彼女の愛の行方について、
よくある悪役令嬢モノの練習としてがーっと書いてみました
なんか思ってたものと違うのが出来ちゃいましたが、まあこれはこれで
黄金色の炎が闇夜を照らすように、その娘が現れると会場が華やかさを増した。
談笑の邪魔をしない程度に流れてくるのは、今日のために呼ばれた楽隊の演奏だ。その軽やかで華やかな音楽を背景として、そっと足を踏み入れたのは目の醒めるような美少女だった。
彼女は優雅に、壮麗に、ヒールの硬い靴音を響かせた。様々な音に紛れて消えるはずの靴音は、どういうわけか、誰の耳にも届いたらしかった。
視線が集まる。
夕方から立食パーティーが行われているこの会場は広々としているし、壁に、テーブルに、天井に設けられた証明によって決して暗くもない。しかし、彼女が歩くたび、煌めきが溢れたように感じられた。
たった今入ってきた伯爵令嬢の姿に、すでに会場入りしていた参加者たちは息を呑んだ。
年齢はまだ十四か十五、今宵の宴が初のお目見えとあっては不慣れさはあるが、その落ち着いた姿、匂い立つような色気を感じさせる仕草は、果たして美少女と呼ぶべきか否か。
初々しい見た目に反して、漂う雰囲気は成熟した美女のそれである。
静まりかえったパーティー会場を、従者を付き従えて彼女はまっすぐに突き進んでいく。
もちろん、その歩みには急いでいる感じはない。されど、誰もが道を譲らずにはいられなかった。
前を向いたまま、薄く細められた目、そこに覗く宝石めいた碧眼に、壁や天井から沸き上がった光がわずかに映り込んでいる。
口元の微笑みに隠されてはいるが、あの凍り付くような厳しい眼差しはいったい誰に向けられたものか。
呆けた顔で彼女に不躾な視線を送る青年貴族たちか? 余裕ぶっただらしない顔で身勝手な妄想を隠そうともしない好色な中年貴族たちか? あるいは己の領域を守るために必死な女貴族たちであろうか?
彼女の黄金に煌めく長い髪は肩のあたりでくるくるとロールしており、この巻き方は幼さを感じさせるものではあった。
だが、豪奢な赤いドレスと相まって、彼女の容貌にはよく似合っていた。
見回せば、会場に同年代の貴族の子女の姿はないわけではない。賢そうに整った顔立ちの若君、着飾った見目麗しい乙女達が、自慢げな親の近くで挨拶を繰り返している。
そんな彼らも急に話し声が消え去った理由を探して目を向けて、その咲き誇った真紅と黄金の花、誰も彼もが目を奪われた彼女を知る。
誰にも否定することはできない。
今日の主役は彼女だ。エクセンラージア伯爵がこれまで掌中の珠として隠し続け、社交の場に一切出してこなかった孫娘。
貴族社会では権力の化け物として恐れられる伯爵が目に入れても痛くないとばかりに溺愛し、身内や信頼できる部下の他、誰の目にも触れさせたがらなかった美貌の評判は真実だった。
であるならば、もうひとつの噂も正しいのかも知れないと観衆は考える。
彼女はわずか九才にして類い希な才覚を示し、与えられた不毛の地を三年で富ませたとされる噂があった。
もちろん彼女の名前が表立って出て来たことはない。ただ、それだけの功績があれば、隠しても隠しきれないものであり、そうした不確かな噂が耳ざとい者たちのなかでは事実として語られていた。それだけの話だ。
謎めいた伯爵令嬢。
たおやかな乙女の微笑みと、どこかに妖しい美しさを滲ませた年端も行かぬ少女。
その名をナスターシャ・ヴォルフテルク・エクセンラージア。
彼女こそ、とあるマイナーな同人乙女ゲームにて、どんなルートに入っても悲運に見舞われる運命を背負わされた、儚き悪役令嬢そのひとであった。
そのひとであった、じゃないよ。
ナスターシャは完璧な微笑みを崩さぬままに、胸の裡でそっと嘆息する。
やり直しなどできはしない。
ここは現実なのだから。少なくとも、今の自分にとっては一度きりの人生なのだから。
彼女が前世を思い出したのは物心ついた頃、立って歩くことすら出来ない時分のことだった。賢いターシャ、可愛いターシャと呼ばれているうちに、ふと疑問が思い浮かんだのだ。
