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外の薄闇が、徐々に淡い夜に移り変わる時分。
――― ガタンッ
「・・・っ!・・・ん?あれ??」
牛車を屋敷に付けた際の衝撃で、腕の中の柔らかいものが身じろぎする。次いで勢いよく瞼を持ち上げると、何度か開閉した後に申し訳なさそうな声で呟いた。
「あの・・・もしかしてわたし、相当寝てました?」
一刻以上寝たからだろう。もうすっかり酔いは醒めており、朱雀院で誰彼構わず触れ合っていたあの危うい空気は霧散していた。小さな声で謝罪が聞こえる。
もう二度と外で酒を飲ませたりはしない。
肩を抱いて立ち上がらせようとすると、怒られるとでも思ったか。するりと腕から逃れる。
そそくさと牛車を飛び降り小走りで先を行った。
たった数日間の離別であってもどれだけ妻の温もりが不足しているか、それがどれだけ精神の均衡を著しく崩すものか、妻は全くわかっていない。少しも離したくはないというのに、いつもすぐに逃げ出す。
どのように仕置きしてやろうか。悠然と追えば、意外にもどの部屋にも逃げ込む事はせず、母屋の入り口に立ちこちらを見ていた。両手を広げ、胸を大きく上下させて邸内の空気を全て吸わんとするかのように深呼吸を繰り返す。その顔には、安堵を含む円かなる感情が浮かんでいた。
「わたし、ちゃんと帰ってこられたんですね」
潤む瞳がこちらを見上げる。
以前は視線が絡み合ってもすぐに逸らして背を向けていたのに、今は違う。
『すごく・・・会いたかったです』
播磨で再会した時、妻は柔らかな腕を懸命に伸ばして私の首に掻い付いてきた。その両の眼から珠のような涙を零し、心の底から私を求めて。
一瞬の後、直前まで感じていた怒り、焦燥、苛立ち、苦悶、全てを忘れ、それどころか指の一本も操る事を忘れて感動に打ち震えた。嗚呼、これで妻の全てを手に入れられる。何もかもを与えられる。
自らの意思とは関係なく引き離された事で、妻の心境に大きな変化が起きたようだ。
あの唾棄すべき思慮の足りない后にはそれまで激しい怒りを抱いていたが、少しは感謝してやっても良い。
「晴明様も、わたしに会いたかったですか?」
愚問だ。
聞くまでもない事と顔を歪めて笑えば不安に揺れる瞳が視線を彷徨わせるので、明に是と答えた。思えば飛香舎でも可笑しな勘違いをしていたようだった。見上げる妻の顔が含羞んだような笑顔で彩られる。
いい加減思い知ればいい。私が追い求めるのは妻だけだ。妻以外は知ったことではない。平安京も、血筋も、陰陽道も、人間関係も、全て失われようとも何の未練もない。
逆説的に言えば周囲の全てに惜しみなく愛想を振り撒く妻の存在は、私をこの世に繋ぐ唯一の細い糸であるとも言える。
本当はあらゆる縁から妻を切り離して囲い込みたい。私以外を目に映す必要は無い。
あの后の後始末のおかげで都に於ける人間関係からは切り離せるだろうが、どうせ行く先々でも愛想を振り撒き不要な縁を繋ぐに違いなかった。妻は他者との交流を好み、楽しむ。私だけを見ているべきなのに、少し目を離すとすぐ他者と関わる。その度に、私だけのものだ誰も触るなと叫び出したいのを何とか抑えていた。
だが、魂の根源から湧き上がる一番重い願いが叶うなら、目の届く範囲で妻が望む僅かな自由を与えてやっても良い。
私の願い―――
丸みを帯びた頬を両手で包み込んだ。
私を惹き付けてやまないその焦げ茶の眼球を覗き込めば、些かの怯えが走ったのが見て取れる。抑えきれない血の滾りを感じ取ったか。
「本物の夫婦になりたい」
鼻の先が触れ合い、お互いの吐息が混じる距離で囁いた。反射的に半歩下がろうとする体を絡めとる。
これ以上試行的な夫婦として過ごすのは難しい。もう欲望を我慢できそうにないし、するつもりもなかった。今夜、妻の頭頂から爪先まで、五臓六腑の隅々まで、全て私のものにしたい。
