前編
「ねえ、何読んでるの?」
ふと耳に入ってきた少女特有のキーの高い声に、少年は思わず顔をあげる。
「その本、おもしろいの?」
返事をしない少年に、もう一度同じ声が降ってきた。
「知らない」
少年は、蚊の鳴くような声でそれだけ答えると机を叩いて座っていた椅子から腰を上げた。しかし、勢いよく立ち上がった拍子に手に持っていた本を床に落としてしまった。
すぐに拾おうと少年は、慌てて腰を屈めると手探りするように床に手を這わせた。
少年の様子を見て先程の声の主は、同じように前かがみになると少年のすぐ真横にあった黄色い本を手に取って彼の額にそっとその本を押し当てた。
「どうぞ?」
優しげな声に少年は、床を撫でていた手をとめ、鼻先にツンとくる紙の匂いに目を細めた。
「ありがとう。拾ってもらってこんなこと言うのは悪いけど、もう俺に話しかけるのはやめてほしい。あっちへいってくれないか?」
「そんな邪険にしないでよ、私もこの図書室にはよく来るの。あなた、いつもこの窓際の一番端の席に座っているよね」
「俺のこと知っているの?」
「知ってるよ。2年3組の長瀬蒼くんだよね。うちの高校じゃ、あなたを知らない人の方が少ないんじゃないかな……? きっと」
蒼、と呼ばれた少年に少女は気遣うように声をかける。
「知っているなら尚更、関わらないでくれ。嫌な思いをするのは君なんだぞ」
蒼が顔を歪めた。
「大変な事件だったもんね……。あなたを残して一家全員、家に押し入った強盗に殺されてしまうなんて……っ」
少女は話している途中でハッ息を飲むと、小声で「ごめんなさい」と一言呟いた。
対して蒼は、小さく首を左右に振った。
「いや、いいんだ。その時犯人に顔を刺されて視神経をやられ、俺は両目を失ってしまった。自分じゃもう見ることもできないけれど顔に大きな傷があるらしくて、今じゃ全校生徒が気味悪がって俺に近づかない。俺と一緒にいるところを誰かに見られたら君もきっと俺と同じ扱いを受ける」
言いながら、蒼が体制を正してその場から立ち去ろうと足を一歩前に踏み出した。しかし、伸びてきた手によって彼の動きは阻まれてしまう。
「私、すっごい不細工なの。だからもう、いじめられ慣れてるし。ちょっとやそっとの事じゃ何とも思わない。前から図書室であなたをよく見かけて、その金色の髪の毛と真っ青な瞳がすごく綺麗だなって思っていたの。友達になりたいなって思って声をかける機会を窺ってたんだけど、あなたいつも怖い顔していたから中々かけ辛くて」
腕に感じる暖かい体温と感触。これは、この少女のものだと蒼は悟った。
自分の瞳で確認する事はできないが、彼女が蒼を引き止める為に腕を掴んでいるのだろう。
「綺麗か……。女が男に言う台詞じゃないよな。それって」
「そうだね。私、4組の栞っていうの。よかったら友達になってよ」
「栞? 苗字は?」
蒼に尋ねられ、栞は言葉を詰まらせると、困ったように笑う。
「仲良くなったら教えてあげるよ」
「なんだそれ……普通先に苗字を教えて、後で名前って流れじゃないか?」
「自分の常識 他人の非常識! 蒼くんって呼んでもいい?」
「なんだかなぁ……。まあ、いいよ。そこまで言うなら、勝手にすれば」
渋々了承した少年・蒼に、少女・栞は、ほうっと息をつくと彼の腕からそっと手を離した。
*****
「蒼くん、こっちこっち」
栞の声がどんどん遠ざかっていくの感じて、蒼はそれを追いかけるように必死に前に手を伸ばして彼女を探した。
「待って。栞、手」
「蒼くんは、手を繋ぐのが本当に好きだね」
からかうように栞がそう言うと、蒼はムッとなって口をへの字に曲げた。
「別に、手をつなぐのが好きとかじゃないけど……、栞がどんどん先に行くから」
「ふふふっ、冗談だよ。安心して私に身をまかせて。ちゃんと導いてあげるから」
「なんか怖いなぁ」
「それ、どういう意味?」
少女の手が自分の手に合わさって、蒼はなんとも言えない安心感を覚えた。彼女の手は暖かくて柔らかくて、心ごと全て包み込んでくれるような優しさがあった。ずっと離したくない、握っていたい。いつからそんな風に思うようになったのだろうか。この頃、蒼は栞に少しずつ魅かれはじめていたのかもしれない。姿形見ることのできない、栞という存在に。