両親やメイドたちの会話の端々に耳を澄ませれば、聞いたこともない知識、知らないはずの地名を、どういうわけか最初から知っていた。王国や隣国の名前から、時代を代表する才人の評判についてまで……。
未来の知識がある。それを喜べたのは一瞬だけだった。それから己のフルネームを教えられて、聞き覚えのありすぎる響きに頭を抱えた。
その幼児の動きを見て両親は可愛すぎると悶え苦しんだようだが、ナスターシャ本人は未来に待ち受ける無数の地獄に恐怖するしかなかった。
ナスターシャ・ヴォルフテルク・エクセンラージア。
主人公の恋物語の裏側で、ひっそりと、しかし確実に破滅する美少女の名前だった。
せめてもの救いは、ビジュアル的にはあのゲーム中で一番美麗だった、ということくらいか。
未来の整った容姿、破滅する直前までの栄華は保証されている。よっぽどしくじらなければ完璧な美少女として自己を確立できるはずだ。
夢と恐怖を得た幼女は努力した。ありとあらゆる知識を吸収しようと、幼いながらに勉学に励み、淑女としての教育を欲し、美容にも気を遣い、また自衛するだけの能力を手に入れようと懸命だった。そうして日々を過ごしているうちに、ついに今日が来た。
伯爵令嬢ナスターシャのお披露目を目的とした、この立食パーティーこそが、最初にして最大の乗り越えるべき試練だった。
先に会場に入っていた両親がナスターシャを紹介する。今日の主役はこの娘だと宣言してから、二人はあっさりと場を譲る。次々にやってくる賓客達への挨拶回りを終わらせて、ナスターシャのお披露目にかこつけた貴族たちの社交が始まる。
あちこちで始まったのは笑顔のやり取りであり、その裏側では貴族語が飛び交っている。それらをまるで無関係のことのようにナスターシャは笑顔で聞き流し、そのくせ耳を澄まして注意深く会話を心に留めておく。
余人には察せないよう気を遣った会話でも、手持ちの情報と照らし合わせれば把握できることもあるし、自分も、いつこの手の会話術が必要になるか分からないからである。
彼女は自分がこれからどのように動けば良いかを考えて、こみ上げてくる憂鬱さを振り払うようにそっと隣を見た。
横で侍っている同年代の少年はジェイス。ナスターシャの優雅さとは真逆に、緊張でガチガチになって固まっている。こんな様子では何かあっても助けは期待出来ないな、と思いつつ、顔には出さない。
ジェイスは祖父のつけてくれた騎士見習いで、いわゆる主人公の攻略対象だ。
なんだかんだ恋のさや当てがあってルートに入った場合、主人公と結ばれるため、ナスターシャを破滅させようとあの手この手で裏で画策し始める。
今見せているガチガチに緊張した可愛らしい子犬のような振る舞いや、ナスターシャに向ける表情や言葉などはルート突入後も一切変わらず(もちろん同人乙女ゲーなので予算不足で立ち絵に変化を付けられなかった、という可能性はある)、それでいてえげつない暗躍を繰り返し、ナスターシャを獄中に送りながら、しかし主人公とは純愛そのものな恋愛を始めてハッピーエンドを迎えるという――ぶっちゃけ作中トップクラスの危険人物である。
主人公と恋に落ちるのは別によい。
しかし、ナスターシャの中の人は、プレイ中に強く思ったのだ。
この男、別にわざわざナスターシャを破滅させる必要ってなくない? と。
ナスターシャはこのパーティーから数年後、第一王子と婚約する。つまり、ジェイスとは恋仲でもなんでもないし、主人公が第一王子を狙って攻略しようとしない限り、敵対する理由などないのだ。もちろん悪役令嬢だからちょっとした嫌味のひとつ、苦言やら蔑視やらはある。
だが、その程度である。
ジェイスルートに入った主人公に対して、ナスターシャはそんなに妨害とか邪魔とかしてないし、ジェイスが主人公と結ばれたいと願ったことに対して一応批難はするが――あくまで常識的な反対である。伯爵家お抱えの騎士見習いともなればお相手の身分や立場にも気を遣う。平民育ちである主人公と結ばれるためには、いくらか乗り越えなければならない壁がある。そこをナスターシャは少しばかり皮肉を交えて突いたに過ぎない。
