時代の真ん中 3
二月二九日、水曜日。
「それではわたくし、今から行って参ります!」
杉木は足を揃え、敬礼する。
午前の低い陽光が窓を差し、ほのかなぬくみとなって壁を染めている。アナログ時計は着実に春への時を刻んでいた。
「いってらっしゃい!」
小春が顎を引き敬礼を返すと、町宮も真似て敬礼した。
分厚い封筒を上着の内ポケットにしまい込み、杉木は銀行へと出かけた。
どうにか金はそろった。五〇〇円玉貯金は、数えてみると三〇万円あった。いや、正確には二九万九五〇〇円。杉木が「せっかくだから」と売上から五〇〇円入れて三〇万円にしたのだ。
売上は思いのほか伸びて、二六日が九万九四七三円、二七日は八万五〇七五円、二八日は一二万二三四七円を記録した。その合計は、三〇万六八九五円。四四万には届かなかったが、ここ最近にしては驚異的な伸びに思えた。小春は喜ぶと同時に、はなから諦めていた自分を密かに恥じた。
「ヨウさんが帰って来たら――もう行くんですよね」
町宮が伝票をかざして訊く。仕事帳をめくり、今日一日の仕事の流れをチェックしている。
「うん、なるべく早く帰って来るから、よろしくね」
「了解です」
町宮はこなれた調子でオッケーサインをかかげた。主に三岡が担当していた仕事も請け負うようになり、日に日に頼もしさが増している。
昨日、タカノ建築デザイン事務所から依頼があり、これから杉木とふたりでその打ち合わせに向かうことになっていた。タカノはこの辺では一目置かれる、洒落たデザインを手掛ける建築事務所だ。大きなウィンドウと温かみのある木で建てられたオフィスは、前を通る度に、粋だ、と感じる。
来月開かれる会社創立二〇周年記念パーティーの会場の装飾花一式を頼みたいとのことだった。結構な個数になるらしい。
タカノの社長と面識はなかったが、先方の話によれば、どうやら社長は個人的に度々レッドクローバーに来店しているらしかった。奥さんへの誕生日にアレンジを毎年贈っているという。奥さんが、毎年とても楽しみにしているのだという。
「あ、ハルさん――」
言い忘れてましたけど、と町宮が振り返る。
「昨日、注文の電話あったんですよ」
「誰から?」
町宮は片眉を上げ、にっと笑みを浮かべた。
「一条さんから。会長の一周忌法要の時の花がすごく気に入ったんで、お友達にもぜひ贈りたいんだそうです」
ほんとに? と小春が声を上げると、町宮は勇むようにガッツポーズをしてみせた。
あ――。
わかった。
小春はエプロンのポケットから計算式の紙をとり出し広げてみた。書き並べた数字。学校の授業でもこんなに一生懸命に計算したことなどないのではと思うほど、あれこれ考えた跡がうかがえる。数字のわきに、『量産』とか『効率』とか『利益』とか『品質』とか『薄利多売』とか『税込』とか『よしだ』とか『さの』とか、いろいろと書き込んでいる。
『貯蓄』に大きく矢印を指し、『結果』と書き足した。
そうだ。『貯蓄』は結果なんだ。結果として、金が貯まるのだ。
金を貯める方法ばかりを考えていた。
ちがう。金は――――。
「行くぞ、ハル」
杉木が戻って来た。
出来る気がしていた。点と点は繋がって線になった。線は線と繋がって、やがてまだ見ぬ何かが姿を現すだろう。小春はまたそっと、ポケットから紙をとり出す。
「なにそれ」
運転しながら杉木がちらりと覗く。
「なんでもないよ」
小春は反射的によけた。
「なんだよ」
「いいってば」
「秘密か、このやろう」
「秘密だ、このやろう」
「いいから、ちょっと見せてみ」
杉木が紙を取り上げる。信号で止まるとそれに目を下ろし、なんじゃこりゃ、と笑った。
奪い返し、「暗号です」と小春も笑う。
空は晴れていた。
冬至を過ぎて、昼の時間が少しずつ長くなっている。もうすぐ春分の日が訪れ、昼と夜は同じ長さになる。その翌日からは、一日、また一日と昼が長くなり、凍った大地もじきに目覚め始めるだろう。
スーパーの入り口でポールにつながれたぶち犬が、中から出てきたおじいちゃんに待ちわびたように尾を振る。タクシーの運転手は老婆の手を引き、足元を見ながらゆっくりと後部座席へ進む。信号機はカッコーカッコーとのどかに鳴き続け、自動販売機は来るかもしれない客を静かに待ち続けている。
杉木がふと漏らす。「おまえ、すげえな」
