二人ぼっちの語らい
みんなを裏切れない。
けれど、ふとした瞬間にあたしは姫を目で追っている自分に気づくのだ。
あの踊り(?)からヘレナ姫はあたしに関心を持ったようで、あたしに声をかけることが多くなった。
今まではきせかえ人形くらいにしか思っていなかったみたいだけど、あたしにも心があるってことにやっと気がついたみたいだった。
ヘレナ姫は夜、眠りにつくまえ、人払いをしてあたしに外の話をするように命じるようになった。
あたしは姫のベッドのすぐ横の椅子に腰かけ、姫はベッドで上体を起こしてあたしの話に耳を傾ける。
その時間、暗くて広い寝室には、あたしの声と夜に焚く香だけが際限なく広がっていき、世界にはまるであたしと姫だけしかいないんじゃないかと錯覚しそうになる。
髪をおろしてリラックスした姿でもじゅうぶん神々しい姫に、下町のきれいでも上品でもない話を語って聞かせるのはひどく場違いな気がして、あたしの声は自然とうわずった。
姫はとくにあたしの育った環境の話に興味を示した。
あるとき、親父に拾われる前にスラムでもの乞いをしていたときの話に及んで、あたしはとても耐えられない気持ちになって、話を中断した。
「勘弁して」
「続けなさい」
あたしは従わなかった。言葉にできるようなことじゃないのだ。とくに王族を前にして口にするようなことじゃない。夜空に輝く星に地を這いまわるドブネズミの気持ちが理解できないように、あれは似たような環境で育ちあの空気を肌で感じたものにしかわからない。でも、わからないほうが、たぶんずっとしあわせだった。
貝のように口を閉じたあたしを前にして、姫はあたしにまっすぐ視線をあわせて、心の奥底を探った。
長いまつげに縁取られた姫の黒い瞳には、奈落のように果てがない。あたしは途方にくれた。果てがないのに、そこには不透明な虚無があるだけで、スラムの腐った匂いも、あそこでいつの間にか冷たくなっていた孤児仲間たちの骸も、姫のなかに見つけられなかった。それがあるのはあたしの記憶のなかだけなのだ。
しばらくそうして、姫は静かにため息をこぼした。悲しみともあきらめともいえない響きがあった。
「わたくしはなにも知らないわ。なにも」
ときには姫の方もあたしに話をすることがあった。世話をしている庭の植物がもうすぐ花開くのが楽しみという話をしたり、本音みたいなひとりごとを思わずといった調子でこぼしてみたり。
「高貴な女性はね、花瓶のようであれ、と教わって育つの。外側をきれいにきれいに磨いて飾って、なかが空洞なことが好ましいのよ。空っぽな中身に、男が好きなものを好きなように入れられるから。『中身は磨かなくていい。考えるのも話すのも夫の仕事だ。けれど立派な席にも置けるような見映えのする花瓶になりなさい』って。わたくしも……」
「あんたも……?」
そこで姫は口を閉ざし、伏し目になってなにか物思いに耽りはじめてしまった。
結局その日、姫はその先を話さなかった。だから、あたしには姫がなにを言いかけたのかわからない。姫のなかになにがあるのか、ほんとうに空っぽなのか、外側からはとうてい窺い知ることができなかった。
ふたりの間には、生まれという深い深い溝があって、姫は決してあたしのことを理解することができない。でも、あたしだって姫のことを理解することができないのだ。
どうして姫はあたしなんかをペットにしたのだろう。最初はわがまま王女のただの気まぐれだと思ったけど、日に日にわからなくなる。
あたしはもう、姫を憎いとは思えなくなっていた。
そうこうしているうちに冬が去り、あたしの不揃いな髪の毛も多少ましになった。
◇◇◇
わからないことが多くて、それがとても腹立たしい。コバンザメ並にしつこく女官に付きまとって探ってみても、いまだに親父たちのその後のことをこれっぽっちも伺い知ることができなくて、あたしはどうにかなりそうだ。
でも、発見したこともある。
姫は女官たちを避けているみたいだった。
必要があるとき以外は呼ばないし、近寄らせない。女官たちの方もあえて姫に近づこうとする者はいないみたいだ。
気づいてみれば、どうしてこんなことがわからなかったんだろうってくらい、あからさまだった。
姫個人に仕えている人間はひとりもいない。
むしろ、距離を置かれてる。
ひとつ知るたびに、姫についてわからないことが増えていくいっぽうだ。
◇◇◇
「殿下、起きていらっしゃいますか」
「入って」
「まぁ! どうしてこの者がここに?」
春のはじめの日の朝、あたしは女官のあたしを発見して驚く声で飛び起きた。
あたしは姫のベッドに上半身が寄りかかるかたちで寝入っていたみたいだ。慌てて身体を起こすと、顔を洗うための水盆を捧げ持った女官がこちらを凝視していた。
あたしは姫と夜遅くまで話し込んでいるうちに、睡魔に負けてしまったらしい。
「おまえたちには関係ないことよ」
いぶかしる女官を姫が軽くあしらう。
女官はぴくりと細い眉を寄せて嫌悪の表情をし、すぐに無表情をとりつくろった。
そして、そのまま部屋を下がっていった。
その日の午後、あたしがひとりでいるところに、朝がた姫に水盆を持ってきたのと同じ女官が例の王さまの呼び出しカードを持ってきた。
そいつはカードをあたしが受け取ってもすぐには帰らず、ねばついたいやな感じの目であたしをじろじろとねめ回した。
「なんだよ?」
「殿下はあなたみたいのが好みなの?」
「どういう意味?」
「だからベッドのなかはどうなの? ほら殿下のことだから……」
女官の発した言葉を理解した瞬間、怒りの火が全身を焼いた。
なんてこというのだ。ひどい侮辱だ!
とっちめてやろうと拳をかためたところで、女官がさらに信じられないことをぬかしたのであたしはその機会を失った。
「殿下は、陛下と寝てるってもっぱらの噂よ。殿下がいらっしゃるとき、陛下はわざわざ人払いをなさっていてね……。このカードは夜伽のお召しってわけ。
いやだ、あなたその顔……知らなかったの?」
そのとき、あたしはどんな顔をしていたのだろう。あざけるようにきゃらきゃらと笑う女官の声がひどく耳障りだったことだけ覚えている。
あの姫が? あの気高い孤独な人が?
女官が去ったあともあたしはしばらく立ち尽くして動けないでいた。やっとのことで鉛になった足を動かし、姫にカードを渡すとあの人はいつものように身支度をして、すっかり暗くなった廊下を王様のもとへ急いでいった。
深夜、となりの姫の寝室に部屋の主が帰ってきたのを察知すると、あたしはそっとドアを開けて彼女がベッドに入り寝息をたて始めるのを待った。
深く眠ったのを確認すると、姫が脱いだばかりのドレスをランドリーボックスからこっそり抜いて、すばやく自分の続きの間に戻った。しっかりドアを閉めると、広げてくまなく確認する。
高貴な人にふさわしい光沢のある絹のドレスで、春らしく裾から胸元にかけて草花の刺繍が施されていた。姫の衣からは、ふくいくとした白い花の香水の香りが立ち上ってあたしを包んだ。
あの独特の生々しい男女の営みの形跡など、どこにもなかった。
清廉な姫の香りのなかにいるとまるであの人の腕に抱かれているようで、醜く疑った自分が恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
脳裏に花を楽しみにする無邪気な姫の笑顔が浮かんで、あたしはくちびるを噛んで嗚咽がとなりの部屋に漏れないように必死になってその夜を過ごした。