やはり怖気づいて逃げようとするだろうか。そうなればもう落花狼藉を働くほかない。
神経が昂るままに母屋の入り口から塗籠の戸の前まで追い立てると、意を決したように妻が口を開いた。伏せられた目にかかる睫毛が小刻みに震えている。
「・・・ええと、その・・・はい・・・・」
再度、視線が絡む。揺れるその瞳には、はっきりと私を受け入れんとする意思が見て取れた。
嗚呼、喉が鳴る。
無意識に舌舐めずりした。
――― ドンッ
その体を塗籠に押し込むと、乱暴に戸を閉める。
後はもう本能のままに体が動いた。荒々しく衣を剥き、置畳に組み伏せる。
冷たい外気に触れたその柔肌は粟立っており、じっと見上げるその瞳には大きな不安と小さな途惑い、そして少しの熱が含まれていた。
生憎、妻を真っ当な形で愛することはできない。私が妻に抱えているのは、愛と呼ぶにはあまりにも大きい、重く昏い感情であることはよくよく自覚している。
狂気を以てして、正体を失くすほどに激しく奪うような愛し方しかできない。
指の一本一本を絡め取って左右それぞれの手を繋ぐと、遠慮がちに握り返してきた。
妻の性格からして、私などに見初められなければ極普通に恋をして子を為し老いていっただろうに。今夜、そんな普遍的な幸せから未来永劫決定的に隔離されるのだと思うと僅かながら不憫に思った。
一方で、私と交わらない道など絶対に存在しなかったとも思う。
結局どんな経緯を巡ったとしても、最後は私の手に堕ちる運命だったと信じて疑わない。どうあっても、人の身では受け止めきれないほどの情を注がれることになったのだ。他の男と交わる道など想像するだけで反吐が出る。
猛りを抑えて頬擦りすると、呪詛のように囁いた。
「受け入れろ。私の想いも、狂気も、情欲も、全て―――」
圧し潰された妻の体はぶるりと大きく震えたが、しかし遠慮がちに身を寄せることで受け入れる意思を示した。
戦慄く唇が、吐息と紛うようなか細い声で私の名を呼ぶ。
その夜、これまで蓄積してきた渇望を一気に解放するが如く、熱に浮かされたように何度も何度も妻を求めた。
*
目の前に広がるのはいつも見慣れた庭だ。何の変哲もない。邸内に広がる静謐な空気がいつも通りに身を包む。
なのに世界が丸ごとガラリと変わってしまったかのように感じるのは、つまり自分が変わってしまったからか。
(不思議な感じ)
昨日の穏やかな陽気から一転、しんしんと庭に降り積もる雪を眺める。骨まで凍るような寒さだが、火照った体には心地いい。
庇の下、ぶらんと足を投げ出して座ると、桟の上に積もった雪の上澄みを両手いっぱい掬い上げた。
――― ぼふんっ
思い切り顔を突っ込む。そうしてぱくっと一口頬張る。
雪はあまり綺麗なものではないので積極的には触れないほうがいいと聞いた事があるが、どうにも我慢できなかった。
生理的な涙を流し続けて酷く浮腫んだ瞼、何度もきつく吸われ過ぎて腫れあがった唇、掠れた声すら発するのが難しい枯れ果てた喉。そのどれもが、雪の冷たさを必要としていた。
未だかつてないほど酷い顔をしている自覚はある。まるで試合直後の格闘家だ。今日は誰にも会いたくない。
(お休みでよかった・・・)
明日出仕するまでに絶対に元に戻しておかなければ。
雪に押し当てれば押し当てるほど、皮膚の感覚がすうっと無くなっていく。そろそろ背筋が寒くなってきたが、一刻も早くこの状態をどうにかしたくて我慢した。
あと三十秒。
そう思った時、背後から抱きすくめられて雪が零れ落ちる。鼻孔を擽るのはこの上なく安心するいつもの香りだった。
「体は問題ないか」
問題しかない。
ぷいと明後日の方向を向いて口を尖らせ問いを流す。昨夜何をされたか思い出せば、こんな態度だって許されるはず。
「・・・ひ、ど、、い、、ごと、ざれま、じ、た」
ほとんど潰れてしまった喉から何とか絞り出した声を聞いた晴明は、すこぶる満足そうに低く笑った。弦を弾くように喉をつんと撫でてくる。
「痛々しいな」
(誰のせいだと!)
