ち解けられず・・・その上呪われていると言われるし」


 ちらと道満の隣に立つ彼女の顔を見ると、ぎくりと表情を強張らせている。


「誰にも頼る事ができなくて毎日不安で、兎に角息子のためにも周囲に侮られてはならぬと常に気を張って、気を張り過ぎて・・・あなた達にも、その他の方にも酷い事ばかり言いましたわ、ごめんなさい」


 ついにぽろぽろと泣き出した御方様に罪悪感を覚えたのか、目元を優しく拭っている彼女を道満がじっと見ている。御方様の膝に乗った息子が頭を撫でて一生懸命母を慰めようとする姿には胸に迫るものがあった。

 人柄には多くの難ありだが、彼女の息子は良い子に育っているようだ。


 何となく柔らかい空気に包まれる中で、唐突に道満が面倒そうな声を上げた。


「・・・チッ、仕方ねえな」





 懐から取り出した札をめそめそ泣く女の額に押し当てると、場がしんと静まり返った。

 隣に立つ彼女が興味深そうに俺の手元を覗き込むので、腕に微かな吐息を感じてぴくりと蟀谷が痙攣する。


「何やってるんですか?元気がでるおまじない?」

「あーまあ、そうそう。そんなところだ」


 適当に相槌を打つと、手を振って離れるように促した。

 最近気づいたのだが、何故か彼女が近寄ってくるだけで激しい動悸がしていつもは低い体温が人並近くまで上がる。それどころか遠くから声が聞こえただけでも動悸がするし、なんなら彼女の事を思い出しただけで体が熱くなる。実は変な気でも発しているのではないかとさえ思い始めていた。

 そのくせ離れれば安心かというと全くそうではなく、姿が見えなくなると不安になるので必ず視界に入れておきたい離れないでほしいとも思ってしまうのだから、自分でも自分が手に負えない。


(とりあえず今は――)


――― カッ


 さっさと札を砕くと、めそめそ女に言ってやった。


「呪いは解けたぞ」


 その言葉で、彼女は俺が何をしたかったのか察したらしい。満面の笑みで見上げてくるので今日一番の動悸に見舞われた。慌てて視線をめそめそ女に戻す。

 今回は解呪でもなんでもない。彼女が為家を守るためについた噓を気に病んでしまうような展開になってしまったため、解呪したように見せかけただけだ。元からかかっていない呪いなど解呪しようがない。

 砕けた札の破片がぱらぱらと散っていった。


「え・・・本当に?今ので呪いが解けたんですの?もう大丈夫ということ?」

「この道満様が直々に祓ってやったんだ、絶対大丈夫に決まってんだろ」

「なんだか偉そうですねえ」


 高くもなく低くもない、耳に心地よい声がくすくすと笑う。

 謝礼はどうすればよいか、なんてめそめそ女が聞いてくるのでムッとして言い返した。


「お前の息子がこの秘密の場所を教えてくれた。礼はそれでいい」


 ふんっと鼻白んで見せると、彼女が親指を立ててにっこり笑みながら頷いている。通常の三倍の謝礼をふっかけろと言っていたのはどこのどいつだ。

 手招きして顔を寄せてくるので、動悸を気取られないように努めて面倒そうな空気を醸し出しつつ屈むと、ふわりと天日干しした衣のような温かい香りが鼻孔を擽った。


「どうやって一瞬で札を砕いたのか、後で教えてください」


 ぞくり、と背筋が粟立つ。

 耳打ちの内容にではなく、耳朶を擽る甘い吐息と仄かに感じる彼女の体温に、体が勝手に反応している。

 生返事をしながら慌てて身を引き起こすと彼女から距離を取ったのだが、当の本人はあっけらかんとしてめそめそ女と楽し気に会話を始めた。


(こっちの気も知らないで)


