パンチ! 2
税務署から再び連絡が来たのは、その週の金曜日だった。また次の月曜に来るという。
前回のまるで取り調べのような数時間を過ごして以来、小春の食欲はすっかり失せてしまっていた。病気をしても食欲だけは無くならないのが自慢だったので、自分でも驚いていた。時間的、身体的、精神的拘束の威力をまざまざと思い知る。あれから四日も経ったのに、どういうわけか日に日に疲労感は増していくようだった。
「ハルさん、どうかしたの」
ガーベラを手に取りぼんやり見つめていた小春に声をかけたのは三岡だった。
ぼんやりしていた空気を急いで蹴散らかすように「この色、いいよね」と小春はガーベラの花首を三岡へ向け直す。まるでベルベットのような質感。熟した果実を思わせるこっくりとしたワインレッドの花びらは、幾重にも重なり、中心のきらきら輝くイエローを今にも飲み込んでしまいそうだった。
きれい、と三岡は微笑む。「なんか、大人な感じですね」ガーベラを覗き込む三岡の顔に温かなライトが差し、艶やかなまつ毛をまとった瞳は茶色く透き通った。
「三岡さんみたいだね」
含み笑いをする小春に、少し困った顔をして三岡は再び笑う。
「あれ? 否定はしないのかね、キミ」
小春がおじさん口調で意地悪なことを言うと、
「あ、そんなことないですよ」
と付け加えるように否定して、うつむいたまま、また、くすっと笑った。
三岡の仕草はいちいち女性らしく、小春はいつでも感心した。感心すると同時に少しちょっかいを出したくもなり、時々からかってみたりして、その心地良い掛け合いを楽しんだりもした。
三岡和美。小春の三つ上で、三七歳。ご主人の仕事の都合で引っ越すことになり、今年いっぱいでこの店を退職することが決まっていた。働き出して、まる四年だ。
「北海道、もっと寒いよねぇきっと。大丈夫? 三岡さん、耐えられるの?」
三岡は、手にしたガーベラを両方の指先でころころ転がしながら、
「私は自信ないですねぇ、冷え症だし」
と肩をすぼめ、寒がって震える真似をした。
「でも、子供達は楽しみみたいですよ。雪遊びするんですって」
今度はなんとも幸せそうな大人しい微笑みを浮かべる。
三岡はすらりと背が高く、美人で控えめ。小柄な小春と並ぶと、しとやかな姉とおてんばな妹、といった感じだった。杉木と並ぶと誰が見てもお似合いの夫婦に見える。小春には、自分なんかよりもずっとバランスの良い美男美女に思えた。
「なんだか冷えてきましたね」
三岡は少し屈んでストーブに手をあてた。
灯りに抱かれる花々の群れは、甘くとけ合うグラデーションやリズミカルに競り合うコントラストを織りなしながら、今日も豊かな潤いに満ちている。客に言わせると、「ここはいつでも別世界」だった。別世界から窓の向こうを覗く。薄暗い空からは雪片が落ち始めている。窓に顔を近づけると、ひんやりした空気がそっと小春の鼻先を撫でた。
「今日は外、誰も歩いていないねぇ……」
小春はため息をつくように言った。
ほんとですね、と三岡もねずみ色の寒々しい街並みを見つめる。
「だって、まだ一時半だよ? なんかもう、夜になっちゃうみたいに暗いね」
「今年は特に寒いですからねぇ。出来れば外を歩きたくないんでしょうね、みんな」
三岡は、やりかけのミニシクラメンのラッピングに再度取りかかる。頼まれものの赤やピンクの小さなシクラメンが二〇個近く、手元に並んでいる。三岡の仕事は丁寧だ。
小春は、そうだよねぇ……、と独り言のように呟いた。向かいの洋菓子屋の『手作りケーキ』と書かれた旗が、冷たい風にさらされゆらゆらしている。あの旗って幾らくらいするんだろう、とぼんやり思う。あの旗を見て、お客さん、来るんだろうか? もうちょっときれいなやつ、ないのかなぁ。あんなふうに何本も立てる必要、あるのかなぁ……。
毎年のことだが、秋の終わりくらいから気温の低下に伴って、街行く人々の姿は減っていく。この時期はこれといった大きなイベントも無く、それを裏付けるように、花を求める客足も徐々に途絶える。クリスマス頃から年末にかけて混みあうことは混みあうが、年が明けるとまた静まりかえる。三月の卒業式シーズンに再び大忙しになって、また少し落ち着く。五月、母の日は馬鹿みたいに混んで眠らずに働き、また、しんとなる。そして、お盆、お彼岸などを経て、花屋の一年は回る。忙しい時期と暇な時期がだいたいはっきりしているのだ。
花業界は物日を軸に動いている。物日とは祝い事や祭り事が行われる、いわゆる、イベント日のことだ。業界にとっては、正月、母の日、お盆、お彼岸、クリスマス――そのあたりが主力イベントと言えるのではないかと思う。細かく挙げれば、成人の日やひな祭り、ここ数年ではハロウィンなんかも食い込んでくるのかもしれない。
日本人は、なかなか「暮らしに花を」というふうにはいかないのが現状のようで、記念日でも命日でもないなんでもない日に花を買って飾る人はまだまだ少ない。
よって、取り立ててイベントの無い時期は、誰かの誕生日や誰かの記念日、誰かのコンサートや誰かの退職、誰かの結婚式や誰かの命日などに助けられながら過ごすこととなる。たくさんの誰かの、たくさんのなにかに選ばれたいと、花屋は日々腕を磨き、策を練る。
ならばもっとイベント自体を増やそうと、花業界の有志が積極的にいろいろな活動をしている。ここ数年その動きは著しいが、なにやら反発めいたものもあるとかないとかで、なかなかうまくはいかないらしい。
