ロビンの選択
王の寝所から火柱があがる。
真っ暗な夜空をなめるそれは、生き物のようだ。
いがらっぽい煙が追いかけてくるなか、あたしは炎に背を向けて後宮の通用門を目指して渡り廊下を急いでいた。突然の火事に、城内が蜂の巣をつついたように騒がしい。
あたまのどこかで、まだこんなに人がいたのか、と変に感心する。もしかしたら、あたしと同じように逃げても行くあてのない人達なのかもしれない。
――もう攻めてきたのか
――なぜ
――どうして城の奥から火が
――明日の朝って聞いていたのに
部屋から出てきて、口々に何が起きたのかささやき合う人々の混乱のなか、胸のなかの包みを誰にも見られないようにぎゅっと抱き込んだ。
いまさら逃げようと浮き足立つ下級女官に混じって、騎士たちが緊迫した表情で廊下を駆けていく。
ようやく通用門にたどり着いた。ハート型の蔦の葉にびっしりおおわれていて探すのに手間取ったけど、ぶ厚い石塀をアーチ状にくりぬく苔むした小さな木の扉がたしかにあった。
武骨な南京錠が錆びているせいで、なかなか鍵が回らず気が急く。カチッと手応えがして、一気に扉を開けた。
扉の向こうの暗がりには、姫の言った通りアビーが待っていた。
あたしが出てきたのを見てとると、ハッと顔をあげてアビーが詰め寄ってくる。
「ロビン! 殿下は?」
……あたしはその問いに答えられない。無言で首を振る。
ヘレナの死なせてくれと懇願する姿が目の奥にやきついて離れない。
アビーはあたしの態度にちょっとの間だけ固まり、すぐにふり切るように質問を重ねた。
「この火事はあなたが?」
「姫がそうしろと。全部燃やしてほしいって」
これには納得したようにアビーが頷く。あたしはそんな彼女に手のなかの包みを差し出した。
「これをグラスゴー公爵に渡してほしいって頼まれた」
汚れた布のなかには王の首の入った袋と、ヘレナの長く艶やかな黒髪とお気に入りの指輪、そして血で汚れたドレスの切れっぱしを入れた巾着がある。
包みのなかを改め終えるとアビーはきつく目を閉じ、あふれそうになる激情をおさえるように細く長い息を吐き出した。
「殿下はやはり公爵のもとにはいらっしゃらなかった……。殿下のご遺体は?」
「教えられない。あの人はたぶん、自分が死んだあとでもグラスゴー公爵に引き渡されるのを望まないから」
「……そうね。せめて安らかに眠ってほしいわ。
ロビン、行きましょう。脱出経路はこっち」
急いで確認すべきことが終わってアビーが逃走を促したけど、あたしは動かなかった。
「いい。あたしはあたしでまだやることが残ってる。これ、公爵に渡してくれるだけでいいから」
「でも……」
もしかしたら、あたしが迷惑をかけるのを遠慮しているのかと思ったのかもしれない。眉間にシワを寄せてこちらを伺うアビーに苦笑した。
「……正直に言うと、あたしはあんたに着いていきたくない。どうせあんたの行く先は革命軍だろ……。でも、あたしは今、あいつらに会いたくない気分なんだ。ごめん、あんたが親切心で言ってくれてるのはわかるし、姫がそう指示してくれてたんだろうって、ちゃんとわかってる。
でも、だからこそ今は……無理だ」
「わかったわ。無理強いはしない。元気で」
アビーは引き留めない。案外あっさりしたやつで、あたしはアビーのこういうところがけっこう好きだ。どっか懐かしい気持ちになれる。みんな必死な世界では、あまり強く人に執着しない。べったりしすぎると、なにかあったときに巻き込まれたり巻き込んだりで、一緒に沈んでしまうからだ。ヒルダはその辺、ちょっと要領が悪い。あたしも他人のことは言えないけど。
「そっちこそ、今まで色々ありがとう。ヒルダによろしく言っといて。せいぜい暮らしやすいいい国にしてくれって」
別れの言葉をかけ、アビーが去ろうとするのを尻目に、元来た道を走って戻る。
駆け込んだ先は、ヘレナと過ごしたあの離宮だった。王の寝所から少し離れているせいか、まだ火がここまで追いついていない。室内は外の騒ぎが嘘みたいに静まり返り、ヘレナの好んだ香の匂いが漂っていた。くちなしの花のように軽く奥深い香り。
