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バラの葉 3

 その日、午後二時ぴったりに彼らはやって来た。店に入ってくるなり、客ではないことはわかった。

「どうも、先日お電話いたしました、長谷川と申します」

それに続いて、もうひとりの男も頭を下げる。

古林(こばやし)と申します」

 やっぱり二人だ。中年と青年。上司と部下。電話の主は部下、長谷川だ。 全身から(にじ)み出る物々しい雰囲気。コートからは冷たい外気の匂いがする。黒くて四角い鞄、中にはなにが入っているのか。どうやってもこの店の感じに馴染まない、異質な二人組だ。

 いやぁどうも、と杉木はいつも客にするような穏やかな笑顔で彼らを出迎えた。「今日も寒いですねぇ」どうぞこちらへ、と二人を奥へ促す。

「今年の冬って、なんかいつもより寒いですよねぇ?」

杉木の笑顔はこんな時でも人を和ませる。

 ええ、と上司の古林が会釈する。「まったくです。今日はまた格段に寒いですよねぇ」

 小春も精一杯穏やかな微笑みをつくる。そして、杉木と彼らのあとについて事務室のドアを閉めた。




 町宮には税務調査が来る旨を伝えてあった。ピンと来ないようだったが「心配いらないですよ」と、彼女はいつもと変わらぬ調子で笑った。

 杉木にはネットで調べた税務調査のだいたいの流れは伝えておいたが、体調を悪くする人がいることや、なんらかの情報を握って彼らがやって来るということは伏せておいた。もちろんマルサの話も――。

 聞き慣れない靴音。嗅ぎ慣れない整髪料の匂い。密室。

 いつも使っている部屋なのに今日はなんだか狭く感じる。相手がスーツを着ているというだけで気後れしてしまっている自分を隠すように、いやぁそれにしても、と小春は笑顔で口火を切る。

「なんだか緊張してしまいますよね、税務調査だなんて。経験がないし」

始まりのゴングを聴いた気がした。

 いやいや、と古林は小春に低く手をかざす。そんなに緊張しないでください、と少し(かしこ)まり微笑んでみせた。脱いだコートを手早く丸めると、「預かりましょうか」と言う小春にまた手をかざし、あぁお構いなく、と軽く頭を下げ「大丈夫です」とかばんの上にコートを置いた。長谷川もそれを真似るように自分の足元にコートを置く。

「いくつか質問はすることになりますが、まあそんなに肩に力を入れずに。あ、そうそう――」

古林は思い出したように名刺を取り出した。長谷川も追って差し出す。

「しかし寒いですねぇ」

白く曇った眼鏡をハンカチで拭いながら、古林は場をつなぐように言った。事務室の中をさりげなく見渡している。風で乱れた頭髪にはわずかに白髪がまじり銀を放つ。さっと手で撫でつけると、あっという間に床屋に行きたてのように整った。中肉中背。優しげというほどでもないが、そう強面でもない。普通。いたって普通だ。

 税務署の人間といったって、話してみると別になんてことはない。店に仏花やら花束やらを買いに来るオジサン客といくらも違わない。いや、むしろ彼らより物腰もやわらかいではないか。コートやスーツや鞄で外見上の印象がほんの少し変わるだけの話だ。税務調査官とは(いか)つくて事務的で冷たい感じのものである、と勝手に想像が膨らんでしまっていたのだ。そう、普通の人となんら変わりはないのだ――。

 小春はそっと名刺に目を下ろす。古林紀夫、統括国税調査官とある。歳は五十を過ぎたといったところか。『統括』というくらいだから、きっとこう見えてやり手なのだろう。その肩書が課長クラスなのか係長クラスなのか部長クラスなのか見当もつかないが、まあそれなりに偉いんだろう。肩書だったらこちらにだってある。『レッドクローバー代表』だ。

