バラの葉 5
「通帳見せてもらえますか」
心臓が一気に膨れ、歪むように収縮する。古林の催促にからだの髄を異様なほどの緊張が走り、小春は息をのむ。別に焦ることなどない、別に――。
時計は午後三時四〇分をさしていた。
売上帳、現金出納帳、経費帳、給与台帳、各種伝票類に決算書、消費税の申告書、所得税の申告書――。彼らはひと通り目を通し、いちど見たものをもう一回確認したり、何かと照らし合わせて計算機を叩いたりしていた。
営業利益率はどのくらいか、粗利益率はどのくらいか、その推移はどうなのか、どのくらいの花を廃棄するのか、今いるパートは勤めてどれくらいたつのか、レジの精算は誰がしているのか、精算金額が合わない時はどうしているのか――。質問の内容は徐々に濃くなっていくようだった。小春と杉木を追い込むかのように、時折、長谷川が勢いよくメモをとった。
残高が恐ろしいほど少ない通帳を六冊、小春は毅然と、しかし従順に差し出した。
古林は表情ひとつ変えず軽く頭を下げてそれを受け取ると、一ページずつ順に目を走らせ、所どころ指で数字をたどっては口の中でなにかぶつぶつ言った。それを今度は長谷川が受け取り、無言で計算機を叩く。計算機の指は、見とれるほど早い。
計算機を叩き連ねる音と通帳をめくる乾いた紙の音だけが、しばらく部屋に響いた。
異様な光景だった。
大人がふたりがかりでこの店の不正を調べている。いや、私の不正を調べている――そう思うと小春の胸中を空恐ろしさが一気に駆け抜け、駆け抜けたと思ったらまた戻って来たりして、内臓が大きく揺さぶられ、どうにかなってしまいそうな気になった。
小春は堪らず、そっと視線を売場へやる。
暖色のぬくもりの中で町宮がなにやら客と話しているのが見えた。客の姿は窓枠から外れちょうど見えなかったが、町宮の手には今朝仕入れて来たカンガルーポーが握られている。話しながら、空いている方の手をゆるく握り、招き猫のようなジェスチャーをしている。耳を澄ますと時々笑い声も聴こえる。
カンガルーポーはオーストラリア原産の花だ。『カンガルーポー』とは、『カンガルーの前足』という意味である。花と呼ぶにはためらってしまいそうなその個性的な花は、全体が短い産毛に覆われ、花の先端は細かく六つに裂けており、なるほどカンガルーの前足といった感じである。町宮が客にそれを説明していることは容易に想像できた。今日は朝から、幾度となく客にそのジェスチャーを繰り返している。定番の黄色と赤と、今朝は渋めのピンクも入荷した。
外は早くも薄暗く、店のライトがいつにも増して明るく花と町宮を照らし出しているように思えた。
しばらく眺めてから視線をこちらに戻した。古林の作業を照らす蛍光灯の白い光が無機質なほどに味気なく、冷たく感じられる。一時間ほど前までは確かにここにあった物柔らかな空気はすっかり消え失せ、今は、息苦しいほどの沈黙が四角い事務室を満たしていた。
今この場で実権を握っているのは、明らかに古林側だった。「それでは、ここから先には入って来ないで下さい」と、急に足元に一本の線を引かれた気がした。彼らの目的はこれだったのだ、と思った。おそらく彼らは何かを握って今日ここへやって来た。その証拠となるものを探すべく、あらゆる書類に目を通し計算機に指を這わせているのだ。
鼻息荒く己の店のやり方を語って聞かせた自分が滑稽に思えてきた。彼らにとってはそんなこと、最初からどうでもよかったのかもしれない。小春は静かに彼らの作業を見つめる。
古林は静かに、そして確実に、彼の任務を遂行しているようだった。顔を下に向け通帳をめくり続けるその姿はまるで、ゆっくりと距離を詰めて身を屈め、なにくわぬ顔でしたたかに獲物を狙う爬虫類のようだった。嫌なしわを刻む眉の辺りに意気込みのようなものさえ感じる。良い香りですね、と微笑み目尻を下げたあの顔が今は幻に思える。圧迫感と不安感にさいなまれるこの状況をただ黙って耐えるしか術を知らない自分が、もどかしく悔しい。