 一体どう育てられたら、陰陽師でもないどこにでもいる一般人が術の仕組みを知りたがるのか。

 半歩下がって無遠慮に眺めまわしていると、ふと思い出した事があった。


「そういやお前、少しだけ俺の母上に似てる、かもしれない」


 そう言うと彼女はぱっと顔を上げて、それからころころと笑い声をあげたので憤然とする。


「なんだよ!」

「ごめんなさい、道満様の"母上"っていう呼び方がすごく・・・可愛くて」


 弁明した後がんばって笑いを収めようと努力しているが、一向に止まらないようだ。

 呼び方くらいでなんだと普段なら怒り出すところなのに、彼女が可愛いなどと言うからどぎまぎしてしまい思うように言い返せない。


「性格ですか?それとも顔?」

「性格はお前より母上のほうがずっと思慮深かったし、顔もお前よりずっと器量良しだった!」


 照れ隠しで思ってもいない言葉がつい口をついて出る。

 しまったと思ったが彼女は怒ったふうもなく、道満様や葉墨花墨の顔立ちが整っているからそうなんでしょうねと頷いている。違う、こんな事が言いたかったわけじゃない。


「そういう分かり易い部分じゃねえよ・・・その、つい皆が関わりたくなるような魅力が・・・人好きがするっつーか、そういうところがだな・・・」


 事実、身内の贔屓目がなくとも母は魅力的な人だったと思う。

 特別な話術があるわけではないし、何かに秀でていたわけでもない。なのに何故かあらゆる人、物、事を呼び込む、惹き付ける。粗雑で乱暴で他者を寄せ付けない父ですら、母に構ってもらいたくて気を惹くのに一生懸命だった。

 反面なんでもかんでも惹き付けるので、台風の目というか、渦中の人になりやすく、面倒事に巻き込まれる度に父が守っていたようだ。


「へぇー、魅力的な人やったんかぁ」

「あぁ?・・・あ・・・っ」


 急にニヤついた元忠が茶々を入れてきたので眉をひそめ、そして自分が言ったことを反芻して慌てた。これでは間接的に彼女が魅力的だと言っているようなものだ。否定したくないが、否定せずにはいられないような困った状況に陥ってしまい言葉に詰まった。

 こちらの葛藤を知ってか知らずか、彼女はうんうんと頷いて言う。


「なんとなく、温かい人なんだろうなっていうのはわかります。だって―――」


 道満様もとっても温かい人ですから。


 腹の奥が焼け付くようにカッと熱くなるのがわかった。にこっと笑う彼女の目がまっすぐ自分を見ていて、眩しい熱い苦しい愛しい、色んな感情が綯い交ぜになる。

 その目には純粋な信頼、思慕、好感が浮かんでいるのはわかるのだが、はたして色めいたものも含まれているのか色事に疎い自分にはさっぱりわからない。

 だが願わくば含まれていてほしいとは思う。


「・・・母上が生きていればお前と気が合ったと思う。会わせたかったな」


 弟達を生んだ後、産後の肥立ちが悪かった母はあっという間に旅立ってしまった。元々体は強くなかったから、多胎児を身籠ったのが体に障ったのだろう。

 父の嘆きようといったらなかった。生まれたばかりの弟達にも、子を為した自分自身に対しても怒りを隠さず出奔してしまったのだ。

 父にとっては母が全てだったから当然の帰結かもしれないが、残された子供の事も考えてほしかった。俺も弟達も、ほぼ同時に両親をなくしたも同然の状態になってしまったのだから。


「そんなわけで、俺も元忠と同じく親に捨てられたようなもんだ」


 湿っぽくなり過ぎたかと茶化すような軽い口調で締めたのだが、まさか両親ともに失っているとは思わなかったのだろう彼女の双眸には心痛の色が溢れている。

 そんな顔するなと言いたくて手を伸ばして、そして―――


「よし!!じゃあわたし、皆様のお母さんになります!」

「・・・はぁ??」


 勇ましくすっくと立ちあがるので、伸ばしかけた手がすかっと空振った。


「困ったことがあったら、何でも相談してください!お母さんが解決してあげますっ」


 やっぱりこいつの考えている事はわからない。全然わからない。なんでそんな話に行き着くんだ。

 ドヤッという顔で全員を見回すのだが、見回されているほうは面食らって咄嗟には何の反応もできなかった。

 でもそのうち、めそめそ女が笑い始める。それはその息子に伝搬し、次いで元忠も笑い始めた。


 俺だけが最後まで憤然としていたが、それも我慢できなくなってついに噴き出した、その時。


「兄貴~!!そこに居るんすか??」


 しんみりした場の空気にそぐわない、野太い声が響いた。

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