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王の寝室

 革命軍が踏み込んでくるまであと一日

 明朝にはもうここは戦場だ。


 最後の日は、穏やかな夕暮れだった。

 閑散とした城は驚くほど静かで、ゆっくりとヘレナの夕食を用意した。


 といっても、あいかわらず塩コショウを振って焼いただけの肉と、野菜スープなんだけど。


 ヘレナがスープを飲み干すのをじっと見つめる。

 あたしの適当スープを口にしているとは思えないほど、品のいいしぐさ。あたしだってヘレナにマナーを教えてもらったけどとうてい真似できない。


 食べ終えるとヘレナがこちらを向いて、いままでありがとう、と表情をやわらかくした。



 あたしは胸がいっぱいになって、ううん、ううん、と言った。


「ヘレナ」と呼ぶと「ロビン」と返ってきて、ハチミツみたいに甘い気持ちになる。



 ヘレナ、あなたのためなら、あたしはなんでもするよ。



 しばらくすると、ヘレナはうつらうつらとして、長椅子にもたれかかるように横になった。いくらもしない内に深い寝息を立てはじめる。

 白い頬に黒髪がひとすじかかっているのを、人差し指でそっとよける。桃色のくちびるが薄く開いて、いつもよりあどけない印象だ。



 よかった。睡眠薬、ちゃんと効いている。適量がよくわからなかったから、怖くてちょっとしか入れなかったけど、大丈夫みたい。



 少し迷って頬に唇を押しあてる。



 ニマニマとゆるむ口を引き締めるのに苦労しつつも寒くないようにヘレナに毛布をかけた。




 ヘレナの持ってるなかでも一等上等なドレスを着て、長く伸びた髪も念入りに編み込み、顔をレースのベールで覆う。パールのピアスに首飾り、彼女のお気に入りの香水をつけて唇にきちんと紅を引くのも忘れない。すべての身支度が完璧に整うと、なごり惜しくヘレナの寝顔を目に焼き付け、背筋をまっすぐに伸ばして部屋を出た。


 手には金の箔押しのカード、ドレスの下の脚には短剣をくくりつけ、向かう先は王の寝室。

 あたしはそこで王を殺す。





 ◇◇◇





 ――逃げよう、ヘレナ。



 昨日、彼女が泣き止んだあと、あたしはヘレナに一緒に逃げようと言った。ぜったいに、うんって返事してくれるものだと信じて疑ってなかった。だって、いままででいちばん近くにヘレナを感じたし、あたしが彼女を大切に思ってることが伝わった感触があったから。



 けれど、彼女は首を縦に振らなかった。



 ――いまさらよ。ロビン。すべてがもう、遅すぎるの。


 ――大丈夫だよ。あたし、こう見えてけっこう鍛えてるし、変装道具だってあるんだ! ほらっ。通用門の鍵もあるし、使用人に化ければバレないって。


 ――お父さまを置いてはいけないわ。


 ――娘を鞭打つようなひどい親なのに?


 ――……それでも、わたくしの父親なのよ。おまえは一人で逃げなさい。



 真っ黒なヘレナの瞳の奥底には、少しもゆらぎがなかった。もがきも足掻きもしない、凪いだ湖面のような、すべてを諦めた人特有の澄みきって穏やかな絶望だけで満たされている。



 この人は、父親という見えない鎖で囚われているんだ。あたしはひどい男に殴られすぎて、離れられなくなった女を見たことがある。

 優しい人ほど、自分が悪いと思って逆らえないんだ。だって、あんなに純粋な人だから。ああ、すべて諦めるようになるなんて、王はどんな酷いことをヘレナにしたんだろう。


 王さまさえいなくなったら、逃げてくれる。

 きっと、そう。


 だって、もはやそう思いこむことしかないから。逃げる気のない人間を助ける方法なんて、あたしには思いつかない。


 逃げる気になってくれるなら、命だって賭けるのに。




 ◇◇◇




 はじめて対面する王は、思っていたのと全然違った。



「ああ、ヘレナよ。顔を見せておくれ。

 おまえはほんに愛らしい。余にはおまえだけがいればいい。

 今宵はどの曲を奏でてくれるのだ?」



 王の寝台から聞こえる声に、あたしは返事をしない。声を出したらバレてしまうからだ。いや、返事ができないと言った方が正しいかも。驚きに全身が凍りついて声が出せない。



「ヘレナ、どうしたのだ?」



 弱々しい震え声が聞こえてくるその寝台には、上等の絹地にどっしりとした豪奢な刺繍が施されている。寝台をおおう帳は半分だけ空いていて、近づくと腐った果物のような甘ったるいすえた臭いがした。その臭いには覚えがあった。死の床についた病人特有の臭いだ。


 危うく手に持った短剣を取り落としそうになった。


 ミイラのように細く皺だらけの腕が、天蓋のすき間から覗いている。さらに一歩、足を進めると、落ちくぼんだ眼窩に濁った光を放つ目玉が、愛娘の姿を探してふらふらとさ迷っているのが目に入った。



 罪のない大勢の人をあんなにも残酷に殺して、殺して、あたしが、親父たちが、みんなが憎しみ抜いた王は、あんなにも巨大に感じていた王は、スラムのすみに転がっているような、こんな惨めな老人だったのか……。



 息を詰めてかたく短剣を握ったまま動けないでいると、あたしの手を白いたおやかな手が押さえた。


「ロビンはこんなことをしなくていいのよ。これはわたくしがはじめたことだもの」


 振り向くと、そこにはヘレナがいた。

 そのまま細くて長い指であたしの指を一本ずつ丁寧にほぐして短剣を取り出すと、ベッドのすぐそばに行き、なかの人物に語りかける。



「ああ、お父様、差し上げたお薬が効いていますね。もう痛くも怖くもないでしょう。だって、そういうお薬ですもの」


 短剣を手にもっているのに、ささやく姿が天使のように慈愛にあふれてみえる。


「わたくしがいいところへ連れていってさしあげますね。

 もうあの方が待てないとおっしゃるものだから、少々痛いかもしれませんけれど、我慢なさいまし」


「あぁ、ヘレナ……」


 愛娘を見つけた老人が安心したような嬉しそうな笑顔をみせた瞬間、慈愛の天使が鋭く短剣を老人の首に突き立てた。


 しわ枯れた悲鳴が響いて、天蓋のすき間から痩せ細った腕や脚が突き出て魚が跳ねるようにびくびくと痙攣する。

 ヘレナは何度も短剣を振りかぶって叩きつけるように振り下ろした。ほんとうになんども、なんども。無表情で、作業のように淡々と、確実に息の音がとまり首と胴が離れるまでそれは続いた。


 気がつくと、ドレスを血染めにしたヘレナが王の首を持って立っていた。

 無造作に髪をつかんで、それをあたしに投げ渡す。




 腕のなかの生首は、牛のように舌をだらりと垂らし、血でぬるぬるとすべって、まだ生暖かくて、吐きそうなくらい気持ち悪かった。



 自分の父親の首を切り落としたヘレナには、悲しみもやりとげた興奮もなく、ただひたすらに冷たく凪いでいて彫像のようだった。


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