小春はハンドクリームを塗った手をフロントガラスにかざす。「なにが」
なんていうか……、と杉木は前を見たまま首をひねる。
「やっと終わったのに、ハルの中ではもう何か始まってるんだなぁ、と思って」
はえーな、と杉木は笑う。「そんなふうに人を突き動かすものって……いったいなんなんだろうな。どうしてハルはそんなにやれるんだろ」
斜め前の車の男が大あくびをした。隣の軽トラのおじさんはアルミにくるまったおにぎりをほおばっている。駅前経由の市営バスは今日も老人たちで溢れていた。
人を突き動かすもの――。
夢、熱意、信念、理想、希望、プライド、責任感。いろいろな言葉をかき分けて真っ先に浮かんだもの――。
「おもしろいから」
小春は言った。言いながら気づく。いつもどんな時も、胸の奥にある感覚。「おもしろいからだね、きっと――」
「おもしろい?」
杉木は怪訝に眉を寄せる。「おもしろいって、なにが」
小春はまっすぐ前を見据えて言った。
「商売が」
すがすがしい気持ちが小春の胸を満たし始めていた。薬屋の赤い看板、塾の青い看板。くだもの屋の緑色のテント、居酒屋の筆字ののぼり。目に映るすべてのものが鮮やかに彩られ、街の中の色という色がまるで動いているように見えた。不況でさえがエネルギッシュに息づいているように思える。
駐輪場で立ち話をするおばさんの水玉のエコバッグ。錆びた自転車。宝くじ売り場に立つ誰かの背中。冬枯れの木々。空っぽのプランター。太ったカラスが一羽、街路樹の間をわがもの顔で闊歩する。
「ヨウちゃん――」
お、と杉木は身構えた。
「なんか思いついたか」
「なにそれ」
「俺くらいになるとわかるんだよ。目が輝いてる」
どうだか、と小春は笑った。
あーあ、と杉木は大きく息を吐き出した。「なんでだろ」と愉快そうに言って伸びをする。「なんか俺、ハルといるとなんでも出来そうな気がしてくる」
道端のハボタンは、ゆっくりと花芽らしきものをもたげ始めていた。おじいちゃんがひとりで営んでいた八百屋があった場所にコンビニが建った。三浦さんがかつて勤めていたスーパー『いずみ』の跡地には、この秋、ホームセンターが出来るという話だ。
杉木はふと笑い、なるほど、と頷いた。
「俺、わかった」
「なにを」
冬の香りを残した風は、杉木の髪をすべり小春の頬を撫でた。
「どうしてハルの周りにいつもみんなが集まるのか――」
「どうして」
杉木は前を見たまま、ただ微笑んだ。
小春は流れ行く街並に目を向ける。消えて生まれる、生まれて消える。そうやって街は変わっていき、時代は動いていく。時代の大きな流れの真ん中に、誰もが今、立っているのだ――。
ふとん屋のおじさんが、ワゴン車に貸ふとんをいっぱい積み込んでいる。
家具屋のおばちゃんは、玄関マットの砂を落としている。
古本屋の店主は、シャッターを半分だけ下ろしてどこかへ出かける。
蕎麦屋のだんなが、のれんを掛けて店の中に戻る。
食堂のおかみさんは、店先を掃きながら道行く人に挨拶している。
パン屋の健介さんは、奥さんと二人で店前に置かれたボードになにか書き込んでいる。杉木の短いクラクションに振り返り、笑って手を上げた。
みんな、この時代に生まれた。
「戦友……」小春は呟く。
隣に白のワゴン車が並んだ。
「ヨウちゃん、見て、キミジマフラワー」
乗っているのは、いつか市場で見かけた眼鏡の青二才だ。こちらに気づいてたどたどしく頭を下げた。後ろにたくさんの葬儀花を積んでいる。
「がんばってるんだねぇ、みんな」
小春も頭を下げた。
自転車屋の若旦那は、店先でなにやら部品をいじっている。
ペットショップのオーナーは、ウィンドウに張り紙をしている。
美容室の奥さんは、カウンターで客にコートを手渡している。
魚屋のおっちゃんは、発砲スチロールの箱をホースの水で洗っている。
戦友――。
この時代を生きる自営業者たち。小さな店も、大きな店も、大きな会社も、きっとその苦労に大差はない。
この道の先にどんな未来が待ち受けているのか。
杉木が、あっ、と声を上げる。
「ハル、あそこ! タンポポが咲いてるぞ」
ともに走る大切な戦友。
きっとずっと、荒野は続く。
今日も、明日も、あさっても、この荒野を走り続ける――。
完
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