そして殊勝な顔で頷いたジェイスは、主人たるナスターシャに隠れて主人公と愛を交わすようになっていくのだが、しばらく後になると、突然、凄まじい勢いで背景に追いやられていたはずのナスターシャが破滅に向かって駆け抜けていくのだ。
もちろんジェイスの暗躍そのものは作中では一切語られない。本当にさりげなく伝わるよう、細心の注意を払って描かれている。
ナスターシャの中の人は改めて思う。
もしかしたら語られていなかった部分で、ナスターシャは、ジェイス相手にそこまで恨まれるような言動や行動を繰り返していたのかもしれない。
描写が無いのは、何事もなかったことを意味しない。見えていないだけで作中の登場人物たちには、それぞれの人生や生活があり、常に何かが起きているのだ。
というわけでナスターシャは己の従者、見習い騎士ジェイスに常日頃から優しくしていた。愛情とか好意とかは別にないが、優しくしておいた方が良いというかつての知識からの判断である。
ナスターシャとしては主人公が誰と恋に落ちようが――たとえそれが己にとって婚約者となるはずの第一王子であっても――いっこうに構わないのである。
ただ、彼女が誰を攻略するにしても、ナスターシャには身の破滅の危険が付きまとう。それをどうにかして回避するのが彼女の最大にして唯一の望みだった。
祖父たる伯爵にねだって領地改革に乗り出したのもその一環だ。
今のうちに、未来で押しつけられる飢餓地獄と化して叛逆者畑となる領地を少しでもまともにして、恩を売っておきたかったのである。
まるで呪いのように九割の作物が枯れ果てる地域であるため、一朝一夕でなんとかなる不毛さではない。それゆえに目立つ危険を冒してでも若いうちから手を入れざるを得なかったのだ。
もちろん、それによって救われた大量の命があったことも、誰のおかげかを知った領民から感謝されたことも悪い気分はしなかたったが。
とりあえず、脇で護衛ぶって周囲に目を光らせているジェイスについては置いておくとして、ナスターシャはゆったりと会場を見渡した。社交デビューの日程に関して調整するのは苦労した。この日でなければならかったのだ。
この場には第一王子以外の攻略対象が全員揃っている。
人垣の向こうには銀髪モノクルの変態――もとい、天才学者リーズレット子爵がいる。こいつも主人公に攻略された途端、ナスターシャを破滅させようと手を替え品を替え行動してくる厄介ものである。
最終的にナスターシャは実験対象として、どこかの廃屋の地下、暗い研究室で一生を終えることになる……らしいのだ。らしい、というのはこれまた明言はされないからである。
そのルートでのナスターシャは、第一王子というものがありながら、誰とも知れぬ流浪の騎士と駆け落ちして国外に出ていった、という結末で語られる。行方不明なのに捜索隊が結成されないのは、立場を弁えない伯爵令嬢への罰や見切りとしては、分からなくもない。ただ、リーズレット子爵が昔動物を飼っていた場所としてちらっとだけ映される背景の、立ち絵に邪魔されて少ししか見えない部分に、微妙に見覚えのある金髪が覗いている……ように見えるのである。
おいスタッフ。お前らそんなにナスターシャを苛めて楽しいか。
プレイ中に中の人は頬をひきつらせて思ったものだ。
確かに、リーズレットと主人公の逢い引きを邪魔したことはある。ナスターシャが空気を読めていなかったタイミングがあることは否定しない。だが、主人公を育ててくれていた母親が毒を受けて、その解毒剤の臨床実験の被検体にするのは、いくらなんでも外道の所業じゃあるまいか?
どう考えても監禁されて毒を投与されてからちゃんと解毒出来るかとか後遺症がないかと試されてます。本当にありがとうございました。
主人公も主人公だよ! 気づけよ! 試して上手く行ったから信用してくれって言葉をさあ!
