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斜め前を優美に歩く、代理の播磨守をちらちらと見遣りながら彼に付き従う。
人ではない存在だと言われても信じてしまいそうなほど恐ろしく整った容貌だが、だからこそ親しみや和やかさなど一切感じない。むしろ近寄り難さや人間味の無さが強く感じられて、彼が来てから国庁の中はピリリとした緊張感に包まれていた。
そんな彼に、今から言いづらい事を報告しなければならない。
(ううぅ~~怖いぃぃぃ!!!)
生来の雰囲気に加えて更に話しかけづらくなっているのは、現在喪に服すため都へ戻っている播磨守、自明が嫌がらせとも言える量の仕事をわざわざ溜め込んで彼に押し付けたせいだ。
その事実を告げた時の空気と言ったら。自分はここで絞め殺されるんだと覚悟するほどの冷えた空気に包まれた。
自明とは彼が伊予守の時からの付き合いで、国司として一緒に赴任するのは播磨が三カ国目だ。
性格に癖があるので誤解される事も多いが、情に厚く部下からは慕われているし、責任感を持って執務を行う良い守だと思う。私情を挟んで執務を滞らせるような方ではないと、長い付き合いでわかっている。
だからこそ、今回の彼の行動が理解できなかった。いつもの自明であれば、都へ戻る直前まで執務を行い、できるだけ仕事量を減らした上で入念に引継ぎをしてから上洛したはずだ。なのに、今回に限っては彼の行動はいつもと真逆だった。
ちらっと後ろを見る。
(誰か代わってはくれないものか)
自分の後ろには、国司第三等官の大掾、第四等官の大目がトボトボと付いて来ている。その表情はこれ以上ないほど強張っており、冬だと言うのに額には脂汗が浮いていた。とても代役は頼めそうにない。
やはり、第二等官の介である自分が伝えるしかなさそうだ。
――― ギィィ
重々しい音を立て、代理の播磨守が執務室の戸を潜る。
全員が入室したところで、静かで冷たい声が響いた。
「ぞろぞろと何の用だ」
貴族然とした優雅な所作で倚子に座ると、さっさと用件を言え、と続ける。決して語気を荒げているわけではないのだが、凄まれているような気がして全員が委縮してしまい沈黙が広がった。
一度は自分が喋ると覚悟したのだが、生唾を飲み込んだまま言葉を発することができない。だがしかし、黙っていてもどんどん生命力を削がれていくような気がして、ついに声を上げた。恐怖のあまり両目をきつく閉じて言う。
大変大変大変申し上げにくいのですが―――・・・
「自明様が残された未決の陳情書が、先日お渡ししたものの倍ある事がわかりましたッ!!」
しばらくは国庁に詰めて頂く必要があるかと思います!!
ここまで言った瞬間、執務室の空気がどこかへ無くなったような錯覚に陥り、意識が飛びかけた。
「「「はぁ~~~~・・・・・」」」
三人で大きなため息をつく。
誰から誘うでもなく自然に執務室の前に広がる庭園の端に集まると、うずくまって反省会を始めた。
「真実を告げるより他なかったよな?な?・・・俺、何か間違ったかなぁ・・・」
「お前は何も悪くない・・・悪いのは自明様や・・・儂らは巻き込まれたんや・・・」
こんなに情けない声を最後に出したのは元服前だったと思う。それなりに官として経験を積んできているはずなのに、その自信がここ数日でどこかへ消えてしまった。
応じるのは大目だ。
「でも僕ん家、まだ幼子が居るし任期中に都へ戻されたくないですよぅ・・・」
目の役目は主に様々な書物の記録と取りまとめであるが、残っている陳情書の種別一覧について問われ答えられず、彼は執務室を出る前から半べそをかいていた。
全てが全てというわけではないが、一般的には任期中の解任は出世街道からの転落を意味する。養うべき家族が居れば、できるだけ穏便に国司の任を務めきりたいという気持ちはわかる。
国司なんてやっているとあちらこちらの地方へ赴くため、結婚相手を探すのだけでも大変だ。やはり都の姫君達は都から出たくないと言うし、地方の娘達はその地から離れたくないと言う。
折角見つけた相手を、出世街道からの転落によって万一失うことになれば目も当てられない。
幸か不幸か、最初の任官から国司だった自分は恋人すらいないが。
(このままだと播磨で俺の家系は途絶えてしまいそうだ・・・)
がっくりと頭を垂れながら、しかし仕事はこなさねばならない。無理やり頭を切り替えると、部下二人の顔を見た。
「うし、とりあえずは・・・陳情書の分類から始めるか」
かわいい盛りの幼子が居る大目は目に見えて気落ちした様子だ。
「僕らも国司館へはしばらく戻られない、ですよねぇ・・・?」
「儂らだけ帰ってみろ、ぶっ殺されるぞ」
全員が氷のような播磨守の顔を想像し、ぶるりと震えた。
もちろん自分たちにも山のようにやる事があるので、とても屋敷へ戻っている余裕はない。
何故自明は誰にも言わずにこっそり仕事を溜め込むようなことをして、いなくなってしまったのだろう。
(本当にもう!恨みますよ、自明様!!)
