笛の音のリズム
あたし、さいきん変だ。
いつものように屋根の上にごろりと寝転がると、高いところを飛ぶ鳥が見えた。冬は渡り鳥の季節だ。あいつらは春を追いかけてる。あたしはどこに向かっているのだろう。
このごろ、姫を見ると逃げ出したくなるようになった。
どんな猛者を前にしても、アジトに憲兵たちが踏み込んできたときだって、逃げたくなんてなったことないのに。
あの黒い瞳に見つめられることを考えると、顔が熱くなってどうしたらいいのかわからない。
あたし、ほんとどうしたんだろ。
勘弁してほしいと思うのは、ドレスの着替えだ。下着姿に剥かれ、息がかかるほど近くでヘレナ姫があたしに着付ける。
細い指があたしの背中でコルセットを締め上げ、腕をまわしてドレスのボタンを止め、あたしのごわつく短髪に櫛を通し、きらめく宝石をつける。目と鼻の先に伏し目で作業する姫がいて、ふんぷんと姫の香水が香り、いつもくらくらとめまいがして、わーわーとわめきたい衝動にかられる。
あたしみたいのをペットにして、着飾らせて、姫は何を考えているのだろうな。
結局、姫はあのカードのことで誰も追求しなかったし、その後のあたしの無礼な態度についても罰を与えたりしなかった。
あたしはもっと、王族ってのはかんしゃく玉のかたまりみたいなやつらだと思っていた。自分より弱い立場の人間で鬱憤を晴らすのが趣味で、虐待なんて日常茶飯事なんだって言い聞かされてきたし、それを疑ったことなんてなかった。
でも、あの人はあんな理不尽な目にあっても誰にも八つ当たりしなかった。暗い部屋のなかで、人知れず身体を拭おうとした華奢な背中がまぶたの裏に焼きついてる。
あの人はあたしが思っているような人じゃないのかな。わからないけど。
むしゃくしゃする。答えのない問題を考えるのは苦手だ。
そうだ。武術の型の練習をしよう。最近さぼりがちだったし。疲れるまで動いたら、すっきりするかもしれない。
中庭におりて、高価なドレスは脱いで生け垣にふわりとかける。
うすい綿の下着姿になって、足運びを確認しながら、突き、蹴り、払い、など一連の動作を繰り返す。流れるように途切れないように、速さとキレを意識する。からだがほてり下着が汗で張り付いて、短く吐き出す息とともにモヤモヤが晴れていくようだ。
あぁ、ひさしぶりだな、この感覚。研ぎ澄まされた針先のように意識は集中していくのに、身体の感覚は逆に無限の広がりを感じる。
なんの前触れもなく、間近なところで笛の音が流れ始めた。
のびやかな明るい音色で、みれば姫がすぐ近くにいて笛を奏でている。
あたしが動きを止めようとすると、鋭い眼差しで続けるように目配せをされた。
あたしの型稽古にあわせて笛の音が追いかけてくる。
だんだん音とリズムがあってきて、足を踏み鳴らし腕をつきだす。これはもう稽古じゃない。勇壮な戦いの躍りだ。あたしに水の流れのような色気のある優雅な舞はできない。
突くように、叩き斬るように、体を動かす。
だんだん乗ってきた。
姫の奏でる笛の音が激しさを帯びる。
高く強く悲鳴のような音。
それは断末魔のようにきこえた。
苦しみもがく人の抵抗の声のような。
どうして、姫はこれほど苦しそうなの?
だれと闘っているの?
あたしなら、あたしならすべてこの手でぶっとばすのに。今までだってそうしてきたし、これからだってそうする。あたしをめちゃくちゃにするものすべて、ゆるさない。
姫はそうじゃないのだろうか。
姫はどうしてあたしなんかにあわせて笛を吹くのだろう。
それは始まったときと同じように唐突に終わりを迎えた。
ふっつりと音が途切れ、笛を置いた姫は薔薇色のほほをして、それはもう艶やかだった。
はぁはぁと上がった息を整えながら「おまえ、見事だったわ」とあたしをほめてくれる。
「次もわたくしにあわせて舞いなさい」
そう命令する姫の目が猫のようにキラキラしていて、汗で張りついた髪をかきあげる姿がおもわず息を飲んでしまうほどきれいで、むしょうに胸がかき乱された。
樹木の隙間から幾筋もの光の柱がさす中庭に立つその人には、生命の躍動があった。
あたしは走り寄っていってもっとほめられたい気持ちと、いますぐこの場を離れて姫を頭の中から追い出さなきゃいけないという気持ちのはざまで葛藤した。
結果、あたしはその場から逃げた。
姫の内心はわからない。
でも、その内側に一瞬ふれた気がして、もっと知りたいと思ってしまった。
あの人はあたしが思っているような冷血な人じゃないのかもしれない。もしかしたら、わかりあえるようなところもあるかもしれない。
そう思うのがなによりも苦しい。
◇◇◇
その晩、夢をみた。
あたしは慣れ親しんだアジトで盗賊団の家族に囲まれていて、その日の戦利品を数えながら親父に「よくやったな」とあたまをがしがしとなでられていた。
――それほどでもないよ!
――いいや、おまえは俺たちの未来だ。若いおまえが俺たちの志をつぐのがなによりもうれしいんだ。
親父が言うと、まわりがそうだそうだと同意する。あたしは照れ臭くて、鼻をこすった。
――だからな、気張って貴族のやつらを皆殺しにして、みんな奪ってやろうな。そんで、そいつを飢えてるやつらに配るんだ。
――おやじ、みんな殺さないといけないの? ひとり残らず?
――なにを当たり前のことを。あいつらは俺たちをこんなにしたやつらだぞ。
気がつけば、あたしのまわりにいたみんな、血まみれになっていた。鼻や耳が削げ、みるもおぞましい姿だ。
くちびるがなくなって歯がむき出しになった親父が、ぎょろりとあたしを睨む。
――ロビン、その姿はなんだ? まるで貴族女じゃないか。
慌てて自分の身体を見下ろすと、あたしは一目で高価とわかるドレスを身にまとっていた。焦って脱ごうとするも、背中に十個もついてる小さな真珠のボタンが外れない。
――俺たちを売ったのか? 俺たちのことを忘れて、おまえだけぬくぬくと過ごしてたってわけか?
――ちがう。ちがうんだよ、おやじ! あたしは裏切ってなんか……。
――おまえだけ、うまいものを食ってたのか? おまえだけ安全な場所にいて、敵に媚を売っていたのか? どうなんだ、ロビン!!!
そこで目が覚めた。
心臓が早鐘のように打っていて、冷や汗がびっしょりと寝間着をぬらしていた。
はー、と肺の底から息を吐き出す。
地下牢で聞いた怨嗟の声、各地で見聞きした飢えて病んだ人々の慟哭、親父たちの教え、ひとりぼっちでスラムの路地をさ迷い歩いたひもじい記憶。
それらが津波のようによみがえってきて、胃液がせり上がりえづいた。
憎むのはつらい。
でも、あたしはどうしてもこっち側の人間なんだ。