ナスターシャは微笑みを強めた。
そうしなければ、突っ込んで叫び出したい気持ちが抑えられなかったからである。
ともあれ、危険な毒の解毒剤が作れるようになるのは素晴らしい。なので、すでに手を回して、死罪が確定している罪人相手に臨床実験が出来るような仕組みを祖父に頼んで整えてもらってある。だから最悪の場合でも、ナスターシャを誘拐、監禁して実験材料に使うことはないだろう。
彼は効率的な行動を好み、主人公との恋以外ではリスクを好まないタイプなのだ。問題がない手段が使えるのなら、そちらを選ぶと思う。思いたい。ナスターシャは思わず天を仰いだ。シャンデリアの輝きが眩く、視界がちらちらと揺れた。その物憂げな表情を目の当たりにした会場の男たちは、いっせいにため息を吐いた。
お近づきになりたいとの思いは揃ったが、互いに牽制しあって誰も近づけずにいる。
顔を下ろし、ナスターシャは逆側に目をやった。壁の花を決め込んでいたのは無骨な髭をたくわえた老紳士、ゴルランディ侯爵閣下である。
特に言及する必要は無い、というかしたくないのだが、このオッサン(六十五歳)も実のところ攻略対象である。
すごいね同人乙女ゲーム。幅広い年齢層の方にお楽しみいただけます、ってか。
ナスターシャが内心やさぐれるのも仕方がない。
この老紳士、実に紳士然とした見た目に反して――あるいは紳士というのは本質的にそうであるかもしれないが――極めて好色な男だった。
妻に先立たれてから二十余年、その間に抱いた女は数知れず、屋敷で若い女を働かせては、その大半に手を付けているという下半身元気いっぱいのクソ爺なのである。
しかし、そんな好色爺ではあるのだが、キャラクター人気は非常に高い。まず見た目が格好良い。渋くて魅力的な面差しから、昔は戦場に出ていたという筋骨隆々とした肉体美、そして主人公ルートに入るまでの強引なエロ親父という印象から、ルート突入後には伴侶を失ってから寂しさを紛らわすために真実の愛を求めて強がっていたというギャップに至るまで、そして何より攻略ルートが三パターンもある、スタッフの愛が目一杯に詰め込まれた人物なのである。
どの道筋を辿った場合でも、主人公に愛を捧げることには変わりないのだが、あの同人乙女ゲームには珍しいことに、ナスターシャ以外では唯一、破滅エンディングの存在するキャラクターである。主人公との愛を確かめ合ったあと、意図的にすれ違いを繰り返した場合にのみ発生する別離エンド。この場合、主人公に対して愛を失ったことを示すために、ゴルランディはあえて別の女に手を出す。
はい、もうお気づきですね。ここでもナスターシャが出てくるのである。
……第一王子の婚約者なのに、どういうわけか、浮気相手はナスターシャなのだ。
主人公と同い年の若い女だから当てつけに丁度良いと思ったのか、あるいは寝取った場合に互いが受けるダメージの大きさで意図的に選んだのか、それとも何らかの弱みを握ってナスターシャが抱かれたのかは分からないが、とにかく行為の真っ最中に主人公が飛び込んできて、そして売り言葉に買い言葉、醜聞そのものな言い合いが始まり、主人公とゴルランディのあいだに生まれたはずの愛情は完全に粉々になる。
しかし、消え去ったかに見えた愛情は、その後、何者かに命を狙われた主人公をその身でゴルランディが庇ったことで、本当は失われていなかったことが判明するわけだ。
致命傷を負ってしまったためか、あるいは老齢に差し掛かった体力の衰えゆえか、ほどなくしてゴルランディは死ぬのだが、最期に交わした言葉によって主人公は本当に愛されていたことを知り、美しい涙を流す。
たいへん感動的である。素晴らしい話だ。
ところで、ひとつ疑問を呈してもよろしいか。
……ナスターシャどこにいった?
ぶっちゃけ、この別離エンドのエンディングでナスターシャの存在は二度と出て来ない。ゴルランディの墓の前で泣き止んだ主人公が新たな人生を歩もうと決意する場面で終わりだ。先に語った忠犬ジェイスや変態学者のように意図的にナスターシャを破滅に追いやっている感じはしない。
しかし、思い出してみてほしい。ナスターシャは第一王子の婚約者であり、しかも主人公がゴルランディルートに入っている以上、わざわざ婚約破棄とかしてないことは自明である。
にもかかわらず、いかなる理由でか親子以上に年の離れたゴルランディに身体を許す羽目に陥り、その情事の現場を主人公に見つかり、お世辞にも適切とは言えない関係を喧伝された挙げ句、ゴルランディはあっさりと主人公と元鞘になられ、最終的には放置である。
つまり、何かあったことをわざわざ示唆しなくても、運命は決まっているわけだ。
主人公とゴルランディの愛の再確認の裏側で、ひっそりとナスターシャは社会的に死んでいる。投獄、監禁ときて、今度は風聞死である。呪われているとしか思えない。というかスタッフはどんだけナスターシャに恨みがあるのか。
あるいは適当なモブに振り分けるべきイベントを全部ナスターシャ一人で済まそうという同人乙女ゲーならではの手抜きなのだろうか。
ちなみに別離以外のルートは素直に結ばれる純愛エンドと、一度だけすれ違ったせいで主人公が他の男の元に嫁ぐことになってそれを知ったゴルランディ侯爵が略奪愛を決心して、結婚式の会場に乱入して力尽くで花嫁を奪ってしまう――通称卒業エンドである。
どっちにしても主人公と侯爵閣下は年の差を感じさせないラブラブっぷりを見せつけ、その裏側でナスターシャはひっそりと事故死している。
……なんで?
