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金が無くても、そう言うかしら 4

 BGMはアコースティックギター。タッピングとスラップを効かせて紡ぎ出す音の中に、泥臭いブルースが匂い立つ。小春のお気に入りであり、杉木のひいきでもあった。

 楽器らしい楽器に触れたことのない小春にとって、空気のように身近でありながら決して手中に収まりきることのない音楽の世界は、ゆえにいっそう輝きを増して眩しく、ひとつひとつの細切れの音たちが連なって繰り出す作品は、耳を澄ませば澄ますほどスリリングに鮮やかに無限に世界を彩って、色にも似た魅力を解き放った。形は無いのに次々と姿を変える音楽はまるで花のようで、それだけで小春を惹きつけて離さなかった。

 今朝仕入れてきた花々の下葉の処理をしながら、小春はひとり、思いを巡らせていた。

 ライトに浮かぶ、香り立つ花々。持ち手の取れたブリキのバケツ。なにかの時についた壁の傷。ステレオの小さな青い光はギターのリズムに合わせて繊細に震えている。棚に無造作に積まれた色とりどりのラッピングペーパー。寒さに耐えてじっと春を待つ、アロカシアの鉢植え。秋の名残りのおもちゃカボチャがレジの横でふたつ寄り添う。窓の向こうには今日も薄日の街並みが佇んでいる。

 小さい頃は歌手になりたかった。テレビの中で歌う、夢の国みたいな衣装を着た可愛らしいアイドルたちに胸をときめかせ、リボンを真似たり母にピンクの口紅を塗ってもらったりして、鏡の前を上機嫌で行ったり来たりした。父が仕事帰りに買って来てくれるアイドル雑誌をワクワクしながら眺め、歌本の歌詞の漢字に、よくふり仮名をふってもらった。

 小学校の半ばを過ぎると、芸術家になりたいと言って両親を困らせた。もともと手先が器用で、図画工作が得意だった。テレビで見た画家や彫刻家やグラフィックデザイナーたちのアートの世界に魅了され、世の中にはこんな仕事があるのか、と衝撃を受けた。近所の本屋で、何やらよくわからない高価なアートの写真集を、姉や兄にも内緒で祖母がこっそり買ってくれた。祖母はどんな夢も大切にしてくれた。

 中学の時、病院の世話になったことがあり、看護師になりたいと思った。担当の看護師さんが明るく優しい人で、仕事をしている姿がいきいきとしていて素敵だった。人に「ありがとう」と言われる仕事の存在を、初めて意識した。その時読んでいたヘルマン・ヘッセの小説を「随分難しい本読むのねぇ」と感心され、少し誇らしい気持ちになったのを覚えている。

 高校に入り本格的に進路を考える時期になると、出版業界へ進みたいと思うようになった。振り返るといつも本と一緒だった。雑誌も、写真集も、小説も、参考書もマンガも、すべての本に誰かの英知が詰まっている。読んで得て、得ると実になり、本は自分の身体の一部となることを知った。それまで手にした一冊一冊が特別なものに思えてきて、その思いを胸に専門学校へと進んだ。

 専門学校へ通う中で始めたバイトで、花と出会った。たちまち花の虜になった。知れば知るほど奥深く、自分の手の中で万華鏡のように無限に表情を変えるフラワーデザインの世界は、飽きることが一度も無いと同時にパーフェクトも存在しなく、それがいっそう追いかけたい気持ちにさせ夢中にさせた。

「夢」

小春は声に出して言ってみた。 

 傍らにあった純白のストックの花房をそっと包み込むように握ってみる。ケーキの上のホイップクリームのように、ふっくらふりふりと優しい。鼻に近づけると、早春の匂いがした。

 昨日早めに店を閉めて、パソコンを買いに行った。一〇万七三八〇円の金があっけなく出て行った。

 互いにあえて触れはしないが、杉木との昨日の空気は未だ尾を引いていた。幸か不幸か、町宮は今日は休みだ。杉木は配達に出ている。

 杉木の言うことがわからないわけではなかった。確かに、ここ最近の売上はひど過ぎた。客が抱えている金銭的不安もわかっているつもりだ。杉木の言う通り、オープンした当初とは比べものにならないくらい、年々不景気に拍車がかかっている。あの頃とはもう状況が違う。花屋に限らず、今あるどこの店もどこの会社も、きっと何らかの苦渋の選択を強いられてここまでやって来た。既に無くなった店も会社も数えきれない程ある。ここまで来ると、もはや生き残りを懸けた生存競争だ。

