夜明けの光とあたしたちの未来
男装のヘレナと手を取り合って走る。
あたしたちは城の下男のお仕着せを着て、王だけが知る抜け道を目指して城の廊下を駆け抜けていた。お仕着せの上着の下には平民男子のよく着るリネンの長袖のシャツを隠している。
背負った鞄が一足ごとに背中でぼんぼん跳ねた。
後宮はもう半分くらい火が回っているかもしれない。
黒い煙がもだえるように廊下の天井をうねっていた。チクチクと喉と鼻を刺す煙を吸い込まないように、みんなハンカチを顔に当てている。
火と煙と革命軍から我先に逃げようとする人びとに紛れて解放された後宮の門を潜ると、至るところから怒号が聞こえた。
革命軍の人間がすぐそこまで来ているのだ!
ますますパニックになる城の人びとの群れから抜け出すと、さっとその辺にあった部屋に引っ込む。
誰にも見られるわけにいかない。
急いで上着を脱ぎ捨て、鞄に入れて持ってきた炭と灰に少量の油をまぜて顔と手足に擦り付け、髪の毛も余った油で不潔っぽくボサボサにした。
その上にすり切れてぼろぼろのマントを羽織る。
この間、一分にも満たない。
時間がない、焦って手が震えた。
あっという間に、城の下男から下町の少年二人だ。
ここから先のあたしたちは城の人間ではなく、革命軍の人間になる。
「ほんとうにこんなに汚くする必要があって?」
「これでもきれいすぎるくらいだ」
顔をしかめるヘレナはさすがにお嬢様なんだなって思う。見た目は汚したけれど、見る人が見ればすぐにわかってしまうだろう。手が荒れてないし、汗くさくもないし、なにより顔つきが違う。下町の人間はもっとすさんだ鋭い表情をしている。
でも、走っているところをすれ違うくらいならこれで十分だ。
ヒルダがアビーを通してくれた変装服の数々が役に立った。
ヒルダに感謝だ!
「ヘレナ、抜け道はどっち!?」
「お父様は礼拝堂の祭壇の奥とおっしゃっていたわ」
「それってどこ?」
「東端の棟よ!」
ところどころで見かける軍の連中は略奪に夢中だ。
指揮が全然取れていない。
目をギラつかせて金目のものを探す姿は、まるで獣のようだ。なんなんだあいつら、薬でもやってるのか。なんだか目付きが異常だ。
開けっぱなしの扉の奥から、女のかん高い悲鳴が上がる。
平民の男が女官を襲っているのだ。
それを幹部らしき男が剣の鞘で殴って止めるのが、ちらりと見えた。
「やめろっ! そんな奴より、黒髪の女を探せという命令が下っている。ヘレナ王女だ。生きていたら丁重に保護しろ。楽しみはその後だ」
もう死んでるかもしれないけどそれでも構わないと続ける幹部の言葉に、アビーに頼んだ伝言がちゃんと伝わってるのがわかった。
あいつらが探しているのは、貴族階級の黒髪の女、もしくはその死体だ。
こ汚い格好をした平民の少年は見向きもされない。
それでもあたしの手を握るヘレナの手に力がこもる。
広くて迷路のように入り組んだ廊下を駆けに駆け、やっと礼拝堂のある棟が窓の外に見えてきた。
窓を叩き割って芝生の上を一目散に目指す。
黒い鋲の打たれた分厚い扉を開くと、アーチ上の高い天井の窓からさえざえとした月光が降り注ぎ、大理石の広々とした空間を照らしていた。左右の壁際には神話の神々の彫刻が思い思いのポーズで並び、一番奥の一段高くなったところに巨大な長方形の祭壇が設置されている。
ヘレナがさっそく祭壇の裏にまわり、そこに施された神話のレリーフを丹念に確認していく。
「ええと、たしかお父様は夜の女神と昼の女神が鍵とおっしゃっていたような」
「それってたしかなの?」
「お父様はわたくしに心酔していたから嘘はおっしゃらないわ。あの方は孤独で、従順で無害にふるまっていたわたくしだけに心を許していたの。まあ、わたくしもお父様にそういうお薬を使っていたのだけれど」
「でもあいつに鞭打たれたんだろ」
「鞭くらいで済めば十分溺愛されていたと言えてよ」
暗くて見えづらそうにするヘレナの手元にランプを近づけると、ヘレナの顔の強ばりがちょっとほどけて「ありがとう」と言ってくれた。
「ほんとうは王の寝室の通路が使えればよかったのだけれど」
「でも、それは騎士団の詰め所に出るんだろ。駄目だ。あそこはもう革命軍のやつらの集合場所になってるってアビーが」
「本来はそこに王を護るたくさんの騎士が待機しているはずだったのでしょうね」