*
「はぁぁー・・・・」
右手首を見て、何度目かわからないため息をついた。頬が熱い。
(なんだったんだろう)
懲りもせずにまたさっきの光景を思い出しそうになるので、ぽんぽんと額を叩いて考えないようにする。もう忘れよう、きっとからかわれただけだ。
変に意識したら明日から顔を合わせにくくなってしまう。
気分転換に早めの湯浴みをしてすっきりしよう、そう思った時。
――― こんこんこん こんこんこん こんこんこん
微かに外門をたたく音が聞こえてきた。正反対の方向からは筑後が夕餉の支度を始める音が聞こえてくる。
この国司館の造りは筑後がよくいる厨が外門から最も遠いので、来訪者に気付いていないのだろう。門をたたく音は断続的に続いている。
(よし、わたしが出よう)
どうせ暇だしな、とのっそりと腰を上げて外門へ向かった。
「はいはいはーい」
宅配の受け取りに出る時のように草履をつっかけてととと、と駆けると、門の向こう側には何故か半べそをかいた直衣姿の男性がおどおどした様子で立っていた。
「あの、晴明様の御屋敷の方・・・です・・・よね?」
「はい、そうですが」
わたしの頭のてっぺんからつま先まで三往復くらいじろじろと見るので、はたと気づいた。
来客時、まず応対に出てくるのは一般的には家人だが、身なりが家人のそれではないので戸惑ったのだろう。
「あ、わたしは晴明の妻です」
そう言うと化け物でも見たかのように十歩ほど後ずさった。
(な、なに??)
国衙のほうで何かあったのだろうか。
訝し気な顔をするわたしに、なんとか立ち直った彼が自分は史生という役職の官であり晴明からの言付けを預かって来たと言う。不自然に離れた位置から話すのでちょっと傷つく。
「晴明様はしばらくこちらへ帰られないとのことです」
「何かあったんですか?」
「いえ、執務が重なって忙しく・・・その・・・申し訳ありません・・・・」
わたしに謝る必要などないだろうに縮こまってしょぼしょぼと下を向く様子に、よほど業務が立て込んでるのだろうと察した。よく見ると彼の目の下の隈もひどいので、国司達皆が忙しいのかもしれない。
(あ、そうだ!)
「言付けの件は承知しました。ちょっとお待ちくださいね」
急いで母屋に取って返して厨子棚の上に置いてあった大きめの巾着を持ち、再び門の前へ行く。
「あなたはまた国衙へ戻るのですよね。これ、晴明様に渡してもらえませんか?」
市場に出かけた時、甘い菓子や木の実などの軽食をたくさん買っておいていた。
こちらへ赴任してから忙しいようだったし、仕事中の糖分摂取にぴったりだろうと巾着に詰めて今日帰って来た時に渡すつもりだったものだ。
まさか帰って来られないほどとは思わなかったが、せめて少しだけでも力になれるといい。
「あなたも一緒に食べてください。美味しいですよ」
職場の皆様でどうぞ、と巾着を手渡そうとすると彼は更に十歩ほど後ずさった。
真っ青な顔でぶんぶんと首を横に振っている。
(んん?)
どうせ晴明が居る国衙へ戻ると言うのに、忙しすぎて手渡すことは難しいのだろうか。
「ええーっと・・・うーん」
見上げた太陽の位置からして、今は申の刻より少し前くらいだ。
一瞬の逡巡の後、史生の彼にそっと近づいた。
「じゃあ、代わりにお願いがあるのですが」