なんで、と思った方はナスターシャの中の人と同じ気持ちである。いや、本当になんで? としか言い様がないのだ。
ただ、ヒントになる情報が作中になくもない。純愛エンド、卒業エンドともに、ゴルランディ侯爵は亡くなった妻を思い出として、これからは主人公だけを愛すると誓うシーンがある。そしてこれまで手を出してしまった女性との関係は、すべて精算し終えたと語るのだ。
妾だの屋敷で働かせていた女性だのには、多額の手切れ金でも渡しただろう。しかし、それで済まなかった相手に対してはどんな対処をしたのか。
過去の女性問題の再燃はないと語られるシーンであるが、どこかコメディチックで、主人公との会話では牧歌的なやり取りが交わされるし、直後に口にされる愛の誓いのせいですっかり印象が薄くなる一言なのだが……さてさて、相手は老練で、かつては戦場のひとであったゴルランディ侯爵である。
うっかり婚約者のいる若い乙女を口説いてしまい、うっかり身体を重ねた相手が勘違いしてしまったり、しつこく切られた関係を結び治そうと迫ってきたり、あまつさえやっと見つけた真実の愛を妨げる存在になったならば――人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られて死んでしまえ、ということになるだろう。
可哀相に。ナスターシャさんは綺麗に精算されてしまったのです。
精算されたなんて、凄惨ですね。あはは。笑い事じゃない。ナスターシャの中の人にとっては、まったくもって笑い事ではないのである。なまじいかなる経緯でそんな関係になったり、そこまで始末に負えない事態に陥ったり、最終的に事故死してしまうのかの真相も明らかにならないので、別離エンドの社会的な死よりもいっそう悲惨で凄惨である。
さて、ここまで語ってきたことから明らかなように、この恐るべき、もとい愛すべき同人乙女ゲームの主人公様が誰かと結ばれると、その攻略された相手がナスターシャを様々な方法で殺しにかかってくるのだ。あと数人のサブキャラ攻略対象もいるのだが、そちらでのナスターシャの結末も無惨である。
伯爵家から勘当された挙げ句に国外追放か、戦争になった敵国の兵士に捕まって牢屋の中で陵辱されるか、第一王子の手に掛かって斬り殺されるか、である。
こちらも例外ではない。
いかなる悲しき運命――より正確にはシナリオの都合でか、主人公の幸福の影で、ナスターシャは酷い目に遭っている。しかもそれを直接的に描かれることはない。描写の仕方も意図的に裏側に追いやっている風であり、虜囚になった場合も主人公視点では、こんな表記だった。
『そして、うちの国にも被害が出てしまったのです。牢から救い出された彼女については、誰もが口を噤んでいます。助かった彼女は、もう……だから彼は憤っていました。愛するひとは、絶対に、そんな目に遭わせないと言ってくれたのです」
その彼女とやらがナスターシャとは一言も書いてない。しかし、物語の前半でナスターシャが旅行の途中でとある街に逗留する予定があると、さりげなく語られている点がひとつ。奇襲を受けた街にまともな防衛隊がなかった、つまりは戦力を持った貴族が治めている場所ではなかったのがふたつ。三つ、その話以降、ナスターシャの姿も名前も一切物語から排除されること。四つ、他のルートでそういった結末に追いやられる女性はナスターシャ以外にいない、ということ。
四つ目は若干の被害妄想も入っているが、ここまで語ってきた情報というか、シナリオライターの性格からして間違いないと思われる。
実によく出来たシナリオとも言える。
ナスターシャが悲惨な目に遭っていることが丹念に深読み裏読みしないとまったく窺えないあたりが実に嫌らしい造りである。
表面において語られる物語には綺麗なものだけが映し出されており、裏側に潜んだ仄暗い結末については注意深く伏せられている。知りたい者だけが上手く察せよ、とばかりに、シナリオライターはどのルートにおいてもさりげなく盛り込んでくれるわけだ。行間を読むプレイヤーなどそう多くないだろうに、涙ぐましい努力である。