売場でレジを打つ音が聴こえた。なにが売れたのかな、と、これ見よがしに頭の中で声にしてみる。気分を切り替えるように浅く咳払いをしてみた。パソコンのわきに請求書が重ねて置いてある。市場のものと、資材屋のものだ。今月、お金、足りるかな――。
普段と変わらぬ景色を意識的に両目に映し込むと、いたずらに揺さぶられた心の乱れはいくらか緩やかになった。緩やかになったものの、この、まるで取り調べでも受けているかのような特異な状況に、心は再び打ちのめされそうになった。気持ちは何度も上下を繰り返し、同じところを行ったり来たりした。
小春は下を向き、振り切るように五回、六回と強めに瞬きをした。左手の中指の爪のわきにV字の傷が白く浮き出ている。何日か前にハサミで切った。絆創膏は、貼ってもすぐに取れてしまう。もう痛くはないが、傷口はまだ塞がりきっていなかった。その左手でさりげなく左の耳たぶを触ってみる。指先は氷のように冷たく、その冷たさで視界が急に鮮明になったような気がした。冷えた床に濡れたバラの葉が張り付いている。この四人のうちの誰かの靴裏に乗って、売場からやって来たのだろう。踏まれて五枚葉は破れ、ちぎれた葉脈に汁が黒く滲んでいる。
古林は相変わらず証拠を探している。長谷川は計算機に出た数字をメモしているようだった。
時間はとてつもなく長かった。
通帳を見せるのは、とても神聖なことのように思えた。なにかの一線を越えてしまう気がしてならない。
古林は遠慮なく、どんどんテリトリーに入り込んで来る。それを拒否する権利は無いのだろうか。プライバシーの侵害、とか。個人情報のナントカ、とか。だってこれじゃあまるで、こちらが犯人みたいではないか。そもそも帳簿を見せることだって、普通の家庭でいえば、家計簿を赤の他人に見せるようなものだ。ましてや通帳もだなんて。おかしい。馬鹿げている。なぜ自分の家の家計簿を他人に見せてあれこれ言われなければならないのか。頼んでもいないのに。悪いこともしていないのに――。
ちらりと杉木の方を見ると、両手のひらをぎゅっと握って腿の上に置き、古林と長谷川の作業をただ黙ってじっと見つめ、微動だにしない様子だった。唇は渇いて白く、わかりやすいほどに不安な面持ちだった。もしかしたら、もう既に胃痛が始まっているのかもしれない。
小春は小さく息を吐く。
少し、疲れてきた。
いったいなにをしたっていうのだろう。
レッドクローバーを立ち上げる時、小春は初めて経理というものを勉強した。学生時代だって、これといって経営や経理を学んだことなどない。二六歳の時、『図解・経理入門』、『はじめての経理・個人事業編』、『ラクラク! 誰でもわかる簡単経理』なる本を買って読みあさり、なんとか基本的なことはマスターした。わからないことがあれば本やインターネットで調べて解決してきた。毎年、確定申告書だってちゃんと期限までに提出しているし、税務署の人に何か指摘されたことだって、この八年間で一度もなかった。
一生懸命やって来たではないか――。
そう思った途端、自分が何かしでかしてしまったような気がしてきた。無慈悲にも、世の中には『一生懸命』が通じないことが多々ある。そのくらい、特に今の世の中は容赦がない。
もしかして、何か根本的なことを見落としている、とか。無意識にとんでもない脱税行為をしていた、とか。結果的に横領、とか? でも、もしそうだとしても、わざとじゃない。大切な自分の店だ。そんなことするはずないではないか。だいたい、脱税や横領が出来るほどうちには金が無い。利益はあるのに金は無い。
いったいどうなるのだろう。何を言われるのだろう。真面目にやって来たつもりだった。自分は頭の悪い人間なんじゃないか、とさえ思えて来る。
「あれ……」
それまでしきりに帳簿をめくっていた古林の手が止まる。
「おかしいですねぇ……」
古林は顔を上げぬまま、ついにゆっくりと口をひらいた。
「小野寺さん」
はい、と返事をすると、鼓動が喉を駆けのぼるように急に早く脈打つ。
「これなんですけどね――」
決算書だ。
緑の格子にゴシック体の数字が印字された、きれいな、でも冷たい感じのする決算書。
