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二人の名前

 ヒルダの誘いを断った日から一日が過ぎて、あと二日。明後日の朝、革命軍が踏み込んでくる。



 湯気のたつ朝食をテーブルに置きながら、考え事をしていると「あらっ」と姫が声をあげた。


「けさはずいぶん変わってるのね」


「うん、まぁ」


 歯切れ悪く返事をするあたしに、姫は眉をあげておもしろそうにする。

 テーブルには、宮廷料理とかけはなれた、ただの野菜のスープとパンと目玉焼きが並んでいた。並んでいたっていうか、あたしが並べたんだけど。スープは火加減が強すぎてちょっと煮崩れていたし、目玉焼きの白いところには小さな泡みたいなぶつぶつがたくさんできていた。優雅にはほど遠い。


 どうしてこんなことになっているのか、それはとうとう厨房の人間まで逃げ出してしまったからだ。

 ヒルダが革命軍に投降を促したのか、昨日の会話を聞かれていたのかわからない。とにかく朝、厨房に行ったらもぬけの殻だったのだ。だから仕方なくあたしが残っている食材で作るしかなかった。あたしにできる料理なんてこれが精いっぱいだ。カラフルなソースで皿に絵を描くとか、野菜で薔薇の飾り切りなんてひゃっぺん生まれ変わっても無理。そうする意味もわからない。



 前から思っていたけど、この城、終わってる。泥舟だってもうちょっとましだ。もう全然ちゃんと機能していない。これも革命軍の切り崩し工作なんだって。作戦が順調なようでなによりだ。でも、いくら作戦といってもこんなに簡単に人がいなくなるってことは、もうとっくの昔に腐りきっていたんだと思う。表面だけなんとか持っていたのが、もう表面すら取り繕えない。

 暴徒がなだれ込んできても、城が無人でみんな戦う相手を探してきょろきょろするはめになったら間抜けでおかしい。……無人ってことはないか。側近の貴族と王族はぜったい逃がしてもらえないんだから。



「これはどうしたの? 料理長は?」


「それが……」


 言葉尻を濁すあたしに姫はすべてを察したのか、「では、これはおまえが作ったのね。おいしそうだわ」とうれしそうに笑った。


 なんのためらいもなくスープに口をつける姫にこっちが焦ってしまう。ああ、そんな。塩しかいれてないのに!


「ふふ、ありがとう、ロビン」


 スープを飲み干した姫は口許を花のようにほころばせて、あたしにお礼を言った。

 信じられない思いでまじまじと見返してしまう。


 いま、お礼を言ったよね? それに、あたしの名前を呼んでなかった? 名前覚えていたの? というか、たぶんお礼を言われたのってはじめてだ。


 あたしがよほど信じられないって顔をしていたんだと思う。姫は耐えきれないように吹き出して、ふふっ、あははっと声をたてて笑った。はじめて目にしたヘレナ姫のあっぴろげな笑顔だった。あたしたちと全然変わらない、ふつうの、ありふれた笑顔だった。


 ヘレナ姫は笑いの発作が収まると、あたしのぱかんと開けたままの口にパンをつっこんだ。

 そうして、慌てるあたしをよそにまた笑う。


 笑いのせいで黒い瞳から涙をこぼしながら、彼女は「わたくしの名前も呼んで」と頼んだ。口のなかのパンを飲み下すと、あたしはわけのわからないまま従う。



「ヘレナ……さま」


「ヘレナよ。ヘレナって呼んで」


「……ヘレナ」


「もっと」


「ヘレナ」


「もっともっと呼んで」


「ヘレナ!」



 気がついたときには、彼女の腕のなかにいた。同じくらいの身長だから肩の向こうの景色が見えて、じわじわと沁み入るようにあたたかい。姫はまだ小刻みに震えていて、笑ってるのかと思ったら、肩越しに熱い滴を感じた。おそるおそる背中に腕をまわす。細くて頼りない身体だ。幼い子どもにするようにゆっくり背中を撫でる。そうすると震えがますますひどくなって、首筋を熱い滴がいくつも転がり落ちていってあたしの襟を濡らした。


 彼女にだけ聞こえるように、小さな声で何度もヘレナって呼んだ。そのたびにうん、うん、と鼻声で返事が返ってきて、ああ、この人も人間なんだなって思った。すべてを超越しているように見えて、ずっとひとりぼっちで、でもそんなこと全然なんでもないっていうふうに振る舞い続けなくちゃいけなくて。

 きっといままで、自分の名前すらろくに呼んでもらったことがないに違いない。それって、なんてさびしいんだ。



 名前ってさ、なんていうか自分というものを世界に繋ぎ止める釘みたいなものだ。名前を呼ばれるたびに、ああ、自分はここにいるんだな、ここにいていいんだなって思える、そういうもの。

 それでさ、仲間っていうのは、名前を呼ばれたら迷いとか不安とかいうブレやユレが減って、すごくしっかり「存在してる」って気持ちになれる存在だ。


 たぶん、この人には、そういう仲間が一人もいなかったんだろうな。


 あたしには、スラムにいたときはヒルダたち孤児仲間がいたし、親父たちに拾ってもらってからは毎日たくさんの大人に名前を呼んでもらえた。そのたびに、胸の奥にちょっとずつ生きるために必要ななにかがたまっていって、その分だけ他人に優しくなれた。ランプの油みたいって言ったら伝わるかな。人から注ぎ足してもらって、そのおかげで自分が輝けるし、まわりを明るくできる。

 生まれてからずっとそんなふうに名前を呼んでくれる人がいないって、どんなんだろう。



 やっぱり、全然まったくわかりあえない気がする。姫の孤独は姫にしかわからなくて、あたしには国中の会ったこともない人に恨まれる気持ちなんてわからない。着るものも食べるものも当たり前に最上級なことも、この城から一歩も外に出たことがないことも、仲間が一人もいなくてもこの年まで生き残れることも、全然わからない。あたしには想像もできない。



 あたしにわかるのはあたしの気持ちだけで、はっきりしてるのはこの人を死なせたくないってことだけだ。


 その思いだけが、はっきりくっきり胸に浮かび上がって、あたしはぎゅっと腕に力を込めた。



 あたしがこの人の仲間になれたらいいのにな。

 仲間っていうか、もっと別の、特別な存在に。


 ぎゅうぎゅうに締め付けても、とけてひとつになんてなれっこなくて、あたしの目の前の人のさびしさをそっくり取り出すことができない。あたしの気持ちも伝わっていてほしいけど伝わっていてほしくなくて、あたしは姫が泣き止むまで名前を呼び続けた。



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