そんな暇な時期を乗り越えるためにも『仕事花』は必要なのだと、今なら小春にも少しわかる。
※
ええと――、と古林は人質に取っていた三冊の売上帳をテーブルに並べ側頭部を掻く。
前回と同じような色合いのスーツでまたこの二人はやって来た。定位置であるかのように椅子に収まり、本日の取り調べの準備を各々整えている。今日は前回ほど時間はかからないと聞かされていた。
2008、2009、2010、と青のマジックでそれぞれの表紙に書かれた売上帳。どれも小春の字だ。その一冊一冊の中に、これまで頑張ってきた『数字』が入っている。『数字』はすなわち『結果』だ。ものごとは結果ではなく過程が大事だ、と言う人もいるが、自営業者にとって結果はこの上ない重要項目だ。どんなに理想を語ったところで、その理想に結果がついて来ないことには、いずれ明日の飯も食えなくなる。困っていたって誰かが給料をくれるわけもなく、最終的に廃業しか道は残されない。
「実は今回、いくつか確認したいことがありましてですねぇ――」
古林は穏やかな口調で言う。
大変なお仕事ですね、なんて口で言うのは簡単だ。売上帳に含まれるその重さを、この人はどこまで理解してくれているのだろうか。雨の日も風の日も、汗が止まらぬ暑い日も、指先がしびれる寒い日も、客の喜ぶ姿を思い、理想を描き、その理想が数字につながるように知恵をしぼる――。
「我々の方で、三冊、ひと通り拝見させていただいたんですけれども――」
店売りだけでこれほどの数字を上げるのがどれくらい大変なことなのか、おそらく会社勤めの人間には想像もつかないだろう。ましてやここは都会じゃない。人口だって少ないし、だからといって他地域の人がわざわざ入り込んで流れ行き来するようなところでもない、それはそれは小さな街だ。
古林の肩の向こうに、グラスに挿されたセンニチコウが三輪、顔を覗かせている。濃いピンクのまんまるの花の襟もとに付いた二枚の葉が、蝶ネクタイのようにも見える。三人で、「がんばれー」と応援してくれているようだった。
古林は小春の視線を追うように振り返る。いやぁ、と思いついたように目尻を下げた。「それにしても――こういうところも『気遣い』ですねぇ」自分の肩越しに指差して言う。「机の上にお花が少しあるだけで――違うもんですよねぇ」
僕も置こうかなぁ、などと柔和な顔つきで腕組みをする古林に、小春は控えめな愛想笑いで応えた。同じようにぎこちない笑顔をこしらえている長谷川に少しだけ親近感を覚える。
「でも、月並みな言葉であれなんですけど……大変なお仕事ですよねぇ。きれいに見えますけど、生ものですもんね。これは――好きじゃないとなかなか、ねえ?」
古林は相変わらずやわらかな物腰でこちらとの距離を測っているようだった。
「好きだけでは勤まりませんよ。『私、お花大好きなんです!』なんて言って働きたがるくせにすぐに辞めて行く人たちを、この業界にいると本当によく見かけます」という言葉を、小春は言おうと思ったが飲み込んだ。変に話が膨らんだり弾んだりするのも面倒だ。出来ればもう、とっとと終わらせてしまいたかった。古林はきっともうしばらくすると、また前回のようにぐいぐいこちらのテリトリーに踏み込んで来るのだろう。もうその手には乗らない。小春は、ええ、まあ、と曖昧な相槌を打つ。
戻ってきた売上帳には、黄色と青とピンクのいくつもの付箋が挟められていた。
前回で少しは免疫をつけたつもりでいたのだが、たなびく付箋を改めて見つめると、古林が目を光らせて売上帳を一ページずつくまなく調べた背景がうかがわれ、小春の鼓動は急になにかを思い出したように逆巻き始めた。隅から隅まで調べ上げ、いったい何が見つかったのか。付箋の数イコール問題の数、ということなのか。だとしたら結構な量だ。小春は、見えない何かに喉元を圧迫されるような、そんな感覚を覚え顎を引く。
杉木は平気な素振りを装っているようだったが、さっきから瞬きがいやに多い。静かに大きく上下した喉仏がその緊張をこっそりと、しっかりと、こちらに訴えてくる。
小春は付箋を指差して恐る恐る、しかしそれを覚られぬよう落ち着いた口調で挑む。
「なにかありましたか」
いやね、と言いながら古林は売上帳をおもむろに開いた。「私もこういったレジを使う機会って無いもんですから……」
付箋のページを探すその手はきれいだった。滑らかで、ささくれもあかぎれも傷もない。その上、こちらをこんなにも圧迫し苦しめているのに、なんて穏やかなたたずまいなんだろう。まるで他人事みたいだ。小春は口元に事務的な笑みを作ると「でしょうね」と頷いた。
こちらにとってはすべてが初めての経験であり、今まさにその未知なる仕打ちに立ち向かわんとしているわけだが、彼らにとってはたくさんある調査先の中のほんの一つに過ぎないのだ。当事者ではないのだから他人事であるのは当然といえば当然だ。しかしそう思うと、なぜだかやるせない気持ちが湧いてくる。小春は気を改めて小さく咳払いをし、攻撃の受け入れ態勢を整えた。それから、じっと黙り地蔵のように固まっている杉木を横目で見る。キックするって、言ってたよね?
「この――」
古林は帳面に糊付けされたレシートの数字を指差した。
「右上の数字、ありますよね。これって……何の数字ですか」