 ところであなたは、という顔つきの古林に小春は説明する。

「書類上は杉木が代表となっていますが、実質、うちは共同経営です。経理全般は私が担当しています」

「ああ、そうでしたか、小野寺さんが――」

古林は小春の名字を口にした。壁に掛けてあった花の資格の賞状を見たのだろう。いや、もしかしたら最初からすべて知っていたのかもしれない、そう頭をよぎると小春の中を不安が足早に通り過ぎた。

「しかし、あれですねぇ――」

古林は感慨深げに口を開く。

「お花屋さんって……僕なんかは普段、なかなか来る機会がないんですけど――」

そう言って細い縦窓から見える売場に目をやる。

「良い香りですねぇ」

笑うと目尻が下がって、穏健な印象が増した。

 良い香りですね、と言われて初めて自分の職場が香りで溢れていることに気づく。花屋とは大概そんなものだ。それはそうだろう、朝から晩まで毎日ここにいるのだから。

 古林は、え、と訊く。「しないんですか」

 杉木が、ああ、と微笑みながら応える。「僕らは毎日ここにいますからねぇ。この香りが普通になってしまっているのかもしれません」

 贅沢ですねぇ、と感嘆する古林が大袈裟に思えて少しおかしい。花にはそういう力があるのだ。人を温かい気持ちにさせる。小春は謙遜するように微笑んでみせる。「なあ?」と古林に言われ、長谷川も合わせるように微笑んだ。

 古林は、癒される、としみじみと頷きながら鞄を開く。「やっぱり、アロマテラピーだとか、そういった効果ってあるんですかねぇ」と古林が楽しげに小首をひねると、杉木も「かもしれないですねぇ」などと少し嬉しそうに頷いた。

「花にはなにか特別な力があるってことなんでしょうかねぇ、疲れをやわらげたり気持ちを明るくしてくれたりだとか」

「ああ、それはあるかもしれないです、うちのお客さんもよく言いますよ、ここへ来ると元気になる、って」

「ああ、やっぱりそうですかぁ」

 小春は口元に笑みを貼り付け半ば身をゆだねるようにそのやり取りを眺めていたが、黒い鞄から姿を現した計算機を目にするや否や我に返った。変わらずやわらかな表情の男たちを尻目に、唇に乗せた笑みは引き、心の中で慌てて古林と自分との間に一本の線を引く。不用意に気を許してはいけない。

その後も談笑はしばらく続いた。

 ここは開店して何年になりますか、花業界の景気のほうはどうですか、リーマンショックの影響はやっぱりありますか、震災の影響はありましたか、一人暮らしですか、休みの日は何をして過ごしますか、ゴルフはしますか、お酒は飲みますか、仕入れは市場からだけですか、花の在庫はここにあるだけですか、葬儀の仕事はやっていないのですか、広告やダイレクトメールなどの営業活動はしないのですか、待ちの姿勢で経営は成り立つのですか、では余った花はどうするのですか――。中には、失礼とも思えるような、ややとんちんかんな質問もあった。

 元来、素直で人なつっこい性格の杉木は、古林との談笑に楽しささえ見出し始めた様子だった。小春は胸の中で「単純」と呟いた。

 もう一人の男、長谷川和樹。肩書は国税調査官。二十七、八歳ぐらいだろうか。細身で色白。白いというよりは……蒼い。背は高いが少し姿勢が悪いようで、スーツに妙なしわが寄っている。なんか、ストレス溜まっていそう。不満を抱え込んで、同僚なんかと愚痴っていそう。黒髪は、常に向かい風に当たっているようなスタイリング。低血圧そう。あ、富士額だ。左の薬指に指輪。へー、結婚してるんだ。古林と杉木のやり取りを、時にすごい勢いでメモしている。この仕事に就いて何年くらいだろう。五年か六年? この仕事は楽しいのだろうか。この人にもいずれ『統括』という肩書が付くのだろうか。また、それを望んでいるのだろうか。

 小春は壁の時計を見る。そろそろ本題に入る頃かもしれない。

「それではですねぇ」

古林が切り出した。古林も壁の時計をちらっと見る。

「まず、2008年2009年2010年の帳簿を拝見したいのですが――」



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