*****
ある昼下がり、栞に作ってもらった弁当を食べながら、蒼は前から気になっていたことを栞に問いかけてみた。
「栞、そろそろ仲良くなって2ヶ月とか経つけどまだ教えてくれないの?」
蒼の質問に、隣で同じように弁当をつついていた栞は首を傾げてこちらを見た。
「何を?」
「苗字」
蒼の言葉に、栞は決まりの悪そうな表情で目を伏せた。
「うーん。まだ無理かなぁ」
「変な苗字なのか? だから教えたくないんだろう?」
「うーん……。うん、変な苗字なの、おかしな苗字。蒼くんはいいよね、長瀬、なんてかっこいい苗字だよね」
「俺と結婚したら、長瀬になるよ? なんてっ」
冗談めかして蒼は言うが、栞は目を見張って硬直してしまった。
「……」
「冗談だよ」
蒼に笑いながらそう言われて「そうだよね」と栞も笑って返す。
そのあと、なんとなく気まずい空気が流れて、蒼は別の話題を持ち出した。
「あ、そうだ。話は変わるんだけど、栞、聞いてくれ」
「どうしたの?」
「俺の眼、移植手術を受ければ完治するらしいんだ」
「……そうなの?! すごいじゃん! いつ受けられるの?」
自分のことのように、嬉しそうな声を発した栞に蒼は一瞬頬を染めたが、すぐに真剣な顔になる。
「アイバンクという所に電話したんだけどドナーが見つかれば、提供してもらえるらしいんだ。ただ……」
「ただ?」
「誰かが交通事故とか不慮の事故で亡くなった時に、その人から提供してもらうことになるらしい。なんだかそれを待ちわびるって、誰かの死を望んでいるみたいでちょっと自分が怖くなるよ」
肩を落とした蒼の声を聞いて、栞が手に持っていた弁当箱と端を置いた。そして、ゆっくりと蒼の背後に回ると後ろから優しく抱きしめる。
「うん……だけど、それで蒼くんはもう一度自分の目でいろんなものを見ることが出ようになるんだよね……? 誰かの死を望むというよりは、その運命に感謝しよう。それで、提供してくれた人の分まで長生きして、たくさんの綺麗なものをその目に写すの。神様からの贈り物だと思って大事にしたらきっと提供してくれた人も喜んでくれるはずだよ」
後ろから回された栞の腕に、蒼は手を重ねた。
「栞、ありがとう。そうだな、そう考えることにするよ」
「うん! それがいいよ」
*****
その日、栞がいつものように弁当箱を二個抱えて蒼のもとへやってきた。
「蒼くん、元気ないけどどうしたの?」
「……」
「あのね、今日も私お弁当作ってきたんだけどお昼屋上で一緒に食べない?」
「……」
「具合悪いの? お腹痛いとか?」
何度話しかけても応答しない蒼に、栞はもっと距離を詰めておでこをあわせてきた。蒼は驚いたように、栞をすぐに引き離す。
「ドナーが、見つかったんだ。アイバンクから連絡がきた」
「そうなの? じゃあ、手術受けられるんだね?」
「いや、一度電話がきてから少し間があいてまたかかってきた。脳死判定を受けていた人が奇跡的に意識を取り戻したんだそうだ」
「そ……なんだ。それなら……」
「残念だよ」
「仕方ないよね」と返そうとした栞よりも早く、蒼は口を開いた。
蒼の言葉に栞はただただ驚いたように目を丸くしている。
「……え?」
「……なんでそのまま静かに息を引き取ってくれなかったのか、と残念でならないよ」
「蒼くん……、そういう言い方は良くないと思うよ。その人は助かったんだから、ここは素直に元気になったのを喜ぶところだよ」
栞の言葉に蒼は、眉を顰める。
「……喜ぶ?! こんなんじゃ俺はいつまでたっても移植はできないし、両目が見えないままだ! いつまでも栞に手取り足取りいろいろされるの、うんざりなんだ! もう嫌なんだこんな生活!」
「……蒼くん、どうしちゃったの?」
突然激昂してそう叫んだ蒼に、栞は体をビクつかせた、瞳には薄っすらと涙を浮かべて。
「今日はもう帰る、悪いけどほっておいてくれ」
白杖を乱暴に掴むと、蒼は栞を残してその場を後にした。