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(全然大丈夫じゃなかった・・・)
じめっとした空気なのは、洞穴の奥の方に地下水路があるからだ。遠くから微かにちょろちょろと小気味よい水音が響いてくる。湿度は高いが温度は低く、季節が冬ということもあってかなり寒さを感じた。
目の前で自らの袿に男の子を包んで震える女性の肩に、代わりとしてわたしの袿をかけるとキッと睨まれる。
「あなた達のせいですよ!!」
「違うんです母様!僕が一緒に行こうって誘うて、よう見んと行った事ないところまで走ったら足が滑って・・・ごめんなさい」
まだ小さいのに男の子は自分の責任だと感じているようで、そこまで言うとうわぁあんと泣き出してしまった。
洞窟の中では物音がかなり反響する。ぐわんぐわんとあちこちから聞こえるその泣き声を聞いて、ますます居たたまれない気持ちになった。
「わたし達が付いていながら面目ないです・・・」
しょんぼりとする他ない。
道満と元忠は先ほどわたし達が転げ落ちてきた急斜面を確認しているが、改めて見上げるとところどころに鋭く隆起した部分があり万が一あそこにぶつかっていれば無事には済まなかっただろう。
全員が軽いたんこぶや打ち身程度で済んだのは奇跡だった。
「とりあえずこっから出ねえとな」
「この後約束があったんだ。だから時間になっても俺が来なきゃ、あいつらが捜しに来っから大丈夫」
あいつらここらの土地勘あるしな、という言葉に少しだけほっとする。誰かが探しに来るあてがあるなら、今ここでジタバタする必要はない。
未だに泣き止まない男の子は、泣き声の合間合間で激しくしゃくり上げて呼吸するのも辛そうだ。
「じゃあ、助けが来るまで少しお喋りしませんか?」
少しでも男の子を落ち着かせてあげたくて、そう切り出した。
*
木々の枝やこんもりと積もった雪に阻まれて、遠目からは全く見えない洞穴の入り口にたどり着いた時、確かに子供心を思い出してわくわくしていた。
中は寒くて薄暗かったが何も見えないと言うわけではなく、入り口から差し込む日光が中央を明るく照らしており多少の視界はある。目を凝らすと、内部は緩やかな下り坂でかなり奥まで広がっているようだった。
「ここがな、僕のな、秘密の場所なん」
「すごいじゃねえか。自分で見つけたのか?」
「うん!!僕が一人でな、見つけたんやで!」
誇らしげな男の子は道満を見上げて、どうだと言わんばかりの笑みを浮かべている。
どの時代でも子供の探検好きは変わらない。わたしも小さい頃、祖母の家の裏山で似たようなことをしていたものだ。道満に頭を撫でられ、顔をくしゃくしゃにして喜んでいる男の子を微笑ましく見遣った。
ちょっとした軽食でも持ってくれば探検感が増してよかったな、と思いながら内部に踏み入ると、男の子による解説が始まる。
「この石な、形が玄武っぽいやろ?奥に白虎とか青龍もおるよ!」
玄武とは亀と蛇の合わさったような想像上の霊獣だったか。
言われた石をよくよく見てみたものの、どのあたりを以てして玄武だと判断できるのかよくわからなかった。この時代の人はそういうものを心の底から信じているのだし、そんな人が見ればそれっぽく見える、のかもしれない。
でも玄武とか白虎とか言われると―――
(中二病っぽいっていうか、雀士っぽいっていうか・・・)
ねじ曲がった千年後の思考を一旦捨て、内部を見回す。
その時。
「季平!!そこにいるの??」
どこかで聞き覚えのある女性の声が洞穴の外、入り口の向こうから聞こえてきた。
この洞穴は人気のない山の中腹にある。普通ならばこんなところに女性がいるはずないし、呼びかけられる名も聞いたことがないが、思い当たることが一つだけ。
そっと男の子の顔を見ると、明らかに焦った顔をしていた。
「やばっ!母様の声!!国司館を抜け出したの、気付かれたんや・・・」
(国司館?)
ということは、この子は?
生じた疑問を消化する前に、男の子が手招きして奥へ向かい始めたので慌てて付いていく。
「ねえ、あんまり奥に行くと危ないよ。下ってるみたいだしこの先窪んでいるかも・・・」
「平気、平気!僕、ここ何回も来てん」
すぐ後ろに道満と元忠が続いている気配がするので、二人に止めてもらおうか。
そう思った時、二人とは別の人物の声がすぐ傍で聞こえた。
「季平!!!」
大人のわたしですら反射的に背筋を伸ばすほどの鋭く厳しい声に、男の子は飛び上がって驚いたようだ。
目を見開いて振り返ったその表情が、入り口から差し込む光を受けてよく見える。目線は後方のやや上の辺りに向けられたが、そうすることによって僅かにバランスを崩したらしい。奥へ向かってたたらを踏む。
(あ・・・)
――― すかっ
最後の一歩が踏みしめるはずだった地面が無く、代わりに宙を掻いたのを見て、咄嗟にその体に飛びついた。
(落ちる!)