「租税公課の金額なんですが……」
そ――。
小春は息を殺す。
古林は決算書を小春へ向けた。芯をしまったボールペンの先で、『租税公課』と印字された欄を二度突く。高価なペンが、重たそうに鈍く照る。
「少し……多くはないですか」
小春は声になるかならないかの小さな声で、あ、と言う。少し申し訳なさそうな古林の言い方が、逆に胸をえぐる。
「小野寺さん、もしかして――」
古林の声が、憐れむみたいに聞こえるのはどうしてなのか。長谷川も顔を上げ、こちらを見ている。
「入れてはいけないものまで……入れてはいませんか」
低く落ち着いた、微かに優しさを残した声が、小春の心を静かに圧迫する。古林は眼鏡を下にずらし、小春の顔を覗き込むように続ける。
「たとえば――、所得税とか」
ふと泣きそうになる。
「おととしの――、予定納税分とか」
「予定納税は入れていません」
震えそうになる声を皆に覚られまいとして、かえって大きな声になってしまった。小春は無意識に両手のひらをぎゅっと握っていた。自分の耳が、かあっと熱くなるのを感じる。握っていた手は反対に、すうっとますます冷たくなって、手首のあたりが震えた。
「所得税、入れていたかもしれません」
言ったあとで、すぐに付け加える。
「でも、ずっとじゃありません。去年と……おととしはどうだったかな、間違って入れてしまったかもしれません」
入れていたのか入れていないのかも、正直いって今はわからなかった。言い訳に聞こえることなど知っていたが、どうしようもない。
「それからですねぇ――」
小春は奥歯を噛みしめた。長谷川のペンの音が聴こえる。何かを書いている。
「課税取引と非課税取引、ちゃんと分けていますか。例えば、商品券を販売した時とか、賃借料を支払った時だとか」
「ごちゃごちゃに……なっていたかもしれません」
決算書の数字を、どれということもなく見つめて言う。もう、押し殺したような情けない声しか出なかった。
「ごちゃごちゃに」
復唱する古林に小春は微かに頷いた。視界の端に、よれたバラの葉が映った。ペンの音が追ってくる。
「それから――」
古林は眼鏡をかけ直し、ため息でもつくように鼻から息を吐く。それから、ペンを持ったまま中指で額を掻いた。
「外注分、つまり、他へ頼んだ注文やなんかの利益分って、どう処理されていましたか――」
まな板の上の鯉ってどんな気持ちなのだろう。身体は冷えているのに胸は焼かれるように熱く、だからといってなにも出来ず、ただただ小春はすべてを受け入れた。
机の上のゼラニュームの花びらが一枚、はらりと落ちる。きれいだ、と思った。
午後四時三八分――。
いやぁ――、と古林は優しげに微笑んでみせる。
「レッドクローバーさんは毎年パソコンできれいに確定申告書を作って提出されているから、今までこちらとしても、なにも疑うような箇所が無かったというかなんというか――」
そう言いながら後片付けを始める。
「経理、どこかでやっていた経験あるんですか? 普通の方は、なかなか自分でここまで出来ませんよ」
感心したように言う。ボールペン、書類、計算機、順にしまわれていく。
小春はただ、いえ、と小さく頷いてみせた。
しかしここは寒いですねえ、花屋さんは温度を上げるわけにもいきませんものねえ、僕には到底勤まりませんねえ、大変なお仕事ですねえ、昔からお花が好きだったんですか――。会話は当たり障りが無く、小春にはどれも白々しく思える。
小春を支配していたのは、圧倒的な敗北感にほかならなかった。公務員の男は、自営業の女の、ひたむきに積み重ねてきた自尊心を、ピカピカの靴で知らない顔して踏んづけた。踏んづけられて気がついた。すべてにおいて自分の詰めが甘かったことに――。調べても何も出て来ないのでは、なんて、そんなことを一瞬でも思った自分が恥ずかしかった。小春は、ありがとうございました、と頭を下げる。「いろいろわかってよかったです」
寒いでしょう、と杉木が出した熱い緑茶を飲み干し、また少し雑談し、古林と長谷川は来た時と変わらぬ表情で店を後にする。
彼らは売上帳を三冊、税務署に持ち帰った。