 そんな状況に置いてもなお、理想を声高に掲げる自分は……やはり傲慢だろうか。杉木が言った「夢とか理想とか」という言葉が、頭の中で重たい振り子のように大きく揺れていた。

 すがるように、またストックの香りを嗅ぐ。甘く優しく、少し切ない匂い。甘く優しく――。

 なんだか昔の夢が甘いキャンディーのようにきらめいて、うんと遠くに見えた。次々と移ろう夢は、日々を楽しく豊かに彩った。思い返すといつだって何かに夢中で、真っ白い大きなキャンバスにその時々の夢をはみ出すほどに大きく描いては、その先に、これまで見たことのない何かがあるんじゃないかと胸を高鳴らせていた。その、見たことのない何かを見てみたかった。それを探すために、あれこれ懸命に調べたり勉強したりしてきた。

 小春は手を止め、顔を上げる。

「繋がってる――」

今、自分が立っている場所を見渡してみる。花屋、レッドクローバー。

「繋がってるのかも」

夢を持って専門学校へ行き、花と出会い、花の道に進むと決め、ミサトワークスの門をたたき、いつかは自分の店をと夢見てレッドクローバーを立ち上げた。そう、全部一本の道で繋がっているではないか――。だとしたら、今も夢の続きを見ていることになる。

 今の夢って――――なんだろう。

 改めて考えると、よくわからなくなっていることに気づく。結局のところ、自分はどうなりたいのか。どうしたいのか。どう生きたいのか。何が欲しいのか。何が見たいのか。

 ひとつ確かなのは、おそらく同じような夢を見ている人がいるということだ。杉木だ。

 ワゴン車のドアを閉める音が聴こえた。杉木が帰って来たらしい。まもなく、すました顔を決め込んで入って来るだろう。

 仲直りしよう。別にどちらが正しいとか間違っているとか、そんなことは問題ではない。この先もふたりは前へ進んで行くのだから、ああでもないこうでもない、と話しながら行けばいい。なにしろ、まだ夢の途中なのだから――。

 杉木が息を弾ませて入って来た。外の冷えた空気を連れている。ピンクに染まった頬にからし色のダウンジャケット。前に「その色似合うね」と小春が言ってから、そればかり着るようになった。小脇に抱えていた住宅地図と配達伝票を、作業台の上にばさりと置く。

 ごめん、と小春が言うより先に、杉木は素早く缶コーヒーをひとつ突き出す。「すまん」

 小春の好きな、ストライプ柄のエスプレッソだった。




「いただきます」

一緒に言ってくれる相手はいないが、自分の部屋で飲み食いする時にも必ず口に出して言う。小春は発泡酒に口つけた。

 日当たり良好、1K、家賃三四〇〇〇円。一人暮らしには十分な間取りだった。

 湯冷めしないよう、一枚羽織る。缶を置き、二人掛けソファーにごろんと横になる。花屋は立ち仕事だ。ただでさえ足が疲れるのに、この季節は冷えも相まってますます膝下に疲れが溜まる。両足をえいと持ち上げばたつかせ、ふくらはぎを強く揉んだ。

 普段は部屋で酒などあまり飲まないが、今日は帰宅時に近所のコンビニで一本買った。いま一度考えようと思った。夢の続きのその先にあるものと、そこにたどり着く方法を。

 まず、整理する必要があった。レッドクローバーを今後どんな店にしていきたいのか。そのために今することは何か、また、しないことは何か。結果がなかなか出ないのはなぜか。いつも金がないのはなぜか。これから先、世の中はどう変わっていくのか――。

 必ず方法はあるはずだ。仕事だって別に、まったくしていないわけじゃない。売上こそ低いが、今日だって退院祝いとか誕生日とか仏事用とか、いろいろと注文は来てはいるのだ。それになによりも、今日の杉木の話で、夢の輪郭が見えた気がした。