目をぎゅっと瞑って、男の子の体を抱き込むと衝撃を覚悟した。
――― くんっ
宙へ飛び出す形になったのは間違いないが、同時に袖が強く引っ張られる感覚があり、そして何かが体全体をすっぽりと覆う。身を包むそれによって落下の衝撃がほぼほぼ緩和され、覚悟したほどの衝撃はなかった。
「うぅ・・・」
「・・・痛ぇ」
「大丈夫か!!」
腕の中の男の子を急いで確認すると、呆然とした顔をしているものの、血が出たりおかしな方向に手足が曲がっているような事はなさそうだ。
自分の体もほとんど違和感はない。
「この子は大丈・・・っ!?」
男の子から顔を上げると、すぐそばに道満の顔があって反射的にのけ反り距離を取る。しかし思ったより離れられなくて、自分が道満の腕の中にいるのだと気づいた。
(そっか、道満様が庇ってくれたからほとんど衝撃がなかったんだ)
「お、重・・・」
近くから聞こえた苦し気な声にはっとして薄暗がりの中周囲を見回すと、隣に蛙のように地面に伏した元忠が居て、その上に美しい朱色の袿が―――
「季平!!!」
唐突に、朱色の袿を纏った女性がこちらへ飛び掛かって来た。薄暗がりとは言え、その姿形を確認できる程度には視界がある。
先日の市場で出会ったあの嫌味な女性、大目の御方様だったか、が腕の中の男の子を奪い取ると抱きしめた。
「季平!!!季平!!!」
「母様、僕は大丈夫・・・僕は・・・お姉さん、大丈夫?」
「大丈夫だ、多分怪我はねえよ」
わたしの代わりに道満が答える。
大丈夫と答えた割に自信がないのか、確かめるようにごつごつとした手が頬や背を撫でていく。恐る恐るといったその手付きがくすぐったくて、目を細めるとくすりと笑った。
「はい、大丈夫ですよ。どこも痛くないです。庇ってくれてありがとうございます」
「おい、誰か俺の心配もしてくんねえか・・・」
のっそりと起き上がった元忠の状態を慌てて検めると、彼も擦り傷程度で済んでいるようで心底ほっとした。
*
「・・・ええっと」
大目の御方様は鬼のような形相でこちらを見ているし、元忠は面白くなさそうにそっぽを向いているし、道満は何か考え込んでいるし、男の子は泣き止まないし。
自分でお喋りしませんかと誘っておきながら、こんな場面にぴったりの話題が浮かばない。
悩んだ末に、つつつと男の子の近くに寄ると手の甲を男の子の頬に当ててさする。
射殺さんばかりの眼光でこちらを見る御方様は、しかし叩き落とすようなことはしなかった。
「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んで行けー!」
痛くて泣いているわけではないとわかっているのだが、言うに事欠いた結果だ。
ついでに、他三人の大人たちの頬も撫でて同じことをする。全員きょとんとした顔で見返すので、このメジャーなおまじないはこの時代にはないらしい。
「なんだそれ?」
「怪我した時のおまじないです。わたしの故郷ではこう言うんですが、こっちでは言わないですか?」
聞いたことない、と首を捻る元忠の隣で道満がわたしを見つめて質問を投げて寄越す。
「なあ、なんでお前は人の頬を撫でる時、手の甲を使うんだ?」
「ん?ああ、それはですね・・・」
それは昔から何度か指摘されたことがあった。
「母がわたしを撫でる時、いつも手の甲を使っていたんです。だから自然と同じ事をするようになったみたい」
母はとても料理上手だった。おやつを作るため、ご飯を作るため、いつも台所に居るので、構ってほしいわたしは台所に立つ母の足に四六時中纏わりついていたのだ。
調理中は手の平が汚れている事がほとんどなので、そうすると母はいつも汚れていない手の甲を使ってわたしの頬を撫でる。美味しい匂いを漂わせながら、あとちょっとでおやつができるよと言って笑う。手の甲で撫でる、撫でられるというのは自分の中の暖かな愛情の記憶と繋がっていた。
だからわたしにとって、手の甲で撫でるというのは―――
「可愛さや慈しみを感じる対象を見ると、自然と、こう、手の甲で撫でたくなってしまうんですよね」
へへへ、と照れ笑いを浮かべると、大人たちは三者三様の反応を示した。
御方様は母としての立場で思うところがあったのか幾分目つきが柔らかくなり、道満は何を思ったか先ほど触れた頬に手を当てて押し黙る。
でも一番反応が変だったのは元忠だった。
「お前さんは母親から愛情をたくさんもらって育ったんだろなあ・・・なんかそんな感じするわな」
ぽつり、ぽつり、と家族に関する話をし始めるので、もしかして人探しに関する事情も聞けるかもしれないと身を乗り出し耳を傾けた。