その被害を一手に引き受けるナスターシャにしてみれば、完全無欠に余計なお世話でしかないのだが。
繰り返すが、主人公と攻略対象、つまりはヒーローとのあいだには常に感動的な物語が描かれるのだ。これはサブキャラの場合でも変わらない。
一人目は御家騒動。二人目は戦争編であり、三人目は王位継承権にまつわる争いである。ちなみに彼らも全員このパーティー会場に足を運んでくれていた。まったくもって嬉しいことである。
ナスターシャは視界に捉えた三人に微笑みを向け、それから目を逸らした。
家督を奪おうと画策する伯爵家の係累と、傭兵貴族として知られた血まみれの成り上がり、そしてラストは兄憎さを隠そうともしない第二王子である。
ここまで来るとなにが何だか分からなくなってくるが、とにかくナスターシャは転生してしまった以上仕方ないとばかりに、前世におけるこの同人乙女ゲームのシナリオを可能な限り思い出し、対処出来そうな問題には前もって芽を潰そうと努力してきた。
ゲーム中のナスターシャは数年後の姿なのだが、才色兼備の麗人、といった容貌である。
そして、親の決めた婚約者に気持ちの向いていない第一王子と、そんな殿下相手に平民育ちらしい直截さでぐいぐい距離を詰めていく主人公との恋物語において、『伯爵家の権力を背景にひどく偉そうで』『主人公に対しては常に言葉が厳しく』『ことあるごとに貴族らしさを誇示し』ながら立ち塞がる、鼻持ちならない態度と気むずかしくて全然優しくない伯爵令嬢ナスターシャは、恋愛一直線の主人公からしてみれば、まさに恋路を妨げる、性格の悪い悪役令嬢として目に映ることだろう。
さて、誰とくっついてもナスターシャに破滅を運んでくる恐怖の主人公なのだが、攻略対象として一人だけナスターシャが表立って辛い思いをするものの、他に比べれば、まだ悲惨とまでは言えない終わり方をする相手が存在する。ここまでの流れでだいたい察してもらえるかもしれないが、その人物とは、第一王子そのひとである。
そのひとである、じゃないよ。まったくもって。
このルートに入った場合のみ、ナスターシャは悪役令嬢としての役目を全うし、ちょっとばかり厳しくしていた主人公によって婚約者を奪われ、しかし被害はたったそれだけで済むのだ。清純乙女を自認するナスターシャ個人としては心理的には大ダメージを受けるかも知れないが、他ルートの地獄のような結末を散々知ったあとでは、それだけで済むなら奇跡的な軽傷とすら思える。
王子さまから婚約破棄された伯爵令嬢という評判が付きまとうのはたしかに痛い。痛いのだが、監禁されて生死不明とか、唐突な不貞の挙げ句に謀殺されるとか、いきなり始まった戦争で連れ去られて欲望のはけ口にされるとか、それに比べたら屁のような痛みである。
というわけでナスターシャは己の手で未来を掴み取る決意をしてからは、第一王子と主人公とをくっつけることを大前提としてスケジュールを組んだ。
婚約者の社交デビューともなれば、まずは一緒に参加してきちんとエスコートするのが一般的である。にもかかわらず、今日のパーティーに婚約者である第一王子の姿は無い。絶対に抜けられない王位継承者第一位の公務があるタイミングを狙ったのは意図的なものだ。
そして第一王子の参加を避けたのは、ひとえに――
「……あの、本日行われている立食パーティーの会場はこちらでしょうか……」
おどおどした様子で、会場の入り口からひょっこりと顔を出した、いかにも見窄らしい薄い青のドレスで着飾ったた平凡な顔の女の子。年の頃ならナスターシャより一つか二つ下、まるで貴族の社交とは無縁の世界で生きてきたかのような優雅さの欠片もない歩き方。その濡れた鴉の羽に似た真っ黒な髪、その吸い込まれそうな黒孔めいた瞳の闇色。
どう見ても、場違いだった。王国では不吉とされる黒目黒髪。だというのに、供も連れずにこの盛況なパーティーに一人で乗り込んできた無知な娘。その震える手には一通の招待状が握りしめられている。視線は彷徨い、助けを求めるように会場の内側を覗いている。眉をひそめた案内役が近づいていって、彼女の振る舞いを窘めるべきか、あるいは優しく手解きするべきかを迷っているのが、その背中から読み取れる。