ヘレナがため息をつくと、入り口の扉の方から荒々しい足音が聞こえて、革命軍の男たちが入ってきた。相手は二人だ。ずんぐりとした背の低いやつに、細くてひょろ長いやつ。ずんぐり男は歯が抜けていてひょろ長は頬に傷があり、二人とも柄が悪そうだ。
窓から灯りが漏れたのかも知れない……。迂闊だった。この男たちに秘密の通路のことを知られるわけにいかない。
「小僧ども、そこにお宝があるのか。俺たちによこせよ」
ずんぐり男が黄色い歯をむき出しにしてニヤニヤしながら近づいてくる。
「そんなものないよ」
「隠すなって。お宝があるからこんな辺鄙なところにいるんだろ」
一応否定するあたしに、ひょろ長が茶化すように笑う。引く気配はない。
「参ったなぁ。お見通しってわけか」
あたしはヘラヘラしながら鞄のなかに左手を突っ込んで、小さな巾着袋を取り出すと男たちに投げ渡した。同時にマントの下でこっそり短剣の柄に右手をかける。
巾着の中身を確認した男たちがひゅうっと口笛を吹く。中には、女官たちがいなくなってから姫の数々のドレスや宝飾品から取り外した宝石が入れてあるのだ。パール、ダイヤ、サファイア、ルビー、琥珀などなど……種類ごとに小分けにしてさらに小さな袋に入れてある。みんな小粒だけど質がいい。小粒で裸の宝石は、足がつきにくく換金しやすいという利点がある。
夢中で巾着のなかを覗きこむ男たちへ一瞬で間を詰めると、ずんぐり男に体当たりするように短剣を背中から深々と刺した。
手に鈍い感触が伝わり、しょうがない、と思う。あたしはもう選んだんだから、しょうがない。大義名分はなにもないけど、いつもそうしていたように欲しいものを手に入れるため、大切なものを守るために必要なことをするだけだ。
ずんぐり男がうめきながら倒れると、異変に気づいたひょろ長がなにかわめきながら剣を抜いて斬りかかってくる。素早く身を屈めてかわすと、隙だらけの脚に組み付き体勢を崩させる。長い身体はバランスが悪いのか、石床に派手にあたる音がして盛大に倒れた。ひょろ長は受け身もとれず頭をしたたかに打ち付けたみたいで、すぐには起き上がらない。あたしはずんぐりの背中に刺さったままだった短剣を抜いて、ひょろ長の喉を突いた。血がびゅっと噴き上がり、ひょろ長の喉からごぼごぼという嫌な音がした。
二人ともトドメを確実に刺すと、死体の懐を探る。財布を二つ見つけると、巾着袋を拾って何事もなかったようにヘレナの元へ戻った。
「大丈夫?」
「この通りケガもないよ」
ヘラっと笑うと、ヘレナは黙ってハンカチであたしの顔についた血を拭ってくれた。
「ロビン、昼の女神と夜の女神がいたわ」
ヘレナの指差す先に夜の女神と昼の女神が仲睦まじそうに笑いあう姿が彫られていた。二人は時間を象徴する杯を両手で受け渡している。ヘレナが王の指から抜き取って持ってきた指輪を杯の上部のくぼみにカチリと嵌めた。そのままゆっくり回す。回し終えて指輪を外すと、足元の石段の下、奥の方から鈍くて重い地鳴りのような振動が伝わってきた。そして、祭壇の側面の石板がゆっくり下がり、滑り台の入り口が現れた。入り口は暗いけど、奥の方が仄かに明るい。それはあたしたちの未来のように見えた。ドラゴンの口のように真っ暗で不気味で、でも見たこともない新しい場所へ連れていってくれるかもしれない希望のある未来。
どちらともなく顔を見合わせると、一緒に滑り台に飛び込んだ。
石の滑り台はなめらかですごくスピードが出る。あたしはヘレナの身体を抱きしめた。離さないようにしっかりと。ヘレナの方からも細い腕がまわってくる。その力の強さがヘレナの思いの強さのようだった。
頭上で先ほど同じような鈍い音がして、入り口が再び閉ざされたのがわかった。
滑り台の底は、夜明け前の光のように薄青く光る苔の生えた地下道だった。その通路をどれくらい歩いたのだろう。
抜けた先は、片翼が落ちた天使像の後ろだった。石像のでこぼこを手がかりに、よいしょっと地下道から這い出ると、欠けたり倒れたりしている石像や墓碑があちこちにあるのが目に入った。ここは王都郊外の古い古い墓所だ。あたりは雑草だらけで、脚を露で濡らす。
空はもう日の出直前だった。星が薄れ、東の端が白々と明るくなっている。
西の方を向くと、王城の方の夜空がお祭りみたいに明々と燃えていた。城全体が燃えているのかも。
