ほんとうの望み
覚悟を決め息を止めてぐっと短剣を首に押し当てる。
「……やめなさい!」
悲鳴があたしの動きを止めた。
あたしは短剣を自分の首から離さずヘレナを見下ろす。
「どうしていまさらあたしに命令なんてできると思うんだ?」
自分でも驚くほど白けた冷たい声が出た。ひやっとした声にヘレナがちょっと怯みながらも否定する。
「命令じゃ……ないわ」
「じゃあなんなの?」
「お願い。わたくしは、ロビンに生きていてほしいの」
答えるヘレナは自分でもどうしていいのかわかってないみたいだった。今までの仮面がすべて剥がれ、剥き出しになった彼女は、たった一人の小さな女の子のよう。今までの圧倒的な威厳も、人智をこえた美貌ももはや鎧として役に立っていない。
血で汚れた彼女は、なんていうのか、泥臭くて、必死で、生々しくて、すごく腹立たしいことにかわいいと思ってしまう。ムカつく。こいつは、とっても残酷なやつなのに。
「自分勝手だ。自分は死にたがってるくせに」
「では、わたくしはどうしたらいいの?」
泣き出しそうな表情で、ヘレナが私に尋ねる。途方にくれた迷子のようだ。
「助けてって、あたしに言って。どうしたらいいか、一緒に考えたい。あたしはあんたが望んでさえくれるなら、なんでもするのに」
「わたくしにその短剣を突き立ててくれないのに?」
「それはだめだ。あたしはそれだけはごめんだ。ぜったいにいやだ」
「では他の方法なら? 首を絞めるとか」
「やっぱりあたしを馬鹿にしているでしょ」
――こいつ、もう一発くらい殴ってやろうか。
睨むとあたしの怒りが伝わったのか、ヘレナは目を伏せた。
「わたくしが生きている限り、公爵が追いかけてくるわ。一緒に逃げることなんてできないの。捕まってもわたくしは生かされるでしょう。でもロビン、おまえはそうはいかない」
「いいよ。もしそうなっても。一緒に逃げることができるなら、あたしはそれがいい」
「わたくしがよくないわ」
「ああもう」
話が堂々巡りだ。
つまり、ヘレナは自由になりたかった。でも、その方法だとあたしを殺さなきゃいけなくなるから、今は死にたい。あたしに生きていてほしい、らしい。
あたしは、ヘレナに生きていてほしい。けど、ヘレナを生かすためなら、その過程で死んでも後悔しない。
結局、あたしたちがお互いに望んでいることは、ほとんど同じだ。
どっちも相手に生きていてほしい。そのためなら自分が死んでもかまわない。
「あたしを今すぐ殺したくないなら、あたしと逃げて。うん、と言わなきゃ死ぬから」
だから、あたしにはもう、自分の命を盾に脅迫するくらいしか思いつかない。馬鹿で卑怯な方法だってわかってる。でも、ヘレナが自分の命よりあたしの命に少しでも価値を置いているなら、もしそんなことがあるなら、彼女はあたしに逆らえないはずだ。
――王族が、自分より奴隷を優先するって? なにを寝ぼけたことを。うぬぼれもいいところだ。
心のなかで、そういうまっとうな突っ込みをいれる声がする。それはちょっと前のあたしや、親父たちや、ヒルダの声だった。
この賭けに負けたら、あたしってほんと間抜け。
再び見せつけるように短剣の切っ先を自分ののどにつきつける。
そろそろ腕も痺れてきたし、どっちにしろ今すぐ決めてもらわなきゃいけない。腕の限界が来る前に、あたしは自分の喉を掻っ切るつもりだ。
「……おまえはそれでいいの? ロビン」
「あんたが生きていてくれるなら、あたしはもうなんでもいいんだ」
あたしの下には濡れた瞳のヘレナがいて、息をしていて、あたたかくて、あたしはもうずっとずっと彼女のことだけを考えてる。
あたしのいちばん大切なものは、いまあたしの目の前にある。
だから、いいんだ。
あたしがそうしたいだけだから。
「……ロビン。お願い。死なないで。わたくしも、死なないから」
「うん」
「……一緒に逃げて」
「うん。自由になろう」
姿が滲んでぼやけていたけど、彼女がうなづいてくれたのがちゃんとわかった。
心の底からほっとして、肩の力が抜ける。こらえていた涙がぽろり、とこぼれ落ちた。
短剣を投げ捨てると、あたしは彼女に抱きついて、わんわん泣いた。
あたしの背中にもヘレナの腕がまわって、ぎゅうっと力いっぱい抱きしめられる。
ああ、よかった。
うれしくて、息苦しいくらいだ。
◇◇◇
「ロビン、寝ている時間なんてなくてよ。あなたも急ぎなさい」
アビーと別れたあと、姫のベッドで諸々のことを思い出していると、背後から聞き慣れたよく通る声がした。
忠告しながらあたしの隣に腰かけたのは、少年のように短髪になったヘレナだった。
城の下男のお仕着せをすっきりと着こなして似合っている。化粧を落とした顔は意外にも中性的で、やっぱり仄かな色気が漂っていた。
王の寝室で逃げることに決めたあたしたちは、まずヘレナの死を偽装することに決めた。
決断してからの彼女の行動は早かった。
あたしから短剣を受けとると、自らばっさりと髪を落としたのだ。念のため、身につけていた指輪をはずしてドレスも破き、それで自分の死の証拠にしたのだ。
もともとあたしが王の暗殺をすると服が汚れるだろうと思って用意していた服に姫を着替えさせ変装させると、「ほう」と声が漏れでた。意外と男装が似合っていたから。
王の人払いのおかげで暗く人気のない廊下を彼女が人目を忍んで行くと、あたしは王の寝所に火をつけて人が騒ぎ出すのを待った。
その混乱に乗じて、あたしはアビーのいる場所を目指す。みんな火事に革命軍が攻めてきたと勘違いして、パニックになったり逃げる算段をしたりに夢中で、誰もあたしのことなんて気にしなかった。
そして、アビーに王の首とヘレナの死の証を渡し、姫の部屋で落ち合ったというわけだ。
これから一緒に逃げる。
そう思うと、むずむずするような、わくわくするような、空おそろしい言葉にできない複雑な気持ちになった。夢のなかで雲の上を歩く感覚に近い。ふわふわと楽しいけど、油断したらまっ逆さまに落ちてしまいそうなこわさがある。
でも、きっと逃げきってみせる。
だって、ひとりじゃないんだから。