 小春は寝転がったまま、テーブルに置いてあった本をとった。時々読む経営雑誌。いちど読み終えたものだが、何度となく目を通す。     

 産業空洞化に見る日本の未来・異業種交流のすすめ・企業をダメにする3つのこと・混迷の時代を生き抜く思考とは・一流を知る・Win‐Winで行く・アウトソーシング・コンプライアンス・キャッシュフロー経営・PL・5S・AIO・4P・4C・OBM――――。

 杉木は今日、「すまん」と言った。配達先で見たらしい――。




「絵?」

「そう、絵、絵、油絵。すげえ感動した」

杉木は鼻をすすった。頬には白桃のように無垢な赤みを残している。まあこれでも飲んで、とストライプ柄のエスプレッソを差し出した。

「だめだなぁ、俺って。小さい男だなァ、目先のことばっかり気にしちゃって」

今度は右手のひらを縦にして口に出さずに、すまん、と言う。 

「良いものを提供していかなきゃ――」

杉木は首をひねり頭を掻いた。「やっぱりだめなんだな……」

 杉木が配達に行っていたのは、駅の向こうにあるギャラリーだ。今日から開催される油絵の個展に、アレンジをふたつほど届けた。

 ギャラリーに入るやいなや、並ぶ絵のその美しさに息をのんだという。

「まさかなぁ……うちのアレンジが絵になっているとは思わないもんなぁ!」

杉木は未だ興奮が覚めやらないようだった。  

 レッドクローバーのアレンジが油絵になって、額縁の中にいくつか納まっていたという。ドラマティックに繊細に、光をまとって儚く強く、それらは輝いて見えたという。

 絵の主は杉木を奥まで案内し、レッドクローバーの花々を見せてくれたらしい。

「六五、六歳くらいかな、おじさんなんだけど、花が好きで、娘さんに年に何度かうちのアレンジを貰うらしいよ。家が遠いとかで、本人はうちの店に来たことはまだないんだって」 

からし色のダウンジャケットを脱ぐと、外の空気に混じって杉木の匂いがした。

「『一度お邪魔したいと思っているんです』って言ってた。うちの花、好きなんだって。いつも見たことのない花が入ってて、楽しいんだって。色づかいも勉強になる、って。必ず絵にしてるらしいよ。中でも俺がいちばん、お! って思ったのは、紫のバンダのやつ。青地に白の網目模様がさ、なんていうか、すごくいいんだよ。ドキドキするんだ。ハルにも見せてあげたかった」

杉木は身振り手振りをして夢中で話した。そんな杉木を、まずは温まりなよ、と小春は笑ってストーブへと促した。

「思ったんだ、俺――」

杉木は両手をストーブにあてた。

「やっぱり、良い花を売るのがうちの役割だね。ハルの言う通りだ。俺が間違ってた。うちの花を楽しみにしている人たちが、きっともっと、たくさんいるんだな。花は俺らの手を離れたあとも、いろんなところでずっと感動を与え続けてるんだ――」

杉木はもういちど言った。

「ハルにも見せてあげたかったよ」




 小春は経営雑誌を閉じた。ソファーから身を起こすと、シャンプーの香りが立った。

 現金な奴だと思えるほどに、一日二日で杉木の言動は変わった。しかし、それこそが真意であるような気がした。

 客商売を生業(なりわい)とする者は、おそらく皆思いあたるところがあるだろう。客のひと言でたちまち生気を失って思い悩み、客のひと言でたちまち勇気が湧いて立ち上がる。

 ふと思う。もしかして、これまではき違えていたんじゃないだろうか――『お客様は神様です』の言葉の意味を。商売とは、思っている以上にアナログで、泥臭いものなのかもしれない。だってそれはそうだろう、すべてが人力なのだから――。

 手をかざす。小春は風呂上がりの自分の手がいちばん好きだった。くまなく血が巡り、ほんのひと時だが、柔らかくしっとりとした指先を楽しむことが出来る。

 その指先に、ついに見つけた。小さな小さな、針の先ほどの黒い点。湯のぬくみを残した肌を左の親指と人差し指でつまむと、いとも簡単に棘が浮き出た。おそらくバラの棘先だ。一ミリもない。

 刺さっていた箇所を押してみる。嘘のように痛みが無い。あんなにしつこく何日も痛んでいたのに、こんな小さなものを取り除くだけですべてが解消されるなんて――。

 小春は残りの発泡酒を勢いよく飲み干した。


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