彼女こそ主人公だった。それをナスターシャは知っていた。ようやく緊張が薄れてきたジェイスを素早く彼女の元に向かわせて、足踏みしている入り口から、中へと迎え入れる。
知人か親に言い含められてきたのだろう。彼女はナスターシャの元に慌てず騒がずゆっくりとしかし足早に(もちろん、それがひどく貴族的な優雅さからはかけ離れており、何事かと興味深そうに視線を送る参加者たちを掻き分けて)、近づいてくると、すっと膝を折って、前もって練習してきたのが丸わかりな硬い口調で、大声になる。
「ほ、本日はおまき、おま、お招きいただきまして、ありがとう存じます!」
「ええ、来てくださってありがとう」
そして落ちる沈黙。
ナスターシャは辛抱強く待った。待った。はっと気づいた主人公――アンゲリカが、自分の口で名乗るまで微笑みを崩さず、たおやかな無言を守った。
すでに両親から場を譲られた以上、主役であるナスターシャがホストだ。
ゲストたる主人公をどう料理するのも彼女の胸先三寸だった。
「あ、えと、わ、私はアンゲリカと申します! 男爵様……えと、フェームルット男爵家より参りました。どうぞよろしくお願いいたします!」
「はい、よく出来ました。わたくしはナスターシャ・ヴォルフテルク・エクセンラージア。男爵家に迎え入れられたことは聞き及んでおりますし、不慣れな環境では、相応のご苦労もあるでしょう。私の力と正しさの及ぶ限りにおいて遠慮無く頼ってくださって構いません。私は貴女を歓迎しますわ、アンゲリカ様」
ざわり、とパーティー会場に静寂がさざめいていた。談笑や食事の手を止めてまで、彼女とナスターシャのやり取りに注目が集まってしまった。ただひとつ背景の演奏だけが止まらず流れ続けているが、この据わりの悪い沈黙によって彼女は萎縮する。その低い位置から差し出された手を優しく取って、手を添えて、ナスターシャは微笑みかける。
「皆様、こちらがフェームルット男爵家のご息女、アンゲリカ様ですわ。見ての通り、こうした場は初めてのようですし、彼女が困っているときにはどうぞ皆様、手を貸して差し上げていただけます?」
大声ではない。しかしよく通る声で、ナスターシャは彼女を紹介した。場違いな少女、断絶しかけた男爵家が慌てて探し出してきた落し胤。よくある境遇ではあった。しかし、平民臭さをそのままに、あろうことか伯爵令嬢のお披露目の場に、たとえ招待されたからといって、のこのこと顔を出すのは珍しい。関係貴族のほぼ全てに出された招待なのは自明であり、木っ端貴族であれば、普通は遠慮するものなのだ。
されど、ナスターシャ当人が大勢の面前で頼るようにと伝えたならば話は別だ。後ろ盾になると宣言したのも同じことだった。
いかなる理由か、この田舎娘は初対面の伯爵令嬢からいたく気に入られたらしい。彼女を苛めるのは、ナスターシャを敵に回すこと、すなわち伯爵家の勘気を蒙るも同じこと。まるで身内に対するような護り方に従者としてこの場に付き添っていたジェイスも驚いていた。
興味深そうな視線、少しばかりちょっかいを出してからかってやろうと考えていた意地悪な暇人たちは、さっと意識を他に向ける。
恥を掻かせてやろうと思っていた貴族が果たして何人いたものか。そして、最初の洗礼がそれでは、主人公がどれほど一般的な貴族観に馴染めなくなるか。
ナスターシャは会場を見回して、賭けに勝ったことに安堵した。
このパーティーを利用して彼女が目論んだのは二つ。誰よりも先に、主人公アンゲリカを自分の庇護下に置くこと。そして第一王子を除いて、攻略対象となりうるほぼ全員と衝撃的な出逢いをさせないこと。
ナスターシャは自分が様々なことで先手を打ってきたことを自覚している。ゲームの流れ、己の悲惨な結末には繋がらない現実を作ってきたことを理解している。それでも不安だった。なんとかしてこの状況を作り上げたかった。ゲームの知識、展開から外れるように動いてきたくせに、その知識には今も縛られ続けていることが、本当に疎ましかった。