彼女の寝台のシーツに顔を埋めると、さまざまな思いがせり上がってきて、くぐもったうめき声が口から漏れた。
熱い涙が頬を伝ってシーツに吸い込まれていく。
◇◇◇
殺してと懇願されたあのとき、なにが起こったか。
馬乗りになったままあたしの下にいるヘレナへ勢いよく振り下ろした短剣が床に激突し、彼女の長い髪の一房が散った。
あたしが短剣を振り下ろしたのは顔のすぐ横だったのに、ヘレナはまっすぐにあたしを見たままで、まばたきもしなかった。
小揺るぎもしないその態度に、チッと舌打ちする。ほんとに死ぬ覚悟を決めてやがる。面白くない。ぜんぜん面白くない。あたしは手の震えがおさまらないのに。あたしはヘレナの上に馬乗りになった体勢なので、癪なことにこの震えは相手に伝わってしまっているだろう。逆にあたしの尻の下からは、ゆっくりと落ち着いた呼吸が伝わってくる。もう魂の半分が、あの世のなかにあるみたいだ。
「あんたなんて、やっぱり大嫌いだ。あたしがどんな気持ちかなんて、どうでもいいんでしょう」
「どうでもいいわ」
思わず手が出て、乾いたいい音が響き渡る。ヘレナの頬が赤く腫れ、あたしはさっき短剣でざっくりやった上に力いっぱい張った手のひらが痺れるように痛い。
平然と言い切る姿が、あたしの憎んだ傲慢な王族そのもので、はらわたが煮えくり返って我慢できない。
「どうでもいい。わたくしには所詮、わからないもの」
投げやりな態度に、ほんとうに、ほんとうに溝を感じて、悲しくなる。いつもそうだ。いつもそう。あたしたちはどうやってもわかり合えない。
あたしはさっき頬を張ったときに投げ出した短剣を拾い、自分の首に当てた。
「ああ、そう。わかった。そっちがそのつもりなら、あたしは今、ここで首を切る。そのあとに好きにすればいい。当初の予定通り身代わりにするのもいいし、希望通り死ぬのも勝手」
自分の首筋に刃を添えたまま一方的に宣言すると、はじかれたようにヘレナが顔をあげこちらを凝視した。ほんの少しだけ胸がすく。
「どうしておまえが死ななきゃならないの」
「あたしだってわからないよ! もうずっとずっとわからない。自由がほしいならあがけばいい。欲しいものがあるなら、力を尽くすものだ。あたしはそうやって生きてきた。そうじゃないと、生きていられなかったからだ!
汚い手もいっぱいいっぱい使ったさ。でもそれが悪いと思ったことなんかない。だってそのおかげであたしは今生きてるんだから。あんたもそうすればいいだろ? 生きるために他人を出し抜いたり卑怯になるなんてのは、生きるために必死なやつらみんながしてることなんだよ! 馬鹿にするなよ……!」
そうだ。はじめから裏切られていたことより、今ヘレナが手前勝手に死のうとしてることの方が、ずっとずっと嫌だ。
思いの丈を叩きつけるように怒鳴った。ヘレナの整った顔がピクリと歪む。あたしはそれを鼻で笑った。自分でも八つ当たりだってわかってる。あたしが怒ってるのは、たぶん馬鹿にされたからじゃない。
叫んでいたら首に当てた短剣に無意識に力が入ってたみたいで、皮が薄く切れて血が首筋を伝う感触がした。それを目にしたヘレナの顔が青くなる。うむ。いい気味。
「こんな、なにもしないうちから……ヘレナは馬鹿だ。失敗して途中で殺されるのも、今死ぬのも同じことでしょ。無意味に死のうとしてる。あたしから見れば失敗するのがこわくて逃げてるだけの臆病者だ。
あんたがどんだけ馬鹿か、あたしがわからせてやるの。あんたがやろうとしてること、あたしが先に目の前でやってやる。それで、あたしがここで無駄死にするのを見て、自分がなにをしようとしているのかじっくり考えたらいい」
切れた手のひらの血ですべる短剣をしっかり握り直す。刀身があたしのものとも王のものともわからない血で汚れているのが目について、ちょっと嫌な気持ちになった。
「ヘレナがわからず屋だから、あたしの一等大切な大切なこの命、ドブに捨ててやるよ」
ショックで目を見開き凍りつくヘレナの姿に、はじめて鼻をあかしてやれたようで不思議に爽快な気分だった。




