03 スラム
蜂蜜色のふんわりとした長い髪、エメラルドのような翠の瞳、陶器のようなツルッとした肌の美少女が目の前にいた。
「あなたは誰?」
「……黒猫って呼ばれてる」
思わず見とれてしまったが、隠すように落ち着いた声で答える。
水色のワンピースの裾はほつれ、フリルのついた靴下も靴も泥や雑草で汚れている。髪にはホコリがつき、目元は涙で濡れて、擦ったのか赤くなっていた。多くの子供が絶望するような状況で、この子は自分の力で逃げてきたらしい。
本当に?
いや、今は疑問に思っている場合ではない。実際に彼女はここまで頑張ったのだ。必ず送り届けよう。ゆっくり近づき、彼女の手を取る。
「信じられないかもしれないけど、君を助けたい」
「……」
反応がない。見知らぬオレが怖いのかな?
フードを脱いで笑顔で手を差し出してみる。まぁ生まれてほとんど笑ったこと無いから、ちゃんと笑顔に見えるか不安だ。
「ぁ……はい!お願いしますわ!」
「────っ!」
美少女がふわりと笑った。
可愛すぎる!天使の笑顔を頂きました!しかもこの手も汚いと振り払わず、お願いまでしてくれて良い子じゃないか。感動で泣きそう……
今まで助けた子供の中には「さっさと助けろゴミ」「近寄らないで気持ち悪い」とかスラムの人間ってだけで罵られることもあったからなぁ、連れ出すの大変だった。それに比べてこの子には癒される。何があっても親元に返してあげなきゃな。
救出者用に用意しておいたキレイめなマントを少女にかけて、手を引いて歩き出す。夜のスラムはみんなそこら辺の道端で転がって寝ているのだが、少女は物珍しそうにキョロキョロしてしまっている。夜は暗闇に溶け込みやすいが、この時間帯に歩いている人間は珍しく視線を集めやすい。
「まわりを見ずに、オレの背中だけ見て。目があって、絡まれたら面倒だ」
「わかったわ」
素直でよろしい。
少女が従順で今回はすんなり出れると思ったが、先程から怪しい人影を避けているため、なかなか真っ直ぐ出口に行けない。人影を避けると今歩いている道しかルートがないような…………そしてはじめの違和感の正体に気が付く。
やられた。
やはり温室育ちのお嬢様がひとりで逃げ出せるはずはなかったのだ。オレを釣るためにわざと逃がして罠へと誘導し、今度こそ本気で捕まえる気らしい。この子を誘拐したついでにオレを誘い出したのか、それともオレを誘うためにこの子を誘拐したのか……もし後者なら最悪だ。
このまま更に進み、逃走ルートが絞られてしまう前に気付かなければ危なかった。まだ間に合うはず。気付いていないふりをして歩いているが、時間の問題だ。強行突破するしかないだろう。
「敵に囲まれてる。突破したいんだけど、まだ走れる?」
「走れるわ。体力はあるのよ私」
「なら良かった。君は助けるから」
「黒猫さんは助からないの?」
「分からない」
「諦めないでよ。私だけ助かっても嫌だわ」
「オレは大丈夫だから」
「分からないのに大丈夫っておかしいわよ。私、全力で走るわ!一緒に助かるのよ」
「……」
「ひとりは嫌よ」
黙ってしまったオレに、今にも泣き出しそうな少女はオレの手をぎゅっと強く握った。この子は優しすぎる。自分を心配されたのは今世では初めてで、少し感動してしまった。
スラムの孤児が犠牲になっても誰も悲しまないと思っていたが、この子は違うらしい。先程の天使の笑顔は失いたくない。
「何とかする。じゃあ行くよ」
「うん!」
オレと少女は走り出した。まわりの気配も動き出したのがわかる。
「バレたぞ!追えー!」
「今日こそ逃がすか!俺らも後が無いんだ」
「一緒に捕まってくれ、黒猫ぉー!」
奴等の声には覚えがあった。やっぱり再犯のグループかよ。むしろこれだけ失敗してたのに、よく依頼がきたな!失敗したグループが消されてないってことはマフィア関係じゃなさそうだ。逃げ切れる希望が出てきた。
オレたちは狭い路地を抜け、縄張りの人には申し訳ないが廃墟に入り、2階へ駆け上がる。窓だったところから用水路の塀へ渡り、塀の上をそのまま走り出した。
塀の上の途中には見張り役だった男が二人いたが、ひとりには得意の跳び蹴りをプレゼントして、用水路に落ちてもらう。もうひとりは先に落ちた男に気をとられているところを背負い投げで落とす。深さのある用水路に落としてしまえば、泳ぐので精一杯で、もう陸を走るオレらを追えないだろう。
塀の上は狭いから、同時に複数人を相手をせずに済むから倒しやすいが、少女が後ろにいるから背後には弱い。
別の誘拐犯も塀を登り、叫びながら後ろから追いかけてくる。少女はよく付いてきている。目的の場所につくのが早いか、捕まるのが早いか…………とにかく走るしかない。
「ハァハァ」
「見えたよ!頑張って」
誘拐犯も追い付いてきて体力の限界が近いが、オレらに分があるらしい。塀の終わりの近くの木に結んでいた逃走用の隠しロープを引っ張る。
「しっかり握って!口は閉じて!」
「え!?」
「行くよ!」
「きゃああぁ────っ!」
ロープを握り、少女をしっかり片腕で支えて、塀から飛び降りる。前世でいうとターザンだ。用水路の向こうは、表通りではないがスラムの外側だ。少女の声を聞いて助けが来るはずだ。
バキッ
と思っていたら音を立てて木の枝が折れてしまった。ふたり分の重さには耐えれなかったようで、向こう側にわずかに届かず、このままでは用水路に落ちてしまう。オレは体をひねり、少女を投げた。
バッシャーン!
水に落ちたオレはすぐに浮上し確認すると、少女は痛みで顔を歪めているが、無事に陸に乗れたようだ。水面から陸へは自力で登るには時間がかかる。少女だけでもと思い「逃げろ」と口を開こうとしたとき、少女はオレに手を差し出してきた。
「掴まって!引っ張るわ!」
「先に逃げろ」
「嫌よ!ひとりは嫌と言ったはずよ!」
「でも」
「助けてもらったのにお礼ができないなんて、貴族の恥じよ!受け取ってくれるまで、動かないんだから」
今にも泣きそうな顔で訴えてくる。
そうだ、笑顔を守りたくて一緒に助かろうと思っていたはずなのに。こんな顔をさせたい訳じゃない。手を伸ばし、少女の手を握る。
「私の勝ちね」
と少女は笑った。