あたしの後から狭い通路から出てきたヘレナが、ぼんやりとそれを眺める。煤と埃で汚れていても、あたしには一等愛しく輝いてみえる。
「わたくしたち、外にいるのね。なんだか嗅いだことのない匂いがするわ」
感慨深そうにするヘレナに、あたしはちょっと笑った。だって、平民の少年にしてはずいぶん上品な話し方だから。
「その話し方も直さなきゃいけないな。当分は男言葉だ。『俺たち、外にいるんだな、なんか嗅いだことのねぇ匂いだ』って言いな」
「難しいわ……」
「『難しいな』だ」
うまく言えなくて眉を寄せて困った顔がすごくかわいいから、参ってしまう。これからは甘やかしは禁物なのに。
「わかった。慣れるまで黙っていていい。当分、あたしがなんとかするから」
「わたくしたち、これからどうしましょう」
「路銀は十分にあるから大丈夫だ。宝石を売る伝もある」
ヘレナがやや固い面持ちで頷く。
あたしは手を伸ばして短くなった彼女の髪の毛をすいた。仕方がないことだったとはいえ、惜しいことをしたと思う。いつも綺麗で艶々としていて指通りのいい彼女の黒髪を結うのが大好きだった。今は職人階級の男みたいに短いざんばらだ。
指で額にはりついた前髪をよけると、形のよいおでこが現れた。ヘレナはちょっとくすぐったそうにする。あたしはつま先立ちをして、そのまあるい額にキスをした。
ゆでダコみたいに真っ赤になった顔がおかしくて、もっとキスしてやろうと思ったら、するりと逃げられてしまう。
なんだよ。あたしはあんたの裸だって見たことあるのに、いまさらだよ。
心のなかで文句を言うけど、口には出さない。だってほんとうに恥ずかしそうにするヘレナがかわいくてこれ以上いじめるのがかわいそうだから。
「ロビン、耳が赤くてよ。慣れないことはするものではないわ」
「うるさいっ、そっちこそ赤いくせに」
「……だって、これはその、朝日のせいよ……!」
「それならあたしも朝日のせいだな」
からからと笑い合いながら、あたしたちは墓地を後にした。
朝日があたりを橙に染め上げて、目に入るものみんな明るく、あたたかにみえる朝だった。
◇◇◇
後世、歴史書には王国動乱期について下記のように記されている。
王城が炎上して崩壊してから三日後、王都では盛大なパレードが開かれた。
圧政を敷いた愚王を打ち倒した革命軍の有志とそれを率いたグラスゴー公爵を、民衆は歓声をもって迎えた。
沿道の建物の窓から花をふらせ、口笛を吹き鳴らし、ちぎれんばかりに手を振ったと記録にあるから、それはそれはすさまじい歓迎ぶりだったのだろう。
パレードの先頭には槍に串刺しにされた王の首が掲げられ、その後ろに立派な体躯の白馬にまたがるグラスゴー公爵が続いた。
なかなかの男振りで、しばらく銅版画の絵姿が流行ったと記録に残っている。
しかしながら、革命政府は長く持たなかった。
革命のリーダーとなったグラスゴー公爵は、薬物で人心を惑わし操っていた、という告発があったのだ。
このことについて、現代の歴史家の間でも議論が別れるが、どうやら近年の調査によると彼の領地が幻覚・催眠作用のある植物の栽培に適していたのはたしからしい。
このスキャンダルによって人びとの好意と期待は一気に裏返り、疑心暗鬼になって粛清の嵐が吹き荒れた。
粛清が粛清を呼び各地で内紛が多発し、貴族が徹底的に狩られ、王国は混迷を極めた。
王政だった頃の方がまだ平和だったという、当時の人の証言が残っている。
支配階級がほぼ全滅をしたころ、各都市や村で同時多発的に平民たちが中心となって治める自治共同体が組織されはじめた。
この自治共同体たちは、国というまとまりを捨て、各々ゆるやかにつながり交流をもった。
この穏やかな平民たちによる統治は、帝国に侵略されるまで約150年間続くことになる。
ちょうどそのころ、面白い逸話が残っている。
最後の王の遺児、ヘレナ姫が落ち延びて各地を旅してまわったというのだ。
彼女は侍女とともに旅芸人の一座に入って、笛や歌を披露したということだが、与太話の域を出ない。なぜなら、彼女は革命軍が城に踏み込んだその日に死亡したとグラスゴー公爵の手記にはっきり記されているからだ。姫に仕えていた女官の証言も残っている。
しかし、夢のある話ではある。
謎多き亡国の姫が侍女とともに生き延びて、当時大人気の一座の笛の吹き手と舞姫となって長生きしたなんていう話は、歴史ファンのロマンチシズムを刺激してやまない。