目の毒
城のように大きな入道雲が空にそびえ立つのをあたしは後宮の中庭から見上げた。目を閉じても木漏れ日があたしの顔をまだらに染め上げるのがわかる。こめかみをじりじりと汗が流れ落ちていく。
あれから、あっという間に夏になった。
耳の奥にわんわんと焦りのかたまりがせりあがってくる。ヒルダにもらった短剣を抜いて刀身をながめる。硬質で鋭いそれは、日光をはじいてあたしの目を焼く。指をそっとはわせると、いとも簡単にすーっと肌に沈んで血がひとしずく流れた。
ヒルダの言った通りだ。おそろしいほどよく切れる。
この切っ先をあたしは誰に向けるのだろう。
この古井戸の底のごとく世間と隔絶され停滞している後宮にも、ひたひたと変化の波が押し寄せようとしていた。
◇◇◇
「もっとこちらにきなさい」
ヘレナ姫のすずやかな声が耳朶を打つ。
夜、いつものように姫の寝台のそばに招かれ、あたしは戸惑った。薄い帳があたしのいる側だけ引かれ、ヘレナ姫の上半身がみえる。
いつも寝台のすぐ横に置く椅子を、今夜は一メートルほどの間隔をあけて置いたとたんの注意だった。
あたしはなるべく動揺を表に出さないようにして、姫の方へ顔を向けた。高貴な人の夏の夜着は肌の色が透けるほどうすく、身体のまろやかな線があらわで目のやり場にこまる。
「だめだ」
「いいからきなさいな」
平気で言い放つこの人は、きっとあたしがなにを気にしているかなんて知らないんだろうな。
色事について、とれたての綿花のように真っ白でふわふわした知識しか持ってないにちがいない。
なんてったってお姫さまなのだし。箱入り中の箱入りだ。
とにかく近寄るとだめなんだ。
顔が熱いし、もういろいろと困る。
だめったらだめだ。
しかもここは夜の寝台だ。
天蓋からさがった帳のすき間から、姫があたしの寝間着のそでをひっぱる。
ほんと、かんべんしてほしい。
こっちは必死なんだ。
それなのにこの人は無意識にため息なんてつきやがるからたちが悪い。
その色っぽい吐息ひとつで、あたしは死にそうなほどめまいがするのに。
あぁもう、その上目づかいをやめろ!
わかってやっているの? そうなの?
きっともう、耳が真っ赤だよ。ちくしょうっ
テンパるあたしを前にヘレナ姫はとても愉快そうに目を三日月型に細める。
なんでそういう顔するの?
それであたしが言うこと聞くとでも思ってるの?
おあいにくさま。
もうそっぽ向いて視界から追い出したから、ぜんぜん大丈夫。効果ない。
もう、ぜったい姫の方なんかみないぞ。
床の絨毯に穴が開くほど一点を見つめる。寝室にふさわしくふかふかの長い毛足で足音を立てない。豊かさを表す葡萄の葉と実が図案化されて織り込まれてる。あ、葉っぱのすき間に小鳥発見。かわいい。
衣ずれの音がして、すぐ横に人の気配を感じた。あたしはあくまでも首を固定して絨毯の模様であたまのなかをいっぱいにする。
あ、もう一羽いた。
「わたくしを見なさい」
耳のすぐそばで声が聞こえた。
「それは、命令?」
「そう、命令よ」
あたしはゆっくりと振り返った。
思った通り間近に姫がいて、襟刳りの深いうすい絹の寝間着から白いデコルテが覗いていた。
視線を天井にずらす。
「どこ見てるの、わたくしの目を見なさい」
仕方なくのろのろと視線をおろすと、真っ黒な瞳に射抜かれた。
この目はだめだよ。長く見てはいけない。
でも、吸い込まれるように目がはずせない。
姫はとてもとても楽しそうだ。
あたしごときに、どうしてそんな顔をするの?
勘違いしそうになるからやめてほしい。
残酷なんだ、この人は。
この人はあたしに嘘をついている。親父たちのこと、なにも言ってくれなかった。あたしを騙して利用しているんだ。
そう自分に言い聞かせてもなんの効果もない。
あたしは逆らえない。ヘレナ姫の黒い瞳にみすえられると、酔っぱらったみたいに理性が働かなくなるのだ。
ほんとうは姫があたしに言うことをきかせるのに、鞭も命令も、もはや人質でさえも必要なくなっていた。
この時間もいつまで続くのだろう。
手をきゅっと握りこむと、指先の傷がじくじくと痛んだ。
◇◇◇
あれからヒルダと数回やりとりをした。
驚いたことに、女官のなかにもアビーというレジスタンスの協力者がいて、ヒルダからの伝言をくれた。
アビーは30歳くらいで眼鏡をしていて、地味で大人しい外見をしている。いつも少し投げやりっぽい態度だけど、仕事はきっちりやるタイプだ。
後宮のつくりなんてあたしなんかに聞くよりアビーに聞いた方がいいんじゃないかと思うけど、まあ元義賊としての侵入経路の見立てもほしいんだそうだ。
レジスタンスのやつらがもっとも欲しがっている情報、つまり王様と姫についての情報収集は、あまりかんばしくない。
あたしは王様のことをほとんど知らないし、姫も話したがらないからだ。
でもいちどだけ、姫が答えてくれたことがある。
「夜にお慰めしにいっているの」
という憂い顔に、あたしは「まさか」と息を飲んだ。けど、すぐにあたしの想像した意味じゃないことがわかった。
「陛下は音楽がお好きだから、わたくしが笛を奏でてさしあげているのよ。
けれど、むなしい。壁に向かって吹くほうがまし」
組んだ両手のつやつやとかたちのいい桜貝の爪に視線を落とし、ぼんやりと一人言をもらすような調子で
「あの方は孤独なのよ。わたくしではどうしようもできないくらい。わたくしがお慰めできれば……と思い上がったこともあったけれど、王の孤独は生やさしいものではないわ」
と続ける姫に、あたしはなんと声をかければいいのかわからなかった。
あたしは実の父親というものを知らないし、親父に言いたいことがあるならなんでもはっきり言ったし向こうもそうだった。父娘なのに、こんなに距離感があるのがわからない。