【三題噺】発車します 〜消えた息子の影を追う母親の幻想〜
三題噺
お題は「座席」「泥棒」「隙間」3000文字以内
私の隙間を盗んだ泥棒が、正面の座席でうつらうつらしている。
車窓に射す清浄な真昼の光がスポットライトみたいに泥棒の姿を浮かび上がらせ、色素の薄い髪が琥珀色にきらめいている。
ああ。
どれほど探しても見つけられなかったそいつが、唐突に目の前に現れた不思議。
隙間を失った私がどれほど窮屈な日々に苛立っていたことか。
目の前でゆったり健やかな顔で眠るお前は知らないだろう。
むしり取るように貪るように奪って、お前は私の人生から立ち去った。
放り出された私は、今更何に私を傾けていいかわからない。
隙間はもはや隙間ではなく私そのものだった。
車窓の景色は逆方向に流れ、次第に懐かしさを帯びる。
魔法のように、お前のツンとすましたような顎が、頬が、ふっくらと丸く柔らかくなっていく。
「……おい……ばばあ…………かあさん………………ママ」
お前の声が徐々に甲高く、天使の羽ばたきのように静かに頭の中でこだまする。
遡る時に溺れながら、後悔ばかりしていたことを思う。
もっと、もっと、もっと。
うまく愛せたならお前は、お前と少しは話ができただろうか。
幼い頃ばかりじゃない。
無精髭を生やす頃になっても。
お前に隙間を埋められた私が、どれほど甘やかな時に魅せられてきたことか。
満たされていたか。
トンネルに入り、遅れて車内灯が点灯する。
お前はいない。
ーー「息子さんに間違いないですね」
「はい。私の、息子です」
窓のない暗い部屋で、眠るお前の硬く冷たい手に触れる。
もうどうにも埋まらない隙間をぶちまけてその手に塗り込んでしまえたらと願う。
私の時を全部、全部あげるから。
あげるからーー
「終点ですよ」
車掌に肩を叩かれ目を覚ます。
降り立ったのは見知らぬ無人駅だった。
どことも知れぬ鮮やかに色づいた渓谷の上。
折り返すのか、車掌は再び汽車に乗り込み扉を閉めた。
「どちらへ?」
「あんたには関係ない」
車掌の合図で汽笛が鳴り、電車は動き出す。
「そっちは谷……」
帽子を深めにかぶり車掌室からそっとこちらを見やるのは、息子。
お前だ。
「待って」
電車はシャボン玉のように透けて虹色に輝き、弾けるように姿を消した。