ゲーム中のアンゲリカは貴族らしからぬ行動を繰り返し、それゆえに攻略対象に気に入られる。よくあるパターンと言えばその通りなのだが、どのルートにおいても「衝撃的な出逢い」が恋愛感情に繋がる切っ掛けとなる。
ここでも例外は第一王子だけである。
彼だけは、衝撃的な出逢い、運命的な初対面が存在しなくても、ゆっくりと、着実に、相思相愛の恋仲になっていく。
だからこれは保険だった。最悪の場合でもナスターシャが破滅しにくいよう、アンゲリカとの仲を良好なものにしておくこと。そして最善の未来に彼女を導いて、自分はそれをサポートしやすい立ち位置を手に入れること。
ナスターシャは二つの目的の達成が成されたことに安堵した。ナスターシャに知らず破滅を引き寄せることの多いアンゲリカではあるが、決して本人の意思ではないし、彼女の行いが悪いわけではない。その一本気で天然気味な性格だって決して嫌いなわけではない。
むしろ主人公としては好ましい、とナスターシャの中のひとはプレイ中に常々思っていた。
気が抜けてしまったのだろう。
ふっと、造りものではない、安心と慈しみの混ざった、どうしようもなく優しい、見守るような微笑みをアンゲリカに向けていた。
パーティー会場の注目は、参加者達の視線は、まだ二人に降り注いでいた。とはいえ不吉な容姿を持つアンゲリカより、今の時点でも完成された美少女たるナスターシャの方がより強く。
そしてこれまでどこか緊張感の漂う、美しくはあるが妖しげで、どこか触れがたき微笑みだったものが、唐突に温かで、穏やかで、それでいて包み込むようなものになったとしたら、いったい何人の男たちが抗えるものだろうか。
表情や容姿に集中して目を向けていたものたちだ。その瞬間を凝視していた。余すところなく目に焼き付けてしまった。ナスターシャの失敗は、パーティが終わる前に、気を抜いてしまったことだろう。しかし無理もない。
何年もこの日が来ることを想定して、それが上手く運んだのを確信した瞬間だ。張り詰めていたものが緩んだって仕方ない。仕方ないのだ。
だから、ふっと力の抜けた美少女の微笑みに色恋沙汰に不慣れな青年貴族たちが心を奪われても、妻や愛人のある身でありながら本気で年下の乙女に惚れてしまったダメな中年、老貴族たちがいても、その圧倒的な存在感に恐ろしさを覚えていた感受性豊かな十才くらいの少年が不意に見蕩れて初恋に落ちても、あるいは恋多き女として有名だった女貴族が性別の壁を越えて身を焦がすような情念に支配されてしまっても、それらすべては仕方ないことだったのだ。
そして自分のすぐ近くで、呆けたようにその顔を見上げているアンゲリカの姿にも気づかない。攻略対象たちの様子を確かめる方に気持ちが向いていたからだ。彼らは丁度良く、他に目線が行っていた。だからナスターシャは自分の成功に素直に喜ぶ。まるで年相応の、天使のような笑顔で。
ナスターシャの不幸は、今の自分の美少女っぷりを甘く見ていたことに尽きる。
それなりに生きていたであろう原作同人乙女ゲームの時点でも、すでに絶世の美少女だったのだ。それが幼い頃から努力し続けて体型から美貌から念入りに手を掛けて磨き続けたらどうなるか。知性も能力も心根まで完璧となればどこまで高い水準か。
本人は鏡で見慣れた姿くらいにしか思わなかったかもしれないが、周囲に与える影響は恐ろしいものだった。
ずっと自分の側から離れないアンゲリカに袖を引かれて、その淑女らしからぬ振る舞いを窘める。余人に聞かれないよう優しく叱りつけたナスターシャに、アンゲリカは目を潤ませて、言った。
「あの、ナスターシャ様」
「なにかしら」
「……お姉さまって呼んでも、いいですか?」
「えっ?」
主人公の恋物語の裏側で、その悪役令嬢がどうして破滅に追いやられるしかなかったのか。
その真実を知ったとき、ナスターシャはただただ頭を抱えるしかないのだが――
かくして幕は開かれた。
超マイナー同人乙女ゲーム『彼女の愛の行方について、』によく似た世界で。
これはかかる苦難と想定外に彼女が全身全霊で立ち向かっていく、悪役令嬢ナスターシャの愛と栄光に満ちた物語である。