バラの葉 2
フラワーショップ・レッドクローバーは、小野寺小春と杉木陽一の共同経営だった。別々の花屋で過ごしていたふたりが、今までにない魅力的な花屋をつくろうと意気投合してレッドクローバーをオープンさせたのは、今から八年前、小春が二六歳、杉木が三三歳の時だ。
『高品質・多品種・少量・多頻度仕入れ』を理想にかかげ、葬儀花やブライダルの装飾、卸売り、スクールなどの、いわゆる『仕事花』はせずに、『店売り』と呼ばれる店頭販売メインの店を目指した。
周囲の関係者からは「そんなの無理にきまっている」と笑われた。「売れ残った花はどう解消するんだ」、「そんなの、やれるならみんなとっくにやってるよ」、「高品質・多品種・少量ってことは、高い値段で仕入れるってことだぞ、わかってるのか?」、「大都市でもあるまいし」、「夢だけじゃ食べていけないんだよ」、「花屋は儲かると思っているんじゃないのか」、「だいいち、やった人いないじゃない」と、時に愚弄とも思える数々の貴重な意見を浴びせられた。
しかし、若かったふたりは走り出した。どうせすぐにだめになる、そんなに甘いものじゃない、と周りは思っていたに違いなかった。それでも知恵を絞り、夢中で八年間を走り抜けて来たのだ。
世の中がどんどん不景気に向かっていくこの時代は、まるで障害物競走のようだった。ハードルが現れればひょいと跳び越え、平均台には足元に気をつけて慎重に挑み、トンネルがあればほふく前進で懸命にくぐり抜けた。岩肌が立ちはだかればロープを探し、川が行く手を遮れば、泳いで渡るか筏を作るか回り道をするか、ふたりで徹底的に議論した。
当初はあれこれ言っていた諸先輩も、開店して一年が過ぎ二年が過ぎと時を経るにつれ、みな何も言わなくなっていった。経営初心者のふたりがつまずきながらも前進し続けここまでやって来られたことは、奇跡と呼ぶに値したかもしれない。少なくともこの時代においては――。
ふたりはよく夫婦と間違われた。あうんの呼吸で次々と仕事をこなしていくその姿は夫婦であるといってもそう違和感はなかったが、実際は違っていた。互いに独身ではあっても、その種の感情はこれといって持ち合わせてはいなかった。「奥さん」とか「だんなさん」と呼ぶ客もあったが、面倒なのでいつしか特に否定もしなくなっていた。
ふたりの関係性をあえて言葉で表すのなら『同志』がいちばんしっくりくる、と小春は思っていた。
※
小春はまず、インターネットで調べてみることにした。税務署がやって来るまであと二日ある。下調べしておいた方がなにかとスムーズに事が進むかもしれないと思った。
午前七時一六分。今日は市場が休みだ。杉木が出勤するまであと三〇分はあるだろう。小春はひとり、冷えた事務室のストーブをつけ腰かけた。
《税務調査》と打ち込んでエンターキーを弾くと、嫌な鼓動が内から胸を叩いた。ああ――まさか、こんなキーワードで検索する日が来るなんて。税務調査なんて、どこかよその会社で起こる出来事だと思っていた。血管の中で血が逆流でも始めたような感じがして気色が悪い。
一七五万件ヒットした。
画面に連なる青く角張った文字。『税務調査とは』、『税務調査一一〇番』、『税務調査対策』、『税務調査問答集』、『税務調査時期』、『税務調査手続き』、『税務調査撃退法』、『税務調査事前通知』――。
税務調査はある日突然やって来て誰もが戸惑うのだということは、その画面をざっと眺めただけで十分理解できた。
手当たり次第に読み進めて行く。どこかの親切な税理士が書いた解説や、実際に調査を受けた誰かの体験談、中には元税務調査官が書いたものまであった。どれも税務調査の流れなどが細かく説明されており、中でも実際に体験した人の話は固唾をのんで読み込んだ。
税務調査官はたいてい二人でやって来るらしかった。ベテランの上司と部下という組み合わせが多いらしい。最初は何気ない世間話から入り、場が和んだところでいよいよ本題に入る。帳簿のあれこれを隅から隅までチェックされ、これはなんだ、あれはなんだ、と聞かれる。場合によっては、その作業が数日間にわたって続くという。あまりの重圧に体調を悪くしてしまう人もいるらしい。
ドラマで見た警察署の取り調べ風景が頭に浮かんだ。机と椅子しかない部屋で、向かい合った警察官が机を、バン、とやる。「お前がやったんだろぉっ?」――蛍光灯、マジックミラー、留置場、拘置所――。
「わ……」
思わず声が出て、とっさに検索画面を閉じる。デスクトップに現れた画面いっぱいに広がるチューリップ畑を見るといくらか気持ちが落ち着いた。青い空に黄色のチューリップが映えて眩しい。
なんとなく机のわきのゼラニュームを指先でツンとやる。なにかの時に一〇〇円ショップで買った背の低いグラス。透明なガラスの半分より下に、線の細いクローバーがいくつも描かれている。緑のグラデーションがすがすがしく、一〇〇円ショップといえども意外に繊細なタッチだ。花屋御用達の資材問屋の扱う花瓶とはまたちがう可憐さがあり、小春のお気に入りのグラスだった。
そっと深呼吸をする。大丈夫。これはあくまでも、悪いことをした人の話だ。うちはなにもしていないんだから大丈夫にきまっている。そう自分に言い聞かせる。
再び画面を開く。
税務署側は、なにかしらの情報を手にしてやって来るという話だった。つまり、調査に来た時点で、多かれ少なかれ追徴課税されることはほぼ確定しているということだった。
途中で目に飛び込んできた『マルサ』という文字が不安を増長させる。マルサとは国税局査察部のことだ。
そういえば以前、映画で見たことがある。ある経営者のもとに強制調査が入る話だ。やり手の国税局調査官が経営者を追い詰め、摘発するのだ。学生の頃、レンタルビデオかなにかで見たのだと思う。当時は金のことなどろくに知らなかったが、大人たちが交わす黒い会話がリアルで、所どころ意味が解らないことが余計に怖かった。
それにしても、『強制』だなんて、なんて物騒な言葉だろう。強制調査といえば、数年前、世間を騒がせた事件があったっけ。あれはIT関係の会社だった。時代の寵児などと騒がれ、よくテレビで見かけた。その後、あれよあれよと言う間に強制調査、家宅捜索……逮捕。
逮捕――。
そして誰かのサイトにはこうあった。『押しと粘りではどうにもなりません。冷静な対処を』――。
口の中がからからに乾いていていることに気づき、小春はごくりと唾をのんだ。思い出したように瞬きをする。思考がまた悪い方へ悪い方へと膨らむのを感じ、違う違う、と早口で言い首を振る。
税務署から電話が来た時点で、それは任意調査ではないか。強制調査ではないのだ。なにも怖がることなどない、なにも――。