顔や声だけではない。
全身が筋肉痛だし歯形はたくさん残っているし、ところどころはそれとは別の、鈍く重い痛みにも苛まれていた。体を繋げる事に同意したのは間違いないが、その方法は絶対に普通ではなかったと思う。
へそを曲げむすっと顔を顰めていると、抱きすくめられたまま体を引き上げられた。
「ここは冷える。閨へ戻れ」
中で温めてやる。
耳朶を食みながら頬を撫で、上機嫌に言う。
外気温が低すぎるからか、いつも冷たいと思っていた晴明の体温が温かく感じた。触れ合う肌も、耳を擽る吐息も酷く熱っぽい。
でもそれが別の要因である可能性に思い至り、慌てて引き剥がした。
(今は無理)
あの暴力的なまでの想いを受け止めるには、自分の体力が著しく不足している。
少しだけ、ほんの少しだけ、自分の選択がこれでよかったのか悩んでしまう。精神面では後悔はないが、肉体面で負荷が重すぎる。
一旦引き剝がした温もりがふわりと動いて再度肩を掴み、今度はくるりと反転させられて正面から晴明の腕に包まれた。
緩やかに後頭部の髪を手櫛で梳かれている。
「約束の話を覚えているか」
「や、、ぐ、、ぞく?」
「魂が続く限り夫婦でいると」
そういえば、お試し夫婦の話が出るきっかけとしてそんなことを言っていたっけ。
こうなってしまった以上そんな約束などあってもなくても、と思い晴明を見上げると思いの外真剣な顔をしていた。昨夜閨で見上げた時と同じくらい、いやそれ以上に熱を孕んだ瞳に知らず知らずのうちにごくりと喉が鳴る。
「今こそ約束を」
約束するのはやぶさかではないのだけど、そんなに拘るのは何故だろう。
しばし考え込んで、そしてここでいう約束とは、つまり契約をしようということではないかと察した。
この時代の婚姻はどこかへ届け出をして認可されるようなものではないので、それに代わる契約として明に約束しておきたいのではないか。
晴明の約束という言葉には、契約よりもずっと重い何かが見え隠れしている気がするのが少し不安だけど。
(でも)
約束してもいいか。
どう足掻いたって、もうわたしも晴明からは離れられないのだ。
「やぐ、、ぞ、くじま、す」
がらがらした声で、はっきりと頷いて答えたら。
晴明の目が柔らかく細められて、心の底から満ち足りたという顔で微笑んだ。こんな表情を見たのはいつぞやの神泉苑以来かもしれない。
(いつもこう笑ってくれればいいのに)
無意識にその頬を撫でようと手を伸ばすと、頬に触れる前に手首を掴まれ、指の一本一本をじっとりと舐られた。
口内のその熱は、嫌でも昨夜の房事を思い出させる。同時に、うなじを撫でられながら器用に襟元が暴かれていく。
あれ、これはまずいのでは。
そう思った時。
「お早うご・・・っ!!きゃぁぁ!!!」
話し声が聞こえたからか、母屋に顔を出して朝の挨拶しようとした筑後がひゅっと息を呑む。無理もない。今のわたしはどこからどう見ても満身創痍の格闘家だ。
湯浴みのご用意をしましょう、と言って慌てて晴明から引きはがしてくれた。
(助かった・・・!!)
むっとした顔の晴明を置いて、そそくさと湯浴みに向かう。
湯浴みの準備をしながらこれから本当の夫婦としての生活が始まるのかと考えていると、なんだかふわふわしたような、むずむずしたような変な気持ちになった。
本当に、人生は何が起こるかわからないものだ。
ふと庭の方を見るとしんしんと降っていた雪はいつの間にか止み、包み込むような温かさの穏やかな日光が差し始めている。
すぐに春が来るだろう。
そうするともう、こちらへ来て一年になるのか。色んな事があったし、色んな人と関わって来た。辛い事も楽しい事も本当に色々。
不意に、涙がじわりと浮かんだので上を向いて堪える。多分これは悲しいからじゃない。
心の奥から湧き出る、言語化しづらい温かな気持ちが引っ張り出した涙